特に何の宗教にも属さない私にとって信仰とは、遠藤周作の「深い河」や、
三浦綾子の「塩狩峠」にあるような、命をかけた何か壮絶なものでしかなかった。
人生のすべてを、命すら喜んで捧げる人たちを見ると、
そこまで強く信じられることに、ただ圧倒される。
そんな私の、信仰に対する見方が変わったのは、バリ島に行ってからだ。
何年か前、バリ島に行った。
バリ島の大地を踏んだ瞬間、荒々しくて、まったく洗練されていない自然のエネルギーを感じた。
それは観光地化されていない奥地に入ると、ことさらだった。
人々は、朝晩、神と悪魔に捧げ物を欠かさない。
新鮮な花と食べ物を、小さな器に入れて家の前に置く。
神が善で、悪魔が悪というわけではなく、両方あって当たり前。
神と悪に守られながら、バリの人々は生きているかのようだった。
声高に自分が信じるものについて語るのでもなく、誰かを説得するのでもなく、
ただ日々、静かに信仰とともに生きている。
そういう人たちが、ハワイにもいる。
私が考えたこともなかっただけで、日本にもたくさんいるに違いない。
海で泳ぐ前に、波打ち際で手を合わせてから入る人を時々見かける。
木の幹に手をあてて祈る人もいる。
私が勝手に決め付けた壮絶な信仰は、単にひとつの形でしかなくて、
こんなふうに自然に生活の一部として、宗教にかかわらず何かを大切にして生きることも、信仰なんじゃないかと思うようになった。
私にも信じているものはある。
それはただ、生きていく上で私が信じたい事柄というだけだ。
自分にとって信仰なんか、永遠に縁のないものだと思っていたけれど、
私が、私が信じるものを大切にして生きるのならば、それも信仰なんだろうなと思うのだ。
にほんブログ村
三浦綾子の「塩狩峠」にあるような、命をかけた何か壮絶なものでしかなかった。
人生のすべてを、命すら喜んで捧げる人たちを見ると、
そこまで強く信じられることに、ただ圧倒される。
そんな私の、信仰に対する見方が変わったのは、バリ島に行ってからだ。
何年か前、バリ島に行った。
バリ島の大地を踏んだ瞬間、荒々しくて、まったく洗練されていない自然のエネルギーを感じた。
それは観光地化されていない奥地に入ると、ことさらだった。
人々は、朝晩、神と悪魔に捧げ物を欠かさない。
新鮮な花と食べ物を、小さな器に入れて家の前に置く。
神が善で、悪魔が悪というわけではなく、両方あって当たり前。
神と悪に守られながら、バリの人々は生きているかのようだった。
声高に自分が信じるものについて語るのでもなく、誰かを説得するのでもなく、
ただ日々、静かに信仰とともに生きている。
そういう人たちが、ハワイにもいる。
私が考えたこともなかっただけで、日本にもたくさんいるに違いない。
海で泳ぐ前に、波打ち際で手を合わせてから入る人を時々見かける。
木の幹に手をあてて祈る人もいる。
私が勝手に決め付けた壮絶な信仰は、単にひとつの形でしかなくて、
こんなふうに自然に生活の一部として、宗教にかかわらず何かを大切にして生きることも、信仰なんじゃないかと思うようになった。
私にも信じているものはある。
それはただ、生きていく上で私が信じたい事柄というだけだ。
自分にとって信仰なんか、永遠に縁のないものだと思っていたけれど、
私が、私が信じるものを大切にして生きるのならば、それも信仰なんだろうなと思うのだ。
にほんブログ村