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「百舌鳥・古市古墳群」世界文化遺産登録記念シンポジウム:研究成果を無視した宮内庁・徳田誠志氏の発言はいち公務員の地位を逸脱したもので憲法違反

2024-03-28 21:25:08 | 世界遺産

 2019年7月28日、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を「記念」したシンポジウム「世界文化遺産へのあゆみ 百舌鳥・古市古墳群と関西大学」(関西大学・堺氏共催、朝日新聞社など後援)があった。

 今回のような形で世界遺産に推薦し、また、それが意外にも登録された事が「記念」すべき事といえるかどうかという問題が早速起きている。それは、徳田誠志・宮内庁書陵部陵墓調査官の発言である。それは、

 『皇室の先祖を葬った陵墓は、今も「まつり」が行われている「生きたお墓」だ。保護・保全のために宮内庁は調査を行っているが、「仁徳天皇陵」については第1濠での浸食などが課題』という内容である。推薦時点で抗議を受けた呼称「仁徳天皇陵」をそのまま使用している点である。それも、徳田氏はどんな肩書であろうと、いち公務員に過ぎない人間である。憲法第15条には、1項に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とあり、2項には「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とあり、主権者国民のために奉仕する存在として位置づけられている。にもかかわらず、主権者国民であり、専門家でもある「日本考古学協会など歴史・考古学系の13団体」からの抗議を受けておりながらも、なおも事実に基づかないまま「皇室の先祖を葬った陵墓」と決めつけ、その「呼称」として「仁徳天皇陵」を公の場で使用し発言する(欺く)というのはどういう態度なのであろうか。主権者は国民であり、その国民を冒瀆する発言態度を決して許してはならない。徳田氏は処分の対象とすべきはもちろんであるが、彼の言動を認めている宮内庁長官責任をも問うべきである。

※これに関連して別稿「百舌鳥・古墳群:『イコモス』の世界遺産登録勧告の判定は信用できない。安倍自公政権は科学的研究を無視し歴史を捏造する歴史修正主義者集団」を参照してください。

(2019年9月12日投稿)

 

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百舌鳥・古市古墳群世界遺産登録祝賀提灯行列は神聖天皇主権大日本帝国政府下の戦勝祝賀集会と同じ発想感覚

2019-07-27 12:00:30 | 世界遺産

 2019年7月14日、堺市などの主催で、堺市堺区の大仙公園で、百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産に登録された事を祝って「提灯行列」が行われた。公募した市民ら約2千人が「祝賀世界遺産登録」と書かれたLED照明の提灯を持って、大山古墳前を練り歩いた。夜には公園内の広場で、永藤英機市長と市民が「万歳三唱」を行った。

 私は、祝賀の「提灯行列」と知って、大変驚いた。そして、自治体とその市民によるこのような企画と行動に恐怖を感じた。

 なぜなら、敗戦までの神聖天皇主権大日本帝国政府下の姿とあまりにもそっくりであったからだ。

 戦勝祝賀集会での「提灯行列」は日清戦争を皮切りに、敗戦まで続けた。1937年12月13日には中華民国(現中華人民共和国)国民党政権の首都であった南京を陥落させた際には、日本国中が戦勝気分に沸き、全国各地で連日連夜、「提灯行列」や行事を実施した。東京では40万人が参加した。主催は、行政、新聞社、地域の自治組織(町内会など)、学校、青年団などなど。「帝国の「上から」も「下から」も、「南京陥落」を「祝賀」する行事を組織した。

 この「南京陥落」に至るまでの日本軍の言語を絶する悪逆非道については、すぐさま世界中に知れわたっていたにもかかわらず、帝国政府は報道管制を敷き国民を言論統制下に置いていたため、日本国民はメディアからはまったく知るすべはなかった。その事実を初めて知ったのは敗戦後の東京裁判においてであった。

 ちなみに、1937年7月28日付陸軍省新聞班「新聞掲載事項許否判定要領」では、「我軍に不利なる記事、写真」「支那兵又は支那人逮捕訊問等の記事、写真中虐待の感を与える虞あるもの」「惨虐なる写真」はすべて掲載不許可としている。

(2019年7月27日投稿)

 

 

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南京大虐殺記録:世界記憶遺産登録(2015年)に至る経緯と「南京大虐殺紀念館」展示の目的

2017-06-30 09:17:15 | 世界遺産

 南京大虐殺紀念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)の前館長である朱成山氏(3代目、1992年~2015年)が2016年12月2日に3度目(1996年、2003年)の来日をした。日本各地で講演されたあと、13日には石川県金沢市で講演(主催:南京大虐殺・金沢講演実行委員会)された。その際、彼は「南京大虐殺の記録」が「記憶遺産」に登録されるまでにどのような経緯があったのか、また、その記録を管理する「紀念館」がどのような展示理念や目的のもとに活動してきたのかを語っているので要約して紹介しよう。それは、

「南京大虐殺の案件の世界記憶遺産への登録は中国人が初めにやろうとしたわけではない。当時、私たちはそれを世界記憶遺産に登録しようとは思っていなかった。実は、ユネスコの文化教育委員会の主席であったフィリピンの方で、カモン・パウラという女史が私たちの紀念館を訪れた時に、「マギー・フィルム」と「映写機」を見て非常に驚いた。その他の資料も見て、これは完全に世界記憶遺産に登録するに値する内容だ、これはぜひとも登録申請すべきではないかと言ってくれたのです。

 そして、私たちは当初、広島原爆ドームアウシュビッツ強制収容所と同じ「世界遺産」に登録しようかと思ったが、その後、フィリピンの女史の提案に基づいて記憶遺産の方を考慮するようになった。そして8年かけて資料を精査して申請するわけです。その中で特に注目すべきものは、「マギー・フィルム」と「映写機」、そして「当時の埋葬記録」と「戦犯裁判の記録」、そして、中国の別の都市の資料館にあった、「日本軍が後ほど南京で埋葬に関わった、その時の埋葬記録」などです。すべて原本で、一級資料のみを選定した。「ラーベの日記」とか「ヴォートリンの手紙」とか、非常に重要な物があるけれど、現物は私たちの館にはないので一級資料ではないという事で登録から外した。一級資料のみによる登録です」というものです。

 そして朱成山氏はまた言う。「登録の審査には、世界各国から24人の委員が選ばれ、基準に基づいて判定する。その基準は、資料の真実性、世界的な意義、無二の非代替性などです」と。

 ところで、ユネスコによる「南京大虐殺の記録」の登録決定(2015年)に対しては当時、安倍政権は強く反発した。また2016年には韓中日の市民団体が「慰安婦の記録」を同じ「記憶遺産」に申請したことから、安倍政権はユネスコに審査の透明性や関係国からの意見聴取など審査基準の変更を求め、分担金約39億円(米国が2011年にパレスチナがユネスコに加入したという理由で分担金を支払っていないため、日本が実質的に加盟国最大)の支払いを保留(2016年12月支払う)した。分担金支払い保留でユネスコに圧力をかけ、世界遺産の審査基準や方法を自己に都合よく変更しようとした安倍政権に対しては、松浦晃一郎元ユネスコ事務局長も「日本が自身の主張を貫徹するために分担金を支払わないのだとすれば稚拙だ」と述べていた。

 このような安倍政権の動きに対しても朱成山氏は、「日本政府の反応は実に滑稽だった。日本政府の意見を取り入れていない、聞き入れていない、という事ですが、元々この世界記憶遺産登録の(審査)には、そういう過程というものがないのです。相手国のどうのこうのというのは全くない。例えば日本のシベリア抑留が登録されたが、日本はロシアに意見を求めて共同で申請したのですか。それはあり得ない事です。日本政府はユネスコの分担金を保留する、払わないという事をやっていると日本に来てから知ったのですが、こうした問題をお金の力でどうこうしようというのは世界の笑い種だと思います」と語っている。

 しかし、産経新聞は5月7日、安倍政権が再び分担金の支払いを当分保留する決定した、と報道している。

 安倍政権は分担金の最大負担国である立場を恣意的に利用して「韓中などがこの制度を政治的に利用している。審査の過程で関連国が意見を提示できる制度改善が必要である」としてユネスコを圧迫し続けたため、ユネスコ執行委員会も諮問委員会制度の見直しを進め、5月4日、中間報告を採択した。内容は「関係国の意見が登録可否の判断資料として使われる、関係国間の意見が異なる場合は関係国間の事前協議を要求し妥協が成り立たない場合には最長4年間の協議を経る」というもので、この中間報告は検討を加え10月の執行委員会で正式に最終採択が決定されるという。しかし、産経新聞によると、安倍政権はこの中間報告を即時適用する事を要求する方針であるという。

 安倍政権は、「記憶遺産」に対して上記のような、なりふり構わぬ行動を見せているが、並行して安倍政権の傲慢さを打ち砕く新しい事実が明らかとなってきている。それは、参議院議員・紙智子氏が6月16日に提出した「国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書」に対する答弁書安倍政権が閣議決定したという事である。答弁書の内容は、「新たに発見した日本軍「慰安婦」資料として、いわゆる東京裁判及びアジア各地で行われたBC級戦争犯罪裁判の関係文書182点を本年2月3日に政府が入手した」事を認めた。また、「日本政府が存在を認めていなかった軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述が存在している」事を初めて認めた。さらに、日本軍「慰安婦」制度が「人道及び国際条約の侵反行為」であり、「戦争の放棄慣習に対する違反行為」であると裁判で認定され、「強制売淫の為の婦女子の連行、売淫の強制、強姦なる戦犯行為」として判決され、記述されている事を閣議決定で認めた。(この裁判(判決)はサンフランシスコ講和条約で日本政府が受諾している)、などである。この閣議決定は、これまでの日本軍「慰安婦」問題に強制はなかったとする安倍自民党政権の見解を大きく見直したものである。今後の安倍政権のユネスコに対してはもちろん韓国政府に対する姿勢や動きが興味深い。

 それはさておいて、南京大虐殺紀念館の展示理念や目的についてであるが、朱氏によると主要なテーマを象徴する言葉を3つ掲示していると語っている。それは、「私は反日ではない」「南京市民は友好を願う日本人がたくさんいる事を知っている」とし、

1、マギー牧師の言葉「許す事はできる。しかし、忘れてはならない

2、幸存者(被害者)である李秀英さんの言葉「歴史は残さなければならない。でも、恨みは残してはならない

3、南京法廷の中国人裁判官の言葉「軍国主義の罪悪を日本の民衆の上に被せる事はできない。しかし、歴史を忘れれば同じ過ちを犯す事になる

 であるとの事。安倍自民党政権がいかに偏向しており視野が狭く独善的自己中心的で傲慢な体質であるかが見えてくる。

(2017年6月30日投稿)

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ユネスコ分担金支払い保留の傲慢手法による歴史書き換え(歴史修正主義)は戦前同様の力こそ正義の外交

2016-10-16 21:16:24 | 世界遺産

 ユネスコ分担金安倍政権が支払わないという問題が起こっている。菅官房長官は支払いを保留している事について、10月14日の会見で、「昨年、政府が知らない中で様々な事が決められた。こうした事が正常化されるかどうかを見ながら対応を考えたい」と、中国が申請した「南京大虐殺の記録」を記憶遺産に登録した事を理由とする発言をした。また、審査過程で関係国の意向を聞くなどの見直しを求めている。この発言は、ユネスコの登録審査が「異常な状態」にあるかのような印象を与える事を狙ったものであり、安倍政権の極めて傲慢な姿勢を表した発言であるというべきであり看過すべきではない。

 また、支払いを保留している理由はそれだけではないのである。メディアは意図的に大きく取り上げていないのであるが、それは今年6月、日中韓などの民間団体が旧日本軍の慰安婦に関する資料の遺産登録申請をしたからである。

 金を積んだり、金を積まなかったりで、自己の意思要求を適える、目的を達成する、つまり金を使って金にものを言わせてあらゆる事柄を解決するという発想があり、適法であるかどうかではなく、公平公正かどうかではなく、正義に適っているかどうかではないのである。もちろん普遍的な理念などカケラも持ち合わせていない。この手法はこれ以外のあらゆる事柄に対する対応に表れている。そして、このような手法を正当なものであると考えているのである。これが新自由主義というものであり、安倍政権の体質なのである。

 このような体質を露わにし出したのは、上記のような日本の「侵略戦争」に関する内容が登録申請される動きが出てきてからである。この事は安倍政権が、余程アジアの人々の主張が信用できないという事を訴えたいのか、それとも、余程後ろめたい公けになっては困る認めたくない内容であるという事なのか、という事になると思うが、間違いなく後者であると言ってよい。安倍政権は、学問的には非科学的で恣意的な解釈(捏造)に基づくものであるが、彼らにとっては死守すべき重要な「美しい国」という日本歴史のイメージをそこねる内容を否定したいのである。これは歴史修正主義であり、これを黙認したり許すならば、この先彼らは、これまでの科学的研究で明らかにされた日本歴史のすべての内容を彼らの歴史観によって書き換えていく事だろう。すでに始めているが。また、現在起こっている様々な場所での様々な事象についても彼らの恣意的な解釈がなされていくであろう。これもすでに始めているが。

 なぜこのような傲慢な姿勢や手法をとる事ができるのかというと、手本とする前例があるからである。それは、安倍政権の親分である「米国政府」が、パレスチナ加盟に反発して2011年秋から分担金の支払いをやめているのである。

 「力こそ正義の外交」の一つの例は「国際連盟脱退」の歴史にも見られる。

「中国は、満州事変が起こると国際連盟規約に基づき連盟に提訴。日本政府も調査団派遣を提案。これを受けて1932年イギリスのリットンを団長とする調査団(英米仏独伊代表の5名)を現地と日本・中国に派遣。調査中に関東軍は「満州国」の建国を宣言させ、斎藤実内閣は日満議定書で満州国を承認。

 リットン報告をもとに、連盟は1933年2月の臨時総会で、日本の「満州国」承認の撤回や日本軍の満鉄付属地内への撤兵などの勧告案を、42対1で採択。日本全権松岡洋右はこれを拒否し、総会会場から退場。翌月に連盟からの脱退を通告。さらに1936年のワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約失効で、日本の国際的孤立は決定的となった。」

これ以後の日本の歩んだ歴史は周知のとおりである。

 

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