日本語はスバラシイと思う。
日本語がスバラシイのは、私が何の苦もなく操れるからというのもあるが(あるのか・・・)
言葉ひとつが持つ意味や、そこから想像されるものがやたらとたっぷりあるからだと思う。
というのも、
展覧会に出品する作品のタイトルを考えていたとき、夫が「日本語でタイトルつけて、それを訳した英語を横に書くのはどう?」
と提案した。
私は何もそんなめんどくさいことしなくても、と言ったのだが、夫の言い分はこうだ。
「たとえば『桜』というタイトルを、英語でチェリーブラッサムとだけ書いたら、ただの花じゃん。
だけど日本人にとって『桜』というのは、ただの花ではなくて、花見の楽しさ、散るのを惜しむ気持ち、夜に見る桜とか、
いろーんな意味や気持ちがあるわけじゃん。だから日本語はスバラシイんだよ」
おぉー。たまにはいいこと言うじゃないか。
そういわれてみれば、そうかもしれない。
ガイジンの夫に言われて気づいたわけじゃないけど。
日本はもう秋になったそうな。
秋になると、誘惑の日本語が世間に満ちてくるんだよなあ。
チーズがとろ~り
栗がまるごと
ほっかほか
ふっくら
とろける
ふわとろ
なんだ全部食べ物じゃないか、というのはおいといて。
秋風が、コートの襟元をおさえるぐらいに冷えてきた夕暮れ、灯りがつきはじめた街の中で、こんなコピーを見かけたら、
私は引き寄せられるように店に入りたくなる。
こういうタイプの単語は、英語にはない。
温かいとほっかほかは違うし、溶けるととろけるも違う。
英語だとひとことで表現できることも、ピッタリくる日本語がないという単語もあるんだけれど、
どうも軍配はコッチだ。
そんなことを考えだしたら、作品のタイトルどころじゃなくなってしまった。
栗がまるごと入った蒸し羊羹とか、マロンパイ、ほっかほかの中華まんや、焼き芋が食べたーーーーい。
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日本語がスバラシイのは、私が何の苦もなく操れるからというのもあるが(あるのか・・・)
言葉ひとつが持つ意味や、そこから想像されるものがやたらとたっぷりあるからだと思う。
というのも、
展覧会に出品する作品のタイトルを考えていたとき、夫が「日本語でタイトルつけて、それを訳した英語を横に書くのはどう?」
と提案した。
私は何もそんなめんどくさいことしなくても、と言ったのだが、夫の言い分はこうだ。
「たとえば『桜』というタイトルを、英語でチェリーブラッサムとだけ書いたら、ただの花じゃん。
だけど日本人にとって『桜』というのは、ただの花ではなくて、花見の楽しさ、散るのを惜しむ気持ち、夜に見る桜とか、
いろーんな意味や気持ちがあるわけじゃん。だから日本語はスバラシイんだよ」
おぉー。たまにはいいこと言うじゃないか。
そういわれてみれば、そうかもしれない。
ガイジンの夫に言われて気づいたわけじゃないけど。
日本はもう秋になったそうな。
秋になると、誘惑の日本語が世間に満ちてくるんだよなあ。
チーズがとろ~り
栗がまるごと
ほっかほか
ふっくら
とろける
ふわとろ
なんだ全部食べ物じゃないか、というのはおいといて。
秋風が、コートの襟元をおさえるぐらいに冷えてきた夕暮れ、灯りがつきはじめた街の中で、こんなコピーを見かけたら、
私は引き寄せられるように店に入りたくなる。
こういうタイプの単語は、英語にはない。
温かいとほっかほかは違うし、溶けるととろけるも違う。
英語だとひとことで表現できることも、ピッタリくる日本語がないという単語もあるんだけれど、
どうも軍配はコッチだ。
そんなことを考えだしたら、作品のタイトルどころじゃなくなってしまった。
栗がまるごと入った蒸し羊羹とか、マロンパイ、ほっかほかの中華まんや、焼き芋が食べたーーーーい。
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