2019年12月1日までに安倍自公政権は、世界文化遺産に登録された長崎市の軍艦島など「明治日本の産業革命遺産」に関する保全状況報告書をユネスコに提出した。安倍自公政権は、2015年の世界遺産委員会では「意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者がいた事を認め、当時の徴用政策について理解できるような措置を講じる」と表明していたが、今回触れていない。そのため、韓国政府は安倍自公政権に対し「朝鮮半島出身の強制労役の犠牲者を記憶に止める措置をとる事を約束した」と主張し、「約束通りの措置をとる」よう要求している。
近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道会社の生駒トンネル建設において、朝鮮人労働者が落盤事故により死亡している。
1910年9月、大阪~奈良間に電車を走らせようと、大阪電気軌道会社が創立された。大林組の大林芳五郎らが創立委員となり、社長に広岡恵三、専務に七里清介、取締役に岩下清周らが就任した。大正時代の初期には、大阪~奈良間にはすでに国鉄(現JR関西線)が走っていたが、生駒山を迂回していたので、2時間近くもかかっていた。それを50分前後に短縮しようとした。この事業の最大の難関は生駒山であった。山をぶち抜くトンネル案と、ケーブルで山頂を越そうという案と、2つの案が出た。トンネルでは膨大な経費が必要なのでケーブル案に傾きかけた時、岩下が現地を見に行き「遊覧電車ならともかく、高速電車をケーブルにすると後世の物笑いになる。どんな事があってもトンネルにすべきだ」と主張した。
1911年6月19日、大阪上本町~奈良三条間の30.6㌔の鉄道敷設に着手した。同年7月4日から全長3388㍍、幅6.7㍍、高さ5.5㍍のトンネル工事が、東西から同時に始まった。当時、国鉄中央線の笹子トンネル(4.7㌔)が日本で最長であったが、これは単線狭軌で、複線広軌では生駒トンネルが最初の試みであった。1913年1月26日午後3時半頃、生駒トンネル東口から700㍍の坑内で、レンガを積み上げ中、落盤事故が発生し、153人が生き埋めとなり、19人が死亡した。
生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関係者の葬儀や法要が営まれた事から当時の追悼式の文書や工事期間中の過去帳が遺されている。生駒トンネル西口から下った浄土真宗称要寺(東大阪市日下町)境内には大阪電気軌道会社と大林組が建立した「招魂碑」がある。裏面には24名の傷病没名が刻まれ、その中に朝鮮人労働者の名がある。
生駒駅から宝山寺への参道を登ると、右側にハングルのルビがふられた「宝徳寺」があるが、戦後外国人に対し認められた最初の宗教法人である。この寺は住職の趨南錫(故人)が生駒トンネル工事で酷使された同胞の話を知り、トンネル工事にゆかりのあるこの地に建てたものである。境内には1977年11月、地元の有志と近畿日本鉄道の協力し、本堂より一段高い敷地に「韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑」を建立している。
生駒トンネル工事の現場に朝鮮人労働者が働きに来ざるを得なかった背景の一つに「韓国併合」以前の朝鮮での鉄道工事がある。生駒トンネルの工事を請け負った大林組は当時のゼネコンとでもいうべき他の土木請負会社とともに、日露戦争(1904~05)を契機として朝鮮での鉄道工事に参入している。京釜鉄道(ソウル~釜山)の一部と臨時軍用鉄道の一部、さらにソウル~義州間の停車場や機関庫の工事を請け負い、以後の日本国内の請負工事に実績を上げていく。大林組と朝鮮人労働者との関係はこの時期から密接になり、生駒トンネル工事にも朝鮮人労働者が就労する事になったといえる。また、大林組は「韓国併合」後の日本国内での請負工事で、朝鮮人の労働力を最大限に利用し私益を上げていく。
生駒トンネル工事の歴史は、単にならと大阪の地方史ではなく、これ以後に続く「朝鮮人強制連行・強制労働」の起点であり序章であるといえる。
1914年1月31日未明、生駒トンネルは貫通し、4月30日に開業した。
1964年7月、車両の大型化にともない、すぐ南側に新しい生駒トンネルが貫通し、50年にわたるお勤めを終えた。
(2019年12月12日投稿)