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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口パート2

2023-05-09 18:35:03 | ワイマール共和国

 SA(ナチ党突撃隊)によるテロ行為は、中央党選挙集会で、同党支持者を襲撃し、流血の衝突から発砲騒ぎにまで発展した。また、中央党デモ行進に参加していた元閣僚を襲撃したり、中央党機関紙編集局も破壊した。さらに社会民主党デモ隊にも爆発物を投げ込んだ。社会民主党共産党の政治家は何人も街頭テロで殺害されたが、沈静化しなかった。

 SAによる街頭テロの後には、ゲーリンクは弾圧と強制捜査という行政テロを行った。1933年2月4日発布の「大統領緊急令」を都合よく拡大解釈して利用し尽くした。共産党本部であるカール・リープクネヒト館を、「反国家的文書」の捜索と称して、2度にわたり強制捜査をしたのをはじめ、社会民主党機関紙『前進』およびその他の社会民主党系新聞を2、3日間の発行停止処分にしたり、中央党選挙ポスターと宣伝出版物を押収したほか、中道系および左翼政党の選挙集会を強制的に解散させたりした。

 ナチ党の宣伝手口は、「共和国の破局が迫っているとか、国家転覆の危機にさらされているとか、ボルシェビズム化の脅威の中にあるとか」を、絶え間なくわめきちらした。そして、国家社会主義(ナチズム)を、恐怖と絶望の現状から希望の持てる将来への転換役として、救済役として印象づけようとした。

 ナチ党は、全国向けあるいは管区向けの遊説隊を個別に編成したり、特別選挙集会を開催したり、SAのパレードで人目を引いたりした。文書類も写真入りポスター、活字のみのポスター、パンフレット類、機関紙号外など多種類を使用してアピールした。また、何百万枚というビラを飛行機で全土にばら撒いたり、スピーカー付きの宣伝カーを国内隈なく走り回らせたりした。さらに、権力を利用してラジオ放送会社に選挙演説を強制的に中継放送させた。

 この宣伝は、大衆のリーダー待望論とヒトラーの名前を結び付けた。大衆にとってヒトラーは、大衆の要求を実現できない空洞化した社会制度に対する不毛の論議と絶望感から脱出する道を指し示しているように見えたのである。そして、ヒトラーはナチス独裁体制樹立への陰謀と策略を着々と推し進めるのである。

(2022年10月31日投稿)

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ヒトラーの首相就任後初の3月5日総選挙戦での民主的政党に対する攻撃手口

2023-05-09 18:26:57 | ワイマール共和国

 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に任命した。ついで、2月1日、大統領は国会解散に署名し、閣議は総選挙の投票日を3月5日と決定した。

 ヒトラーは選挙戦に突入するにあたって、首相就任以来、気になっていたゼネストの恐怖を解決するため2月3日、閣議を開き、「ゼネストを萌芽状態のうちに摘み取るべきである」と閣僚たちに「大統領緊急令法案」を提案し承認を迫った。2月4日には、ヒンデンブルク大統領が「ドイツ国民の保護に関する大統領緊急令」に署名した。

 これにより、国家機関は、公共の安寧が直接的に脅威にさらされるような場合、国家の死活にかかわるような重要な事業所でのストライキおよび政治集会デモを禁止し、かつ社会の安全と秩序を損なうような内容の印刷物を押収、または一定期間の配布を禁止する権限をもつ事になった。この緊急令は、解釈自在のつかみどころのない規定であったため、最初は標的とされた陣営に対してであったが、やがては国内の言論の自由を破壊し尽くし、政府に対する反対者や批判者は根こそぎ排除される事となったのである。

 また、ヒトラー内閣支持を明確にした産業界からの献金により、ナチ党の選挙マシーンは、これまでナチ党員が経験した事のない活気を見せた。例えば、ゲーリンクのプロイセン州における手口は、プロパガンダテロ、つまり反対党を徹底的に攻撃するとともに国家機関を反対党弾圧の手段とするという巧みな混合戦術であった。それにより反対党を封圧する一方で、有権者を威嚇して従来からの支持政党へ1票を投じるのを断念させようというわけである。ゲーリンクが発する布告訓令で、プロイセン州内の県知事郡長たちは「国粋主義的」な政党のみを支持しなければならない事をほのめかされた。

 2月17日付のプロイセン州警察官に対するゲーリンクの布告では、「国家に敵対する組織を駆逐するためには、最も峻厳な手段で当たる事」とし、必要であれば銃器の使用も認めた。またゲーリンクは、「任務遂行のため銃器を使用した警察官は、その結果について顧慮する必要のない事を保証する。他方、結果を慮って銃器使用を拒む者は、服務規律違反で処罰される事を覚悟せねばならない」と指令した。さらに、2人の「特命委員」を任命し、警察官が指令通りに民主主義政党のささいな選挙違反も厳しく取り締まっているかどうかを監視させた。

 2月22日にはゲーリンクは、SAをはじめSS、鉄兜団の隊員たちを「補助警官」として採用する命令を出し、テロ行為を開始させた。彼らに対し、共産主義に対する闘争は警察的手段だけでは不十分であり、自らの手で自らを防衛しなければならない、と呼びかけ、民主主義政党の選挙運動に路上で襲撃させ、選挙集会に殴り込みをかけさせたのである。

(2022年10月30日投稿)

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ワイマール共和国1933年3月5日の選挙戦で独裁体制を狙うナチ党

2022-10-07 09:53:15 | ワイマール共和国

 ハインツ・ヘーネ著『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』に基づいて、上記のテーマについて紹介しよう。 

 ナチ党は、1932年7月の選挙で初めて「第一党」となった。その後、1933年 1月30日、ヒトラーは首相に就任した。ここでヒトラーは、これまでのような連立工作の道をとらず、国会を即刻解散し、1933年3月5日の総選挙を公示した。その目的は、選挙戦を通じて大衆のナチ・フィーバーと闘争本能に火をつけて、ナチ党の一党勝利を実現するとともに、国内を意のままにできる独裁制へ移行する事であった。ヒトラーは選挙民が投票箱に一票を投じる前に、民主主義と法治国家を破壊するためにはあらゆる手段を用い、剝き出しの街頭デモで政敵を妨害し、打倒しようと断固決意していた。

 ナチ党突撃隊(SA)の特別攻撃班は、第2党の社会民主党の選挙集会を組織的に撹乱し、ヒトラー内閣から「補助警官」の肩書を与えられた突撃隊員が遊説中の社会民主党幹部を街頭で公然と襲撃した。また、社会民主党の選挙集会に警官を臨席させ、演説者の一語一句に目を光らせ、「反国家的演説」と見做した時は即座に干渉した。社会民主党はこうした集会妨害を避けるため、多くの集会会場を非公開にせざるを得なかった。

 プロイセンでは、社会民主党系のある新聞を、国家の安全を脅かす憲法違反の意見を発表したとして、官憲が発行停止処分にした。国会議事堂放火事件(選挙戦中の1933年2月27日夜、放火により炎上。ゲーリンクが犯人としてオランダ人ルッペを逮捕するとともに、野党勢力弾圧に乗り出した。)が起こるとその罪を共産主義者になすりつけ、ヒトラーは国民の基本的人権を蹂躙する口実とした。このようなテロと恐怖の雰囲気に包まれた中で、3月5日の投票日を迎え、社会民主党は1議席減、共産党は19議席減、ナチ党は単独過半数には達しなかったが92議席増で勝利した。他党も改選前の勢力を維持した。

 しかし、ワイマール共和国は、1933年3月23日、運命の日を迎えた。この日、国会は炎上した議事堂からクロール・オペラ劇場に会場を移して開かれた。議題は、ヒトラーが自らその内閣のために4年間の独裁的全権を要求する全権委任法(正式名は「国民及び国家の危難を除去するための法律」。政府は独自に法律を制定でき、しかもその法律は憲法に背反する事も許される事などを規定)の審議、採決である。

 社会民主党を取り巻く状況は絶望的だった。党本部と地方組織を結ぶ連絡網はほとんど断ち切られ、離党届が各地から洪水のように押し寄せ、度重なる党機関紙の発行禁止で党は沈黙を余儀なくされた。しかも党の頭脳ともいうべき人物を何人も失っていた。クロール・オペラ劇場の周辺は突撃隊員によって固められ、狂信的なシュプレヒコールで反ヒトラーの社会民主党議員らに脅しをかけていた。

 それにもかかわらず、登院した社会民主党党首ウェルスはヒトラーと対決する演説の火ぶたを切った。「政府は社会民主主義者を無防備にする事はできるかも知れないが、不名誉な立場に貶める事はできない」と宣言し、「今日の歴史的な時に当たって、我々社会民主主義者はヒューマニズムと正義、自由、社会主義の理念を信奉している事を高らかに表明する。いかなる全権委任法といえども、永遠にして不滅の理念を破壊するような権限を諸君に与えはしないだろう」と述べた。

 これを聞いて、ヒトラーは憤激のあまり、我を忘れて自席から跳び上がり、わめき出した。「諸君たちはもうご用済みなんだ。……ナチス・ドイツの星は今まさに昇りつつあるが、諸君の星はすでに没した。諸君の時代はもう終わったんだ」と。

 これに対して社会民主党の対応は、党首ウェルスや党首脳は相次いで出国した。この一連の動きは社会民主党側のナチ順応化の始まりであった。各州議会や市議会では「ドイツ=社会主義グループ」なる勢力や労働組合総同盟までが党から次々と離れていった。党の各州議員団は全権委任法に対して拒否の態度はとったものの、ナチのご機嫌をそこねまいとして、まるで言い訳としか聞こえないような融和的な声明を発表した。

 とどめを刺したのは、社会民主党の活動禁止(1933年6月22日、ヒトラーは大統領緊急令で社会民主党を非合法化)の直前、社会民主党国会議員団がヒトラーの外交政策に賛成票を投じた事であった。この時点ではドイツ社会民主主義には最早社会を動かす力はなく、バラバラに解体された死骸に過ぎなかった。社会主義の理念はとうに崩壊し、ナチに降伏していたのである。このようにして社会民主党は死んだのである。

 世界最強の労働者運動の一つであったワイマール共和国の社会主義政党や近代的民主主義が、ナチズム(国家社会主義)によりなぜ無抵抗状態でもろく崩壊したのか?

 それは、人間が犯しがちな誤謬と、一つの社会がもつ欠陥が異常発達した歴史であり、いくつもの偶然が重なり、自壊作用が進んだ歴史である。換言すれば、それは民主主義者なき民主主義の歴史であり、国民の誰一人望まなかったのに出現した議会制度国家の歴史であった。さらに、当時の若者たちの政治離れ、社会階層間の非妥協性、各政党の硬直化などであった。

 ワイマール共和国の民主主義は、1918年の軍事的敗北という暗い影の中で、労せずして懐の中に転がり込んできたものである。誰一人としてこの民主主義を待望していたわけではないし、信奉している者もほとんどいなかった。確かに民主主義的革命らしきものが起きたのだが、帝政時代の社会構造はそっくり温存され、帝政下では解決できなかった様々な難問がそのままワイマール共和国に引き継がれ、事態は敗戦という重荷で一層悪化した。

 1930年頃には、国民の意識の底流に、議会制度や民主主義は早晩、破産するだろう、政党によっては何も改善、改革できないだろうという雰囲気が忍び込み始めていた。そして、指導者崇拝熱に引き付けられていった。しかし、それがファシズムの理念に知らずして追随している事に気が付いていなかった。ワイマール民主主義が学ぶべきところの多い人物として注目していたのが、独裁者と指導者の顔を巧妙に使い分けるイタリアのムッソリーニであった。

(2022年10月6日投稿)

 

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