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渋沢栄一と明治神宮と安倍・菅自公政権のたくらみ

2024-07-03 09:52:35 | 渋沢栄一

 明治神宮は2020年で創建100年を迎えた。安倍自公政権はその「神宮外苑」には「新国立競技場」を建設した。そして、予定通りに「東京五輪パラ」が実施できていれば、「明治神宮」もその祝典のようなものを実施していたであろうと考えて良いであろう。

 神聖天皇主権大日本帝国政府がどういう理由で明治神宮を建設したのかという事については別稿のカテゴリー「明治神宮」「明治神宮と神宮外苑競技場(新国立競技場の前身)の建設は天皇崇拝と天皇制国家への忠誠(国家神道)の普及」を参照してください。この稿ではそこに書かなかった事を紹介します。それは明治神宮と渋沢栄一との関係についてです。渋沢については今年2021年2月からNHK大河ドラマが主役に取り上げ、新1万円札にも登場する事になっていますが、なぜ今なのかという事の答えにもなる事です。

 明治天皇は1912年7月29日夜(公式発表は30日未明)に死去したのですが、その直後から、渋沢栄一筆頭として東京の政財界では「天皇陵」を東京に設ける事を目標とする運動が起こりました。しかし、しばらくして帝国政府宮内省は陵墓を京都伏見」に設ける事を発表しました。それをきっかけに、渋沢は明治神宮東京建設主導していく事になるのである。

 しかし面白い事に渋沢は、元々神社は嫌いだったようである。神社仏閣に祈るという行為を「迷信」として忌避していたようである。そういう事情から、渋沢がこだわりをもって関わり続けたのは、近代的な施設が集まる「外苑」であった。つまり、渋沢は、「天皇皇室は尊崇したが、神社は重視しなかった」のである。しかし、帝国政府によるその後の国民への国家神道洗脳の強化により、渋沢のような意識を有する国民は「非国民」として扱われていったのである。

 また、渋沢は日米友好を願っていたのか、彼が死去する前年の1930年に、明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館に、1879年8月に来日した米国グラント将軍(第18代大統領。沖縄領有問題調停で清国と日本帝国に2分割案提示)が明治天皇と会見した時の模様を描いた壁画、表題「グラント将軍と御対談の図」を奉納している。

 しかし、友好を願っていたとすれば渋沢にとって皮肉な事であるが、彼が推進し帝国日本政府が建設した神宮外苑競技場において、1943年10月21日、東条英機政府が学徒出陣壮行会を実施する場として使用する事になるのである。

 安倍自公政権が、何があっても東京五輪パラを実施しようとした背景や菅自公政権がそれを継承し、一年延期はしたものの今年こそは何があっても実施しようとしている背景には、上記の「明治神宮創建100年」を記念する式典を実施し明治神宮の存在を国民の頭に刷り込む事と、渋沢栄一がその建設を主導したとして讃美するとともに、日本の資本主義の基礎作りに貢献したと一面的な評価正当化讃美して国民を洗脳する事を狙っているからである。歴史認識を彼らにとって都合の良いように書き換え(歴史修正主義)ようとしているのである。

(2021年2月19日投稿)

 

 

 

 

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横浜連合生糸荷預所事件と渋沢栄一が果たした事

2024-04-07 10:11:21 | 渋沢栄一

 日米修好通商条約(1858年。露・蘭・英・仏を含め安政の五か国条約)は、日本に在留する外国人の治外法権(領事裁判権)を認め、居留地制度、関税協定制度(自主権なし)、一方的無条件最恵国待遇などの条項を含む、神聖天皇主権大日本帝国政府にとっては不利な不平等条約であった。治外法権を背景にした貿易取引上の外国商人の横暴が相次ぎ、成長し始めた日本の商人や製造業者との対立が深まったが、その代表的事件が1881(明治14)年の横浜連合生糸荷預所事件であった。この事件の収拾に主導的役割を果たしたのが渋沢栄一であった

 当時、生糸の輸出輸出総額中40%以上をしめ、代表的輸出品であった。しかし、輸出入ともに大部分は外国商人が独占しており、加えて治外法権を背景に外国商人不正不法が横行し、横浜の生糸売り込み相場は外国市場価格に比べて大幅な安値を余儀なくされていた。こうした状況に対して、1881年9月、横浜の生糸売り込み商人たちは、横浜連合生糸荷預所を設立し、生糸の売り込みをすべてこの荷預所を通じて行う事とした。

 この対応に横浜居留の外国商人は、荷預所から生糸を一切買わない事を広告したため、内外資本が全面衝突したのである。これを横浜連合生糸荷預所事件という連合生糸荷預所には、横浜の生糸売り込み商人のほとんどが所属した。そして、有力な売り込み商人であった渋沢喜作(渋沢栄一と従弟関係)、原善三郎、茂本惣兵衛、馬越恭平(三井物産)、朝吹英二(貿易商会)、らが役員となった。

 荷預所外国商人取引の弊習是正=商権回復を標榜し、銀行・運送会社や、各地の荷主たちが荷預所支持の運動を広範に繰り広げた。外国商人はこの事件をきっかけに、売り込み商人を排除し、国内の生産者・商人との直接取引を目論んだ。結局、11月18日、将来「共同倉庫」設置、それまで暫定措置として商館取引を認めるが、荷物預かり証などを内外商人が交換し、取引を合理化する、という和解約定書を取り交わし、一件落着した。

 この事件の収拾に主導的役割を果たしたのが渋沢栄一であったが、渋沢栄一など有力荷預所株主=売り込み商人は、国内の流通と生産を支配しようとする目論見をもち、この闘争の過程で、大資本(有力荷預所株主)中小資本の対立が生じたのを、大資本中小資本を犠牲にして外国商人と妥協をした収拾内容であった。

(2021年12月19日投稿)

 

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