東京地裁は、2019年10月2日、民法の夫婦同姓規定が「法の下の平等」を保障する憲法に違反するかどうかを問う訴訟の判決で、大学教授夫婦である原告の請求を棄却した。
しかし、その理由は、憲法判断を回避するために、訴えを捻じ曲げスリカエている。
それは「2015年の最高裁判決の正当性を失わせるほどの変化があったとは認められない」というものである。裁判官の職責は、憲法が保障する国民の基本的人権を保障する事である。そしてその判断(判決)については、第76条で「裁判官は、……この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めている。そしてその判断(判決)を下す保障をするために憲法は、個々の裁判官の独立した地位保障の必要性から、第78条で「行政権による懲戒処分の禁止」、第79条6項・80条2項で「相当額の報酬と減額の禁止」を定めている。
しかし、東京地裁大嶋洋志裁判長の判決は、憲法に拘束された(憲法を判断基準とした)ものとは言えないもので、「2015年の最高裁判決」を正当なものとみなしており、その「正当性を失わせるほどの変化があったとは認められない」としている。その判決の拠り処(基準)は「社会の変化」「国民の意識」であるとし憲法ではないとしているのである。この憲法に基づいた判断を回避する姿勢は、憲法を無視したものであり、もちろん正当性などまったくなく、それをあると主張するのは自己満足か国民を欺瞞しようとする狡猾さであり、憲法違反以外の何ものでもなく、裁判官の職責を放棄したものである。もっと言えば、主権者国民が与えている裁判官の独立を放擲して主権者国民に背き、安倍自公政権への忖度をしたものである。
裁判長は、憲法第99条「憲法尊重擁護義務」の遵守に基づいた上で、「個人の尊重・幸福追求権」の保障を定める13条や、憲法第14条に定める「法の下の平等」規定、第24条「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」を保障する1項「婚姻は、……夫婦が同等の権利を有することを基本として、……」や、2項「……、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」という規定に基づいているのかどうかを基準として判決を下す事が本来の裁判官の職責を果たす事になるのではないだろうか。それでこそ「裁判所」「裁判官」は「憲法の番人」といえるのではないだろうか。
さらなる誤り、は、裁判官(司法権)自らその職責である合憲か違憲かという主体的な判断を明確に示さないだけでなく、「国会の立法政策として考慮されるべきだ」と国会(立法権)に責任転嫁をしている事である。裁判官(司法権)の使命と職責を自ら否定する事を宣言するものである。
(2019年12月14日投稿)