太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

忘れることをゆるしたら

2018-01-21 07:49:41 | 日記
85歳になる実家の父は、1年ほど前から、肺炎になったり軽い脳梗塞になったり、

なにかというところが出てくるようになった。

病気知らずだった父が73の時、癌になった。

70過ぎても一人で耳鼻科にも行けず、母についていってもらうような人が「癌です」と言われたら

ショックで死ぬんじゃないかと家族は心配したが、存外本人はケロリとしていた。

退院したら着るのだといって、入院する前にスーツをオーダーし、

入院するときには旅行用のスーツケースを持って「じゃ、旅行に行ってくるからね」と笑って手を振った。

手術室に入るのにも自分で歩いてゆき、何度も振り返って笑顔を見せた。

手術後も、手鏡で髪に櫛をいれて、シャンとしてからでなければ誰にも会わなかった。




祖父が始めた事業を父が継いだ。

新しもの好きで前向き、アイデア豊富で天真爛漫な父と、すべてが正反対の祖父はいつも喧嘩ばかりしていたが

事業をここまで大きくしたのは父の功績だ。

父のあとは叔父、今は従兄弟が継いで、父はすっかり及びではなくなったのだが、

肺炎になっても脳梗塞をしても、毎日会社に行くことをやめなかった。

仕事は父の生きがいだった。




今回、心臓がよくないということがわかり、また入院をして(これまたわがまま患者で大騒ぎ)

3週間ほどで退院したものの、会社に行くのをやめた。

10分歩くのもやっとで、会社に行きたい気持ちはあるが、行けなくなった。

退院して数日後、姉に会社に送ってもらい、「おわかれかい」をしたそうだ。

電話口で父は

「85歳でやっと定年したよ、あはは!」

と笑った。



会社に行かなくなって刺激がなくなったからなのだろうか、時々、記憶が曖昧になる。

「シロはどこに住んでいるんだっけ?」と母に聞いたそうだ。

私は、前よりも頻繁に電話をするようになった。

父が電話口に出るのを待つ間、どうか私のことがわかりますように、と祈る。

「しかたがないよ、なるようにしかならないし、なるようになってゆくんだから」

母はそう言った。

父が私や私の夫のことをちゃんと覚えていると、安心する。

でも、電話をしない数日の間に、まだ覚えているかしら、と思う。


そうした或る日、私はふと思った。

私のことを忘れてほしくないというのは私の勝手な願いかもしれない。

父だって忘れたくないのに、自然とそうなってしまうのだったら、それは仕方がないんじゃないか。





祖母が晩年、痴呆症だった。

息子である父のこともわからなくなり、徘徊し、祖母だけの世界に生きていた。

祖母が亡くなって、祖母が1番可愛がっていた姪のおばさんが遠方から駆けつけてきた。

2月に入ったばかりの寒い時期で、仏間にしている四畳半は締め切ってあった。

仏壇の前にはいただいた生花がいくつもの花瓶に活けられていた。

「おばあちゃん、○○ちゃんが来てくれたよ」と母が仏壇に向かって言ったとき

締め切った四畳半にあった生花が一斉に大きく揺れた。

「おばあちゃんの魂は、ボケてなんかいなかったんだね、よかったね」

母と私はそう言いあった。




たとえ父の体は私を忘れても、

父の魂はけして私を忘れやしない。

私はそれを知っている。

だから私は、毎朝父にレイキを送ったあと、ありがとうと言った後で



おとうさん、忘れても、いいよ



と言う。

言ったあと、少し胸の奥がキリリと痛む。















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