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森喜朗発言は憲法違反、傲慢無礼を許すな。背景に「憲法改正草案」実現の環境作り

2016-07-09 23:21:22 | 国旗・国歌

 森発言「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」(国歌独唱時の選手団の様子を振り返って) 

 7月3日、リオ五輪代表選手団の壮行会で、上記の発言を東京五輪・パラ組織委員会会長森喜朗氏が来賓挨拶で述べたという。またそのほかに、「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのでしょうか、サッカーの澤穂希さんや、ラグビーの五郎丸歩選手が君が代を歌い、その様子を見て国民が感動した、口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、表彰台に立ったら、国歌を歌ってください」と述べたともいう。当然、苦情や非難批判が寄せられたのだろう。7日に釈明をした。その内容が「お願いをしたわけで、文句や注文を言ったわけではない」との事だ。

 森氏の発言は選手たちを見下した傲慢さに満ちている。森氏は「国歌」を歌うよう「侮蔑」「威嚇」「威圧」「強制」している。森氏にそんな権限はない。選手たちが憲法で保障されている人権を侵害している。また、釈明では「お願いをした」と言うが、「威嚇」や「強制」「侮蔑」としか受け取れない言葉を使っておいて、人に「お願いした」と言えるのだろうか。またそれ以前の問題として「お願い」できるような事なのか。そして、「文句や注文を言ったわけではない」というが、「文句や注文」そのものではないか。

 この問題は一言でいえば「国旗掲揚・国歌斉唱」問題の一つである。そして、法律では「国旗国歌法」違反、憲法では第11条「基本的人権の享有」、第13条「個人の尊重・幸福追求権」、第18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」、第19条「思想及び良心の自由」、第20条「信教の自由」などを侵害し、第99条「憲法尊重擁護義務」に違反した「憲法違反」の発言である。 

  森氏は釈明によって非難批判の処理ができ、この問題は解決できたと思っているのだろう。しかし、国民は重大発言問題としてとらえこれで終わらせてはならない。発言と釈明に見られる意識が安倍政権自民党には蔓延している事を教えてくれたという事だ。彼がそれを改めて暴露してくれたという事だ。それほど安倍政権自民党は憲法や法律に対して意識的に無視する体質を強く持っているという事だ。人権を軽視無視否定する体質を強く持っているという事だ。国民をひじょうに馬鹿にした体質を持っているという事だ。

 森発言は解決済みにしてはいけない。責任追及を止めてはいけない。森発言の元となった「国家独唱」についても注意を向け疑問を持つべきだろう。それは、なぜ陸上自衛隊によって行われたのかという事、そして中央音楽隊松永美智子陸士長の独唱なのかという事、そして誰がそのように決めたのかという事である。ここには国民にとって恐るべき今日日本の政治情勢が表れているという事である。

 メディアは「発言」や「釈明」の内容については報道しているが、それらについてのコメントを一切していない。ただ本質に触れない些末な発言内容を伝えているだけである。それは、場内アナウンスが「独唱」で、ステージモニターにも「独唱」と表示があったというもので、いわゆる状況説明である。「斉唱」ではなかったから歌わなかったのだ森氏を批判したつもりなのか。「斉唱」で歌わず今回と同じ森発言があったらどう説明するつもりだったのか。おかしな説明だ。メディアは保身のために立場を明確にする事を避けたように思う。スルーしたようだが、国民はこれで済ませてはいけない。国民として大切な事は、森発言は決して突発的偶発的に起きた予想外の出来事ではなく、予定していたものだという認識を持つ事です。どのような政治政策でも何の意図も目的も計算もなく行われる事はないという事です。

 さてそれではどういう意図で発言したのであろうか。この「国旗掲揚・国歌斉唱」問題は、安倍政権下においては前下村文科相が、国立大学に対して実施を強要して大きな問題となったが、現馳文科相も、それを受け継ぎ手を変えてしつこく推し進めようとする意志がひしひしと伝わる動きを見せているのが現状である。そこに起こったのが今回の「森発言」である。森氏はどのような効果を狙って発言したのかという事であるが。

 安倍政権自民党は、敗戦前までの「大日本帝国」(大日本帝国憲法)への回帰を究極の目的としている。そのために敗戦後に、「民主主義」(日本国憲法)の「国家体制」に変身した(安倍政権からすれば変身させられた)日本を今日まであらゆる面においてコツコツと一歩一歩着実に元へ戻してきた。その一つが「国旗掲揚・国歌斉唱」で、日本内外を問わず津々浦々あらゆる場所であらゆる機会に一人の例外も許さず礼儀として浸透させたいのである。森発言はそのための一つの手法として行ったのである。今回は代表選手やそれに関わった人々に対して直接「威嚇」「威圧」「強制」したとともに、この事がメディアなどで見聞した次期代表や国民全体に与える教育効果も計算して行ったのである。 

 それでは彼の発言の源は何か。それは「自民党憲法改正草案」なのである。森は現在すでにそれに込められた精神に基づいて発言しているのである。「草案」の第3条は「国旗及び国歌」で、第2項に「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」としている。一見「強制力」を伴わないように解釈できるが、Q&Aの説明では、「国旗国歌を巡って教育現場で混乱が起きている事を踏まえて置いた」とあり、学校の式典での「掲揚斉唱」に拒否抵抗する教員の処分を正当化する根拠とするという意味であり、また、「我々がいつも『日の丸』と呼んでいる『日章旗』と『君が代』は不変のものであり、具体的に固有名詞で規定しても良いとの意見が大勢を占めた」とあるのは、現在国旗としている『日の丸・君が代』を永久に変更不可能なものと位置づけるという意味であり、「改正草案」第1条の「天皇の元首化」と関係している。また、「国民が尊重すべきである事は当然の事であり、これによって国民に新たな義務が生ずるものとは考えていない」とあるのは、日本国民なら「国旗掲揚・国歌斉唱」するのは義務であり当たり前であるという事を理解しているはずだから、それ以外の新しい義務を強制しない、という意味なのである。それが分からずしないのは「非国民」だという事である。安倍政権は極めて恣意的で強引な解釈を込めている事に注意しておかなければならない。

 この条文を成立させるために、選手団を利用してまず彼ら自身に受け入れさせるとともに、彼らが歌う場面を国民が見る事によって、国民の間にある抵抗感を抑え込み払拭し、受け入れていくような精神的環境を培養するためなのである。国民を精神的に統合するために。敗戦までの「挙国一致」精神を醸成するために。国民精神総動員運動に取り込もうとしているのである。

 ところで、1980年に、米国政府がソ連のアフガニスタン侵略への抵抗・批判の意を込めて、モスクワ五輪参加を中止した。これがきっかけとなり、IOCは1984年大会から、「五輪は個人の競技であり、国家又は地域の間の競技ではない」という五輪本来の精神に立ち返り、憲章から国旗・国歌の文字を消し、各国五輪委員会(NOC)の歌と旗を使用する事にしたが、その精神はどこへ行ってしまったのだろう。2020年の東京五輪は「真逆」である。安倍晋三の招致活動も森喜朗の壮行会発言も、五輪本来の精神に反したものと言える。 

 「国旗・国歌法」には「掲揚・斉唱」を強制する明確な文言はない。また、成立時点の政府答弁では「強制しない、今までと変わる事はない」と説明していた。また現行憲法には「国旗国歌」の規定自体が存在しない。しかし、その政府答弁は効力はなく反故にされ、「掲揚・斉唱」を強制する動きは進んでいる。例えば、大阪府市(維新の党橋下徹)では条例を制定し、斉唱しない教職員に対して法的「強制力」を持つようになり「職務命令違反」として処分の対象としてきたのであり、裁判の判決においても「職務命令」による強制は「合法」とされてきたのである。

 最新の判決では、2016年7月6日、大阪府立高校の元教諭に対して、大阪地裁が、君が代に抵抗を持つ人に起立斉唱させる職務命令は「思想・良心の自由を間接的に制約する面がある。また、式典が妨害されたわけでもない」としたが、「起立斉唱は単なる『儀礼的な所作』で、許される程度の制約だ。公務員としての規律より自らの価値観を優先させた」として「減給が相当」とした。

 また、上記より前の4月18日、東京地裁が、卒業式で君が代斉唱時に起立しなかった事を理由に都立学校が定年後の再雇用を拒否した事に対し、「職務命令より自己の見解を優先させた事が、選考で不利に評価されてもやむを得ない」とした。

(2016年7月9日投稿)

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7月8日(金)のつぶやき

2016-07-09 02:20:02 | 報道/ニュース
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