元最高裁判事、東邦大学名誉教授である藤田宙靖氏は、朝日新聞のインタビューで、憲法と天皇の関係や退位のあり方についての考えを述べた。その内容について、私の考えを述べたい。
氏は「退位を認めるには典範改正が必要だという主張がありますが、私は特別法でも可能であろうと考えます。憲法がいう『皇室典範』とは一種のカテゴリーであって、特別法やそれ以外の付属法令を含めたものをさすとの理解は不可能ではありません。また、そもそも今の陛下の退位という個別事例に限った立法が許されるのかとの議論もありますが、この点についても、平等原則など憲法が他に定める規範に抵触しない限り、対象が個別的であるからといって、その事だけから違憲だとは言えないでしょう」と述べ、特別法による場合、「その法律は必ず、今後の天皇にも適用され得る法的ルールを定めたものでなければならない」と述べている。
ここで受け入れがたい事は、氏の考え方は、憲法に規定された『皇室典範』の恣意的な「拡大解釈」「解釈変更」「解釈逸脱」である。この点ですでに「憲法違反」「皇室典範違反」であり、憲法や皇室典範の改正の必要性をルールに含める事を明確に述べないという点で問題である。「拡大解釈」「解釈変更」「解釈逸脱」については、すでに現行天皇の「代替わり行事」で、憲法の「政教分離原則」に違反していた、皇位継承に伴う儀式である「剣璽渡御の議」を「剣璽等承継の議」と、また「践祚後朝見の儀」を「即位後朝見の儀」と一部名称変更しただけで実施された事などの先例にみられるような、自民党政府が国民に見せた、憲法をないがしろにした欺瞞的な姿勢を考えれば、再び自民党に同様の事を許さないためには法を厳格に解釈する事が重要であると考える。氏の考え方は、「解釈変更」を常套手法とする安倍政権を利する考え方で、それを国民にアピールしている事になる。
また、ルールを設定すれば特別法での退位は可能であるとしている。(その後に典範改正する事をほのめかしている。)しかし、そのルールの一つの条件として挙げた「皇室会議の手続き」については、それがまったく「公明正大」な決定機関であるかのように、何の不信感も抱いていないように挙げているが、これがチェック機関としてその機能を適切に果たすかどうかは疑問である。なぜなら、皇室会議のメンバーを考えれば明確な保証があるとはいえないからである。おそらく、安倍政権においてはチェック機関にはなり得ないであろうと考えるべきである。そのように考えれば、ルールを設定しても無意味である。安倍政権にとってはあまり大したハードルとはならないルールであるという事である。仮に特別法にルールを設定する場合、彼の示した内容だけに止めず、皇位継承に関する「憲法」条項、そして「皇室典範」の皇位継承についての規定の改正条項を含めるべきである。
また、氏は「退位を認めないとは、職責を果たせなくなっても、また本人の意に反しても、象徴として世にあり続けるのを強いる事です。人道的な問題が生じるのではないでしょうか。」「公務員がその地位に伴って活動に一定の制約を受けるように、天皇という地位にある方の基本的人権も制約されざるを得ません。しかし、最低限度の人権、つまり人間の尊厳、個人の尊厳まで奪われていいはずはありません。」と述べている。しかし、この表現では、国民が一方的にそのように規定したという意味にとれるが、それは事実を歪曲し国民に責任を擦り付けようとするもので、事実は昭和天皇自身が自主的に、自己の天皇の地位を維持し、将来の天皇制存続を考えた末に当時の為政者とともに、米国(マッカーサー)との間で取引し、決めた事ではなかったのだろうか。憲法第9条の規定も、それとセットとして沖縄県(民)を日本から切り捨て米国軍政下に置いた事も。ついでに言えば、現行憲法は沖縄県民を審議から除外して成立したものである。
また、氏は「天皇は神ではなく、一人の人間なのですから」と述べている。しかし、一般的な日本国民とは異なる生活特徴(神道に基づいた宗教的生活)を有している事に触れず、その事だけを強調する事は、国民を誤解させる効果を生じる。それは、明治時代から敗戦までの国家神道の信仰を実質的に継続し組織を維持し、その最高祭祀者である事も辞めていない継続しているという事である。また、昭和天皇は、俗にいう「人間宣言」の文章で、マッカーサーとの間で、「現人神、現御神」ではないという表現を使用する事でごまかし、神の裔である事を死守した、その記紀神話の「天照大神」の裔である事を現行天皇は否定していない意思を示し、かつての国家神道行事を実質的に遂行しているからである。天皇自身、また皇族もだが、それを否定する事を強固に拒んでいるような生活行動を続けているからである。「一人の人間である」と見做せというならばこの一般的ではない特異な生活行動をどのように説明できるのであろうか。不可能であろう。また、この宗教生活を止めない限り、「一人の人間である」とはいえないであろう。このように考えれば、氏の主張はあまりに天皇の生活行動の実態とは異なるものであり、それを伏せたものであり、国民を馬鹿にしたものであり、情報操作を意図としたものとも受け取れるものである。
また、氏は「お言葉に対し、憲法が禁じる天皇の国政への関与につながりかねないとの批判もありますが、そのようにとらえるのは法理論的には全くの筋違いというべきです」と述べている。これについては、欺瞞的な理屈をこねず、「政治的発言」「政治的行為」であり、明らかに憲法に違反した「国政への関与」であると認めるべきである。そして、今回はなぜ天皇が「皇位継承」について「政治的発言」をしなければならなかったのか、誰がなぜ「お言葉」発表を認め、場の設定に指導的な役割を果たしたのかを明らかにする事こそ目を向けなければならない重要な事である事に気づくべきである。「お言葉」に手を入れ、発表の場を設定したのは安倍首相ではなかったのか。氏がそういう事に触れない姿勢から、氏が安倍首相と結託している事を確信させる。
また、氏は「憲法によって、天皇は国民統合の象徴とし位置づけられました。しかし、象徴の地位にある者が具体的に何をすべきかの明確な定めはなく、陛下は自らそれを探り判断し、実行しなければならなかったのです。ある法的地位にある事に伴う必然的な行動でした。それを、憲法は何も要請していないのに勝手に仕事を広げていったなどと批判はできません」と述べている。この主張も、非論理的で、極めて情緒的であるというべきである。現行天皇が即位時に「憲法を尊重する」と言った事を考えれば、なぜ天皇は憲法に規定していない事を行っていったのか。その天皇の姿勢こそ問題としなければならない。また、その天皇に助言と承認を与えてきたであろう「内閣」、自民党内閣の責任を問うべきであると考えるのであるが。その事に触れず国民を批判する事は安倍政権自民党政権を利するための主張としか思えない。そして、氏は「そうして積み重ねられてきた陛下の行いを、国民の多くは天皇の公的行為の一部として支持してきました」と述べているが、国民はその事に対し「異議申し立て」をする機会を与えられてこなかったのであり、支持していない。それを氏は自身の都合の良いように解釈しているのである。そのうえさらに、天皇による、国民との、氏の言う「触れ合いや戦災や震災で亡くなった人の慰霊・追悼行為」などに対して、「国民主権の下で民主性を採用する憲法にマッチする」と手前勝手に正当化しているといえる。
象徴としての行為、象徴としての務めは、1946年の昭和天皇による地方巡行に始まるが、それは天皇制存続を国民に受け入れさせるための演出であったし、1949年からの国民体育大会開会式出席は秋の地方巡行であり、1959年からの全国植樹祭開会式出席は春の地方巡行であり、いずれも天皇の存在をアピールし天皇制存続の意識を国民に醸成する事を目的とした天皇制キャンペーンとして実施してきたのである。今日それ以外に数えきれない「象徴としての務め」なるものを実施するようになっているが、これらはすべて目的は同じで、ひと言でいえば「天皇制キャンペーン」なのである。そして、このキャンペーンによって国民の多くがその手法により洗脳されてきたといえる。
また、先に述べた事と関係するが、天皇は氏の言う事だけをおこなってきたわけではない。天皇によるかつての国家神道の中核である皇室神道の祭祀行為について憲法は認めていない。にもかかわらず敗戦前と同様に敗戦後の今日までその信仰を続けてきている事やその延長として全国の神社神道とのかかわりを政教分離の原則の遵守義務があるにもかかわらずそれを無視して継続している事実に対しては、憲法違反であるにもかかわらず、氏はまったく触れていないが、それは何故なのか。氏にとって都合のいい事だけを主張していると言ってよいのではないか。
氏は最後の所で、「国民のために祈る事が最も重要な務めであるという同じ前提に立ったとしても、その方法は天皇お一人お一人によって多様な形やスタイルがあり得ますし、自ずからそうなっていくだろう」と述べている。しかし、「国民のために祈る」という事の中身がどういうものであるのか、何故天皇が特定の神に自らの先祖と見做す記紀神話の神々に、国民のために祈る事が認められるのか許されているのかそれが憲法違反として問題にならないのかという肝心な事についての説明はしないのである。しかし、この内容こそ非常に重要なのである。伊勢神宮や靖国神社は国民全体を氏子と見做しているからである。
また、「国民のために祈る」という表現は国民にとって心地よいものであり、そのため特に問題視する必要はないと思っているかもしれないが、この「祈り」は実は本来「国家のため」、つまり、天皇家と天皇制国家の存続を願ってなされてきたのであり、今日なされているのである。それを「国民のために」と表現を変えてきている事を知っておくべきである。
また、「国家は様々な『罪』を抱え込んだうえに成り立っていますが、それを自ら原罪として背負い、いわば贖罪の旅を続けてこられた」と述べている。しかし、天皇は「贖罪」を意味する発言は一切していない。だから、これは氏の恣意的な思い込み決めつけに基づく言葉で、実際の「天皇の意思」に基づいたものでなく、歪曲し捏造した言葉であり、現行天皇の行為や「言葉」を美化しようとしたものである。昭和天皇が最高責任者として犯した「国家の様々な罪」について、昭和天皇を継承したものとして現行天皇が有する逃れることのできない責任を不問にしようとする意味をもつ主張である。天皇は侵略の被害を被った国々と侵略行為に駆り立てられた日本国民に対して謝罪する事こそ求められているのである。しかし、天皇は安倍政権の補完的役割を果たしているのが実態で、政権の意向を忖度した象徴的行為を実施している。たとえば、空襲被害者や、反戦平和運動をして天皇制国家を守るための治安維持法で処罰された国民にはまったく関心を示さないではないか。このように考えに立てば、氏は、天皇や安倍政権と利害を同じくし、立場を同じくして今回の主張をしていると思える。
(2017年1月22日投稿)