処遊楽

人生は泣き笑い。山あり谷あり海もある。愛して憎んで会って別れて我が人生。
力一杯生きよう。
衆生所遊楽。

わが人生 縁と恩に有難う

2024-07-13 18:20:06 | 

著者 田中 俊孝

出版 神奈川新聞社

定価 1500円+税

頁数 170頁

 

        

 

 

2023年10月から3カ月間、神奈川新聞に62回に渡り連載された中小企業の社長の自叙伝である。 

自身が経営者として歩んできた人生とは何だったのだろうか。果たして、功成り名を遂げたと言えるのだろうか。人生のターニング・ポイントで去来した思いが、そのまま書名の『縁と恩に有難う』になった。そんな素晴らしく素直な感謝と奮闘の一代記である。

著者とはほぼ同世代。ここで登場する昭和の世相やトレンドやゴシップ、熱気などは殆ど共有できる。ちなみに、私のIDの一つは〈vintage.shonan-boy.1946〉であることを告白しておこう。”右型上がり”やら”護送船団方式”と名付けられ、国際的にも類を見ない”分厚い中間層”が我が国を支えた時代である。自分を信じ仲間との紐帯に意気を感じ、為せば成ると確信に満ちた時代。一実業家の生きざまは、即同時代を生き抜いてきた我々一人ひとりの物語でもある。悪戦苦闘、愛別離苦、慙愧の念、欣喜雀躍みな収まっている。

とりわけ印象深いのは著者の父君への思いであろうか。行間に散見できる。艱難を乗り越えたのは遺訓によるところが少なくない。
そのいくつかを抜粋する。
・同年代と遊んでも得るものは少ない。どうせなら、年上と付き合え。
・お前ひとりが出来ることは高がが知れている。だから、できる人間を使える人間になれ。
・まかぬ種は生えない。
・感謝を忘れるな、礼節を欠くな。
・自分のしたことは必ず自分に返って来る。一流の店に行け、そこには地元の一流の人がいる。
・借金をしたら最後の一円まで返さないと次の成功はない。
・信義を通せ、逃げるな。
・身近な所から商売を始めるな。
・10年頑張れば固定客がつかめる。それまで自分の力を尽くせ。
・相談できる人を持て、人生の宝物になる。そして感謝の気持ちと礼節を忘れるな。
・読書で得た知識が何らかの縁によってよみがえり示唆を与えてくれる。

特別な言説ではない。当たり前のことどもである。しかしこれを素直に実践して苦境を切り拓いてきたところにこ御仁の父君へのリスペクとDNAを感じる。

23年8月に子息に代表権を譲ったとある。ひとまず、衷心より慶祝の辞を贈らせて戴こう。

時は誰人にも平等に流れる。だが、どのような時を刻むかはそれそれの心で決まる。行動で決まる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厄除け詩集

2024-03-02 16:42:34 | 

 ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

        

幾つの齢の頃か、恐らく高校生時代からか妙に気に入った一節だった。
小気味よくリズミカル、明るい諦観と力強さ。意表を突くカタカナ表記のなせる技か。
後年井伏鱒二の作と知るに及んで氏の漢詩の造詣の深さと力量の並々ならぬものを感じたのだった。

もとは中国の唐の詩人于武陵の詩「勧酒」であり、井伏はそれを抄訳しカタカナで表している。
于武陵の詩とその書き下し文は下記になる。
 =原詩=     =書き下し文=
「勧酒」        「酒をすすむ」
勧君金屈巵    君に勧む 金屈巵
満酌不須辞    満酌 辞するを須いず
花発多風雨    花発けば 風雨多し
人生足別離    人生 別離足る 
  ≪註≫金屈巵:黄金の金盃,満酌:なみなみと酒を注ぐこと,不須辞:辞去する必要なし,足:多い
次が井伏鱒二の訳
コノサカヅキ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

井伏鱒二には漢詩和訳が17編あり、それらを収録した『厄除け詩集』は多くの出版社から出されている。
その中には李白の「静夜思」もある。

牀前看月光    牀前 月光を看る  
疑是地上霜    疑うらくは是 地上の霜かと
擧頭望山月    頭を挙げて 山月を望み
低頭思故郷    頭を低れて 故郷を思う

高校時代に教室で散々唱和してきたおそらく日本人に最も愛されて来た漢詩の一つであろう。
井伏によるとこうなる。
ネマノウチカラフトフト気ガツケバ
霜カトオモフイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイショノコトガ気ニカカル

原詩の五言絶句を見事な七五調に載せ、リズミカルに時にはコミカルに表現する大胆さは実に気持ちがいい。
手にした『厄除け詩集』は田畑書店版。英訳詩集は、ウイリアム・I・エリオットと西原克政が訳者である。小振りの愛すべき造りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宇宙・七つの不思議

2024-02-25 18:41:33 | 

実に面白い本、楽しい本である。  読者が読み進むにつれて湧いてくる疑問を予め予期していたようにその道標や解説、解答が提示されてくる。その先はどうなっている?ああそういうことかと得心を得る。宇宙という未知の世界が、何が判って何が判らないのか、それは何故なのか、際限があるのか無いのか。普段思いを致したことのない大空・宇宙の建付けが、分かり易い語彙と流れるような文章、加えて適切なグラフや図解で理解を促してくれる。

   

書名のサブタイトルが《宇宙誕生の謎から地球外生命体の発見まで》とある通り、現在の宇宙研究の中で、飛躍的に進歩している分野は「宇宙の始まり」と「宇宙における生命」の研究だそうで、それを七つの章に分けた宇宙門外漢あるいは初心者への全解説書というのがこの著作の特徴といえようか。
ここで掲げている七つの不思議は以下の通り。興味を引き付けずにおかない(ブログ主には)。
 1,火星の水と生命の行方
 2,第二の地球・無数の地球
 3,沈黙を続けるETたち
 4,宇宙の果てから来る光
 5,目には見えない宇宙の主役
 6,高次元空間に浮かぶ膜宇宙
 7、宇宙が人間を生んだ意味

何といっても最も動かされたのは我々人類の地球外生命体の探求の飽くなき挑戦の姿である。ミステリアスでスリルに満ち夢とロマンに溢れているのだ。

丁度今日2月25日付朝日新聞 ”日曜に想う”が、アメリカ国防総省がUFOとUAPに関するウェブサイトについて日本の国会で質疑されたことを紹介しつつ、「地球外知的生命体について考えることは、地球の文明や科学を相対化し普遍性を問い直すこと、愛、戦争、宗教といった概念を、他の生命体も共有しているのか。(中略)問いは尽きない」と綴っていた。

         

佐藤勝彦(東京大学大学院理系研究科教授)監修のこの本の結語はこうである。
宇宙を問うこと。
それは結局、人間を問い、私を問うこと。
なぜ、人間は宇宙のなかに生まれたのか。
なぜ、私はここにいるのか。
それは偶然か、必然か。
答えは、まだ、わかりません。
永遠にわからないかもしれません。
ただ一つ、確かなこと。
今、この宇宙のなかに、この地球の上に、私がいて、あなたがいること。
そして、私とあなたは、私たちすべては、私たちと地球は、つながっていること。
つながっているからこそ、私たちは生まれたのだということ。
宇宙を知り、人間を知り、私を知ることは、それらのつながりに気づき、深く理解することです。
宇宙と私の、つながり。
私とあなたの、つながり。
かけがえのない、愛おしいつながり。
それを、必然のつながりと信じることに、間違いはないと思います。
私たちは、つながっている。
宇宙は、もっと大事なことを、教えてくれるのです。

ウクライナ侵攻中のロシアが宇宙核を意図しているとの観測が数日前に報道された。我が国のH2号機の後継ロケットの打ち上げが成功したとのニュースも流れた。このタイミングで未知の時空を浮遊しさまざまに夢想できたことは実にラッキーだった。

付記:本とネクタイは他人の薦めに従うというのがブログ主の人生訓のひとつ。小さな個性・狭い意識にとどまらないため。
この本は私の敬愛する人生の先輩(国立大工学部系)から送って戴いたもの。約20年前の書下ろし文庫。ためになりました。また一つお世話になりました。感謝。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルクスの場合

2024-02-17 16:24:20 | 

不思議な内容の本というのが率直な感想。尤も、すべての本は、著者の勝手な想像力の詰め物であるからして、いわゆる本である。でも変わった本である。数年前、著者と親交のある友人から「傑作だから読んでみたら」と頂戴したのがこの著者との初めての出会い。『神南備山のほほとぎす--私の新古今和歌集』なる本。和歌に門外漢の身では敢え無くアウト。親切にも此の度もその友人からの賜わりもの。

      

この書名に一瞬デジャブに包まれた。何しろタイトにマルクスですから。おさおさ警戒に怠りなかったが、やがてこれが愛犬の名前であることを知るや力みが取れた。その叙述部分が面白い。以下の通りだ。”マルクス・アウレリウス、通称マル。私がこの名前を提案したのには、ちょいとしたわけがあった。というのは、大学時代の友人江島正啓の家で飼われていた犬がディオニソッスというギリシャ神話由来の名前だった。みんなからディオと呼ばれて可愛がられていた。私もディオのような魅力的な犬を飼いたいと密かに願っていたのだ。そのディオニソッスに対抗しての賢帝マルクス・アウレリウスだったのだ”という下りだ。

ことほどさように至る所で著者の嗜好の強さと博識ぶりが伺える。例えばクラシック音楽。モーツアルトのレコード『レクイエム』を聴く。指揮はカール・リヒター、ファゴットとバセット・ホルンが響き始める。悲しいとき辛いときに聴いてきた私のためのミサ曲という。学生時代は煙草銭に事欠いてもモーツアルトを聴いてきた。ある時はバッハを聴くためにスカイライン2000GTを諦めた、などとある。
日常を切り取ると、パジャマでキッチン、珈琲豆を挽く間にトーストを焼き母造りのサラダを冷蔵庫から出しローズマリーの蜂蜜垂らしのトーストを食し、まず朝刊のスポーツ欄と読書欄で本を物色。午後は音楽をBGMに読書・うたたね、遅い午後に町に出、レコードと本を漁る。この日は白水社のアルフレッド・ジャリの『超男性』が発売されてるかも知れないと胸躍らせるという具合。
いつも四冊を並行して読書している。此処で揚げているのは、ガルシア・マルケス『百年の孤独』、ファーブル『昆虫記』 、中国の『孫子・呉子』、天野清『量子力学史』。

愛犬マルと生きるこの物語の主人公は、著者自身の投影であろう。というより半生記と言うべきか。ググると一目瞭然。工業大学経歴の電気店主と著作業を両立しているのだから畏れ入る。第8章”旅路の果て”に、著者の居住環境の詳細が出てくる。ビールの比較に始まり、学生暮らし、彼女との出会い、小学校の教育指導への反発、大学院拒否と哲学への転身、文庫・新書・全集・辞典類、『Newsweek』、ヌーボ・ロマン、サミュエル・ベケット著作集、アルセール。カミユ全集、中南米作家のたちの作品群、和漢の古典、クラシック音楽の愛好と造詣も尋常ではない。

小学生のときからズボンの右ポケットに入っている肥後守に共感し、雷鳴の中マルクスを埋葬するシーンの語りかけに圧倒された不思議な本であった。かてて加えてこの本、手にした時に丁寧に作られている印象が強かったことを特筆しておこう。。

著者    諸井 学
発行    ほおずき書籍
発売    星雲社
初版        2024年1月31日 288頁

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミチクサ先生

2023-11-14 10:14:59 | 

著 者 伊集院 静

出版社 講談社

頁   上巻 301 下巻 291

     

先々月読んだ沢木耕太郎、そしてこの伊集院静。かつて貪り読んだ作家たち、ある時から憑き物が落ちた如くに、離れ、忘れ、別の読書世界を長らくほっつき歩き、気が付けば懐かしき昔に戻ってきている自分がいる。
このお二方とはほぼ同世代、時代を経て、老いた自分の変わりよう或いは変わらないサマの確認をしたかったのかしら。

今更漱石論?と思われる向きもありそうだ。が私には刺激的で面白かった。勉強になった。
文学や芸術は、出来も不出来も作品がすべてである。志と思想と構成力、技術、訴求力などだろうか。ところが本書は、『吾輩は猫である』『こころ』などの作品論ではない。作品以外、つまるところ漱石の人間性・ひととなり、文学仲間との往来、教え子や弟子との日常、家父長金之助=漱石とその家族の生活などが、あたかも著者自身が時空を超えてその場に居、ドキュメントを活写しているのである。これが面白い。

上巻では子規との交流が主に描かれている。出会いから子規の壮絶死に至る二人の友情と文学論や俳諧・短歌界の潮流などが彼らの会話で語られている。
アメリカから渡来のベースボールの和名 "野球"は子規の命名とする説があるが、事実ではない。子規の幼名は升(のぼる)といい、そこから自身の雅号の一つに野球(のぼーる)を使っていたのだという。著者は命名者は中馬庚であったと触れている。

ともに一高の同級生。伊勢本の寄席で圓遊を楽しんだ帰りが邂逅というのは、その後の二人の人生を思うと不思議な縁と言えそうだ。

この時期、日本の歴史における "小説"の位置・未来は定かではない。高校教師・帝大教授の途を歩んできた漱石が、その未知の小説の世界に舵を切るかとの決断に至る重要なシーンがある。鏡子夫人の病気療養で鎌倉に暮らした時期に夫婦で森戸の浜に出かける。鏡子が指さした方角に夏の夕陽に光る江の島があり、そのむこうに空一面の朱色の中に富士山が浮かび上がっていた。=それは相模一帯でもっとも美しい富士の風景だった。「私は、こんなに美しい富士山と海を、旦那様が、どんな文章でお書きになるのか、読んでみとうございます」金之助は鏡子の言葉に胸の奥の何かが揺れ動くのを感じた=というくだりである。他頁にも二カ所に同趣旨の文章が出てくる。著者が金之助の作家転向への心象を強く確信してることが伺える。

漱石の人生と作品の上で朝日新聞との関係がこれほど深かったことは初めて知った。小説家としてベストセラー作家として漱石を文豪に押し上げたのは同紙主筆の池辺三山である。と同時に早逝たらしめたのも同紙(氏)と言えるか。漱石享年49歳。巻末の執筆一覧によると作家生活を初めて3年間10作品以外の、後の8年間16作品は朝日時代の上梓である。

交遊の広さには質量ともに目を瞠るものがある。子規の友人としての繋がりから、高浜虚子、河東碧悟桐、陸羯南、浅井忠。英国留学時代には、美濃部達吉、池田菊苗、田中考太郎。弟子(門下生)には、寺田寅彦、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、安倍能成、中勘助、島崎藤村、志賀直哉、芥川龍之介、滝田樗院など。まだまだ森鴎外や秋山真之などが多数が行間に散見できる。

丁度このタイミングで、柄谷行人の漱石論に出会った。(11月8日付朝日新聞。『柄谷行人回想録 私の謎 ”漱石論じて新人賞 「偶然」の導き)曰く 戦前はともかく戦後は、漱石は文学的に優れているとは考られていなかったと思います。それは戦後の日本ではフランス文学がもてはやされていたことと関係があるでしょう。漱石は英文学者でしたからね。やや古いとみなされていたし、彼の文学評論も重視されていなかった。(中略)僕も子供のころから娯楽として読んでいた。それが一般的でした。僕の印象では、漱石が論じて以後、立派な文学者といことになった。

果たして伊集院漱石は、現下の漱石論に一石を投じるのだろうか。

挿画は福山小夜さん。そういえば、現役であちこち出張生活をしていた頃、車内誌を読むのが好きだった。とりわけ東北新幹線の『トランヴェール』の伊集院氏の随想は楽しみの一つだった。その中で季節を描いていたのが福山小夜さんだった。『花火』を暫し眺めていたのだった。作家と挿画家。特殊な世界だけに相性とか呼吸というのがあるのだろう。あれから14年経った。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春に散る

2023-09-28 10:28:40 | 

著者 沢木耕太郎

出版 朝日文庫

     

新聞広告で書名に目が触れた時、 ”はて?”と一瞬昔を振り返った。が思い出せない。著者名に視点が移って、”なるほど!”と納得。そういえば、つい最近、新作の同名の映画広告で何度となく見た。佐藤浩市/横浜流星が主役を張っていた。
沢木耕太郎は同世代。氏の『テロルの決算』からの熱心ではないが追っかけ。現在進行中の週一の新聞連載『暦のしずく』も茂本ヒデキチの画とともに楽しんでいる。

アマゾンで文庫版を求めて読み始めた。小説の展開の処々にデジャブが起きる。何と奇妙な感覚。奥付で出版日を確認。手元の読書記録にも記載は無し。読んではいない。しかし依然と既読感がやって来る。どうしたものか?と暫し困惑したのだった。
結局は新聞連載中に読んでいたことに思い当たった。それしかないという結論に至った。

今、全編読み終わり、久々に高揚感に浸っている。沢木耕太郎健在なり。数か月前TVで観た氏は幾分痩せて見えたが、齢域からしてその方が良かろうと勝手にエールを送っている。

同じボクシングジムでともに級違いの世界チャンピオンを目指した4人の初老が、それぞれの挫折の後に40年振りに再会、一人の青年を世界の舞台に押し上げる一年間を描いた熟年(と同時に青春)のドラマである。

元ボクサーの4人、とりわけ主人公の広岡仁一は、10年余にわたって薫陶を受けて来たジムの会長であった今は亡き真田に対する恩と感謝そして期待を知りつつジムから自ら去った悔恨があった。尊敬する会長の言々区々が過去のシーンでしばしば散見できる。これは著者の言葉でもあろう。以下抜粋。

ーーー日本にいる時は、真拳ジムの会長に、本を読むことと同じくらい映画を観ることを勧められた。「本は頭、映画は心」というのが会長の口癖だった。本と映画はそれぞれの「滋養」になるというのだ。ーーー

ーーードイツの思想家の言葉に、火は鉄を試し誘惑は正しき人を試すというのがあります。鉄は火に灼かれて鋼のように強くなるものもあれば、暖炉の薪の灰のようにもろく崩れてしまうものもあります。確かに鉄は火によって試されます。でも正しさというものを試すのは誘惑などという生易しいものではなく、やはり火です。すべてを燃やし尽くそうとする炎です。燃え盛る炎の中に投げ込まれ、人の魂はのたうち回るのです。もしその魂が真に正しいものならば、どのような炎をくぐり抜けてもなお、水晶のような硬さと透明さを失わないはずです。正しき人になって下さい。ーーー

ーーーおはよう、おやすみ。いただきます、ごちそうさま。行ってきます、ただいま。ありがとう、ごめんなさい。この八つの言葉が言えれば集団生活は円滑にいきます。これだけは常に口にしてください。ーーー

最後に、著者の『「生き方」でもなく、「死に方」でもなく』と題した文庫版あとがきの部分を紹介しておこう。

私が描きたかったのは、彼の「生き方」ではなかったような気がする。見事な「生き方」でもなく、鮮やかな「死に方」でもない。そのような言葉があるのかどうか定かではないが、あえていえば「在り方」だった。過去から未来に向けての「生き方」や「死に方」でなく、一瞬一瞬のいまがすべての「在り方」。「生き方」や「死に方」という未来のために現在をないがしろにしたり犠牲にしたりせず、いま在るこの瞬間を惜しむ・・・・。もしかしたら、私は広岡の一年に寄り添いながら、男として、というより、人としての理想の「在り方」について常に考えつづけていたのかも知れない。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大名倒産

2022-12-30 14:36:28 | 

著者 浅田 次郎

出版 徳間文庫(上下巻)

 

2023年の本の〆は浅田次郎。
著者の時代物の作品には、江戸時代或いは明治維新後も含め、武家社会の空洞化つまり制度の形骸化や本音と建て前の乖離、市井の混乱などを焦点にした作品が多い。著者が”繁文縟礼”と四語熟語で表現しているのがそれだ。この作品もその系列に連なる。

タイトルが表している通り面白いところに視点を当てたものである。徳川260年の天下太平の世で積み上がった借金が25万両。これをいかに処理するか。お殿様は家の格と権威で棒引きに出来るのか。そのドタバタを巡って何と七福神までが登場するのはご愛敬。

著者自身が面白がって書いているのが伝わって来る。その熱に引っ張られて一気に読んだ。

映画化が進んでいるようだ。そのシナリオは群像劇の三谷幸喜こそ相応しい。主人公の殿様のキャスティング(2,3の腹案あり)よりも七福神を誰にするか、これをイメージを膨らましながら決める作業は楽しい。勿論弁天は女優。エロ・グロ・ナンセンス・奇妙奇天烈。監督が果たして考える配役は?腕の見せ所になろう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迫害と人生

2022-10-22 14:47:19 | 

総合雑誌『潮』の長期連載が単行本として順次出版され、それをテーマを絞って抜粋し文庫化したもの。内容も形態も読者の興味と利便性の重視が感じられ好感である。一気に読んだ。

   

創価学会の現代史とも言うべき小説『人間革命』は、続編『新・人間革命』と併せ新聞連載は半世紀超にわたり7978回を数えた。

この大河民衆小説の展開を縦軸にして、そこに登場した大小さまざまの事実を拾い上げ、いわゆるスピン・オフのヒューマン・ドキュメントとして人間群像に彩を添えた『潮』誌の《民衆こそ王者》シリーズ。畢竟、その抜粋がこの本である。

原作『民衆こそ王者』の舞台が広大なだけに、それを追っての事実の確認と文章化は至難極まりないことは想像に難くない。一体何人で取材しどのくらいの費用をかけているのだろうか。要らぬ思いが一瞬よぎる。

ここで紹介されている事実の断片はどれも胸を打つ。中でもブログ主が最も感動したのは、沖縄返還交渉の経緯を描いた諫言の書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス-核密約の真実』を著した国際政治学者若泉敬氏を、長年の労をねぎらうために池田大作氏が設けた宴の席で若泉氏が歌うシーンである。

” 居ずまいを正した若泉は、「一曲歌ってもよろしいでしょうか」と池田に尋ねた。「どうぞ」。すうっと息を整え、朗々と声を発する。それは「一献歌」という歌だった。
戦後日本を「愚者の楽園」にしないために。精神的な「根無し草」にしないために。そう念じ行動し続けた若泉の、全精魂込められたかのような歌声だった。”とある。

一、男の酒の 嬉しさよ
     忽ち通ふ 粋と熱
    人生山河 険しくも
     君 盃をあげ給へ
   いざ吾が伴 よまず一献

二、 秋 月影を酌むもよし
      春 散る花に酔ふもよし
      あはれを知るは 英雄ぞ
      君 盃をあげ給へ
      いざ吾が伴よ まず一献

三、木枯 いつか雪となり
      もの 皆凍てる冬の夜も
      吾等に熱き思ひあり
    弱音を吐くな 男の子なら
      いざ吾が伴よ まず一献

四、よしなき愚痴を言ふ勿れ
      なべては空し 人の世ぞ
      消へざるものは ただ誠
      語らず言はず 目に笑みを
      いざ吾が伴よ まず一献

五、男の子じゃないか 胸を張れ
      萬策尽きて敗ぶるとも
      天あり 地あり 師匠あり
      君 盃をあげ給へ
    いざ吾が伴よ まず一献

著名は『迫害と人生』。この平和(ボケの語が続き揶揄や自虐の表現とされること多し)の日本で何と大仰なタイトルか思う向きも多かろう。しかし、改めて周囲を見渡した時、その認識自体がボケていることに気付かされる。一目瞭然、世間に枚挙のいとまがない。

この著名は本書の最終章の第七章で紹介される池田大作氏が創立した創価大学での講演のタイトルに由来する。氏は満場の学生を前に、古今東西の人物論を語った。
・冤罪で大宰府に流された菅原道真。
・幽閉中に名文を残した頼山陽。
・"獄中座談会"を開いた吉田松陰。
・祖国から追放された詩人屈原。
・屈辱を忍び『史記』を綴った司馬遷。
・投獄と抵抗の連続だったガンジー。
・亡命期に傑作を書き続けたユゴー。
・酷評され続けた天才画家セザンヌ。などである。

46分間にわたる講演の結びは以下の通り。
「若き学徒の諸君にあっても、長いこれからの長い人生の旅路にあって、大なり小なり悔しい嵐の中を突き進んでいかねばならないことがあると思いますが、きょうの私の話が、その時の一つの糧となれば、望外の喜びであります」

冬将軍の到来を前に、世界はウクライナのこの先を悲痛な思いで息を止めて凝視している。民主主義の選択は間違いだった論も力を得、各国では差別と分断が進む。
目下の国内外の情勢を鑑み、この小本は、自身の立ち位置の確認と行動規範の指針として、暫くは机上に置くことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発気揚々

2022-03-10 19:21:48 | 

著者 最上重夫 

出版 PHPエディターズグループ

非売品

    

 

現役の建設会社社長が自ら綴った半生記。書名の『発気揚々』は、相撲の取り組みで行司が発する掛け声「ハッケヨイ!」が由来だという。

文字通り著者は、本業=(株)湘南営繕協会代表取締役=のかたわら、というより本業に勝るとも劣らない情熱でボランティアや地域貢献の活動に取り組んできた。大相撲藤沢場所=勧進元=の30年をはじめ献血キャンペーン=神奈川県日赤紺綬有功会会長=16年、商店街連合会=湘南台商店連合会会長=13年などである。

いずれも長い歴史の中での紆余曲折や失地回復、はたまた狂喜乱舞等々のヤマ・タニを当の本人がサラっと述懐する、これが実に味がある。

実は、著者との邂逅は約50年前の学生時代に遡る。ともに学び世を憂い夢を同じくしたが、卒業後はそれぞれの道を歩んだ。馬齢を重ね来たり、5年前の転居に伴って偶々氏の生活圏に居住と相成った次第である。

半世紀ぶりの再会の第一印象は相貌の変わり様であった。白皙の青年は半禿頭の渋めの実業家に変身していた。この本にはその50年間の私が知り得なかった氏の戦い・歴史が詰まっている。その一つ一つに思いを寄せながら読んだのだった。

青雲の志を今に遂げてきた意思と判断力と実行力に敬服する。そしてそれらが上手く維持できたのは、氏の人柄ではなかろうかと思う。氏と交流して来た各界の人士が寄せているコメントがそれを物語る。

加えて特筆したいのが夫人の力。”内助の功”という言い方は今どき受けは悪いが、夫妻の共同戦線。氏は多くを語っていないが、行間からその姿が伝わってくる。実に麗しい。

残念ながら、この本は市場に出回ってはいない。考えがあってそうされたのだとは思うが、内容は一人でも多く読んで貰いたいもの。このブログへのアップはそれを補う思いからでもある。

最上重夫
『タウンニュース』から

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

77年の興亡

2022-01-30 19:00:28 | 

著 者 赤松 正雄

出版社 出雲出版

定 価 2200円 264頁

 

大いに勉強になった。近年、身の周りのニュースやメディアの報道ぶり、はたまた政治家や財界人などの言説などについて、違和感を持つことが多くなった。

SNSの長足の進歩と自己主張の自由な発信、メディア世界の構造変化、総合雑誌の衰退、分断と格差の増大、政治の劣化等々、その要因を探せばきりが無かろう。

この本は、明治から令和までの時代の流れを昭和20年の敗戦を区切りとして、前半の77年と後半の77年とに分け、前半を《西洋対日本》後半を《保守対革新》、座標軸を変えて前半を《軍事力優先》後半を《経済力優先》と図式化する。これが本のタイトル『77年の興亡』となり、前後半合わせての154年の時代の中身すなわち質の変化をとらえて、サブタイトル”価値観の対立を追って”としているようだ。こうした時代の図式が、本のカヴァー裏に印刷されており、読者への配慮と言えなくもない。事実、初めて手に取った時、〈77年〉?〈興亡〉?の私自身?だった。

この時代区分けは著者のオリジナルなのかしら。でなければ不明を恥じるしかないが、実にいい。さまざまな事象にあてがうことが出来そうだ。時代や歴史、経過などの整理に役立ちそうだ。

著者は、公明党の野党時代から6期20年間にわたり衆議院議員を務め、党の外交安保調査会長、憲法調査会座長、さらには厚生労働大臣などの要職を歴任した。我が国の現代政治が大きく変わりゆく只中で政策と戦った回顧録である。
とはいえ、知力体力ともに余力を残してのバトンタッチだったわけで、後継への贈り物=未来への課題が実に盛りだくさんである。政策の視野と掘り下げ、その転換の心情と経緯、他党とのやり取り、学識者やメディアとの間合いなどだ。

行間からは著者の党の行く末を思う心情が素直に伝わってくる。党にとっては得難く有難いOBである。いわく、
「今のような自公政権が永遠に続いていけば、民主主義本来の政権交代が叶わない。中道主義はジレンマに陥ってしまう」

「公明党こそ自民党に代わる政権党たろうと、かつての先輩たちは目標に置いたものだが、今となっては、遠い”砲声”という他ない」

「自民党の公明化を狙っていながら、気が付いたら公明党の自民党化が進んでいたと言われては居ないか。"安定"を望むあまり"改革"が疎かになっていないか」

現代日本の政治を俯瞰する上で、最上のテキストであることは間違いなかろう。机上に置くことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする