米国政府軍が、サイパン島を占領したのは1944年7月7日であった。その際の日本軍や日本民間人の状況を当時の朝日新聞は1944年8月19日付に以下のような記事を報道していた事を紹介したい。
一面右上角の記事上の横書き黒地白抜き大見出しは「壮絶・サイパン同胞の最期」、同面記事右側の縦書き大見出しは2行仕立てで右側に「岩上、大日章旗の前」、左側に「従容、婦女子も自決」、その大見出し2行目の左側にはさらに「世界驚かす愛国の精華」としていた。
「サイパン島守備のわが忠勇なる将兵が全員戦死をとげ、在留邦人と雖も戦い得る者は敢然戦闘に参加し、概ね将兵と運命を共にしたことは7月18日の大本営発表によって世界に伝えられ、その忠勇戦列な行為は全世界を感動せしめたが、非戦闘員たる婦女子も亦生きて鬼畜の如き米軍に捕はれの恥辱を受くるよりはと潔く死を選んだ事が報ぜられ、民族を挙げた日本国民の敢闘精神、愛国心の強烈さに全世界を驚かしている、これに関し近着の米週刊誌タイム8月7日号は『敵の性質』と題してサイパン島における日本軍の将士、在留邦人の自殺の状況を詳報し、その壮絶な最期はもはや西洋人にとり不可解なもの、神秘的なものと〇し、サイパン島在留邦人の自殺は『日本全民族が降伏よりもむしろ死ぬ』ことを意味するものとして怖れている、本報道はタイム誌前線特派員ロバート・シャーロッドの報告であり、米人の読者を相手にするものだけに殊更に興味本位に取扱い或は凄絶さを誇大にし或は脚色した部分もあるように見受けられるが、然し日本非戦闘員の壮絶なる最後についてはさすがに千軍万馬古強者の彼等も〇倒している、非戦闘員の壮烈な最期を伝えるものなき今日、せめて米誌の報道をかりてサイパン在留同胞の最期を故国に伝えたい
『我々はサイパン島における日本軍の最期攻撃を撃退するまでに日本軍将兵の自決の状況を〇さに見る事が出来たと思っていたが事実はそうではなかった、それについては未だ語るべき事がある、水陸両用トラックに乗って日本軍掃討に出掛けた米海兵隊の一分遣隊は沖合の珊瑚礁に7名の日本人がいるのを見てこれを捕えるべく沖合に出掛けた、水陸両用トラックが近づくと7名のうち6名の日本人は珊瑚礁の上で自決を遂げ遠目にも明らかに将校と見える残りの一名は部下と共に刀を振りかざして水陸両用トラックめがけて突進してきた、然し彼と残りの部下一名は米軍の掃射に遭い壮絶な最期をとげた、これまで我々はサイパン島にあった2万の日本人非戦闘員の多くは互いに助け合って自決して果てたという事実とも思えぬ話を耳にしていた』(ロバート・シャーロッドの報告)と先ず日本兵の壮烈なる最後から書き出しているが、彼らアメリカ人は活字を通しておそらく珍奇なものとしてだけしか把握し得なかったであろう「大和魂」「切腹」の精神を二つの肉眼にみて何と考えたであろうか、日本はサイパンに幾多の尊い人命を、犠牲を払ったが、いまやそれが故国の同胞に総武装の比類なき刺激となって結実しつつある事実にまで果たして思いをめぐらし得たであろうか、この米人記者の筆致にはそうした心の響きは感じられない、……」。
米国政府軍がグアム島(日本名:大宮島)を占領したのは1944年7月、のちに日本の広島や長崎へ原子爆弾を投下するB29爆撃機の基地として使用するテニアン島を占領したのは1944年8月であった。
朝日新聞は、グアム島とテニアン島については1944年10月1日付で以下のような記事を報道していた事を紹介したい。
一面右上角の記事上の横書き大見出しは2行仕立てで、上には「死闘二箇月・不滅の闘魂」、下は黒字白抜きで「斃れて熄まぬ大和魂顕示」、同面記事右側も縦書き大見出しは2行仕立てで、先ず「大宮島、テニヤン島」、その左側に「全員壮烈な戦死」、その左側にはさらに「全在留同胞共に散華」としていた。
「大本営発表(昭和19年9月30日16時30分)
一、大宮島及び『テニヤン』島の我が部隊は其の後いずれも一兵に到る迄、勇戦力闘したる後遂に9月27日迄に全員壮烈な戦死を遂げたるものと認む 同方面の陸軍指揮官は陸軍中将小畑英良にして大宮島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将高品彪、海軍部隊指揮官は海軍大佐杉本豊、『テニヤン』島の陸軍部隊指揮官は陸軍大佐緒方敬志、海軍部隊指揮官は海軍大佐大家吾一なり
二、両島の在住同胞亦終始軍の作戦に協力し全員我が将兵と運命を共にせるものの如し
小見出し(大宮島)『残る三百で突撃 最高指揮官、陣頭に奮戦』
(2023年8月14日投稿)