安倍自公政権は、2017年2月20日、関係閣僚会議を開き、2020年の東京五輪・パラリンピックに向けて、個人の「心のあり方」と街づくりの両面でバリアフリーを進めるとうたい、障害のある人もない人も支え合って生きる「共生社会」をめざすという行動計画を決めた。
計画内容は、障害への理解を促すために、20年度以降に実施しようとしている改訂学習指導要領で、道徳や音楽など各教科書の記載を充実させ、「すべての子どもたちに心のバリアフリーを指導するとしている。
この「心のバリアフリーを指導する」「支え合って生きる共生社会をめざす」としている事について、疑問に感じた事をいくつか述べたい。
改訂学習指導要領で、「すべての子どもたちに心のバリアフリーを指導する」としているが、この中身が「障害者問題教育」を意味しているとするならば、学校教育の現場においてこれまで教師たちが取り組み築き上げてきた内容がすでに存在するが、それとの関連をどのように位置づけているのかという点である。安倍政権は当たり障りのない「もっともらしく思える」言葉を並べているが、端的に言えば「みんな仲良くしなさい、助け合いなさい」という単純な「仲良し教育」をするだけであって、「五輪・パラ」のために国内外に向けて「善政」を装う「演出」にしか過ぎないものである。そしてまた、この教育の真の目的は「挙国一致」精神や全体主義思想を植え付ける、刷り込む事なのである。
「障害のある人もない人も」という表現をしているが、本来人間は完全無欠な心身を有しているのではなく、顕在化していなくてもどこかに障害を内包していると考えるべきであるし、また、事故などにより突然障害を持つ場合もあれば、高齢化による顕在化もある。そのように考えれば正確には「すでに障害が表れている人と今後障害が表れてくる人」という表現が適切であろう。そして、特にここでは便宜上「すでに障害が表れている人」を「障害者」という言葉で表現しますが、人間は個々に人格が異なるのと同様に、「障害者」も個々に異なり一括りで考える事は誤りであるという認識を持つ事が大切である。
「障害者問題教育」の重要なポイントは、「障害」についての上記のような認識を培う事とともに、憲法によって誰にも保障されている基本的人権が「障害者」(人間の人格が個々に異なるように「障害者」も一括りに見做す事は誤りであり、「障害」は「個性」であるという認識を持つべきである)にも平等に保障されているかどうかに気づいてもらう事や、「障害者」が基本的人権を保障されていない状況にある大きな原因が、「障害者」(個々に障害の状況が異なる)に対する「物理的社会生活環境」(法律や制度や設備)が整備されていない状況にある(「障害者」に対する「人権侵害」は「社会生活環境」の状況により生み出される)という事に気づいてもらい、そして、そのような「状況」が「障害者」だけに関係する特殊な問題ではなく、すべての人に関係する普遍的な問題であるという事に気づいてもらう事であり、加えて、そのような「物理的社会生活環境」に対して手をつなぎ共に変革しようとする意識を持ち行動する事(これが「共生社会」である)が、「障害者」にとってはもちろん、すべての人に「安心」をもたらし、「幸せに生きる」事ができる事を理解してもらう事なのである。そこにこそ「障害者問題教育」の「重要性」「必要性」が存在するといえる。
安倍自公政権は、「障害者」に対する「物理的社会生活環境」(法律や制度や設備)の整備に努める事とともに、学校現場で教師がこれまでの「取り組み」をさらに高めるための環境を保障する事に徹する事こそ本来の行政の「責務」である事を自覚すべきである。しかし、「唯我独尊」の彼らは自覚できないであろう。退場させなければ、彼らは日本を全体主義国家にしてしまうであろう。
(2017年2月26日投稿)