今年の「全国戦没者追悼式」での「天皇の式辞」(天皇陛下のおことば)で、まず全体を通して言える事は、「第三者的」な立ち位置を感じさせる表現を使用している事である。
例えば、かけがえのない「命を失った」という表現や、「深い悲しみを新たにいたします」という表現であるが、「命を失った」のは誰に責任があるのか?それは現行天皇のお祖父さんである「昭和天皇」やお父さんである「平成天皇」であろう。それをきちんと自覚しておれば「深い悲しみを新たにいたします」という表現では済まない事は明らかであろう。この表現を使用するところに現行天皇の「先の戦争」に対する認識や国民観が表れているといえるだろう。
また「終戦」ではなく「敗戦」とすべきであろう。「終戦」という表現はただ無意識に使っているのではなく極めて意識的と思えるもので、「敗戦」を認める事はできないとする天皇家皇族全体の統一認識に基づくものと見做してよいだろう。「終戦」という表現の使用については、敗戦処理内閣である東久邇宮内閣が、1945年9月初めに議会を開き、そこで首相自ら国民に向けて戦争終結のメッセージを送る演説を行っているが、その演説の草稿段階で、陸相であった下村定が草稿の中の「敗戦」という表現をみつけ、「敗戦ではなくて、終戦としてほしい」と注文をつけた事がきっかけとなっているのである。それを天皇家皇族も延々と踏襲しているという事なのである。天皇家皇族が自ら負わねばならない責任を自覚し使用すべき適切な表現を選択すべきであるにもかかわらず、「終戦」という表現を今回までそのまま踏襲し続けている姿勢に天皇の「先の戦争」についての認識が表れているのである。国内では問題視されずに使用できても、外の世界や外国からみればこれは「異常」「不可解」としか思えないにもかかわらずである。
また、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」という表現については、「さきの戦争」を引き起こした責任者について、憲法前文の表現を認識しておれば、天皇は政府の部分(敗戦前は統治権の総攬者であり、敗戦後は内閣の助言と承認により、法律、政令及び条約を公布する役割)であるから、「政府の行為によって」という表現をその前に付け、戦争責任者の継承者である立場を明確にするとともに自身の意思を示すため、「過去を顧み、深い反省の上に立って、政府の行為によって再び戦争の惨禍を引き起こす事のないようにする事を決意し」とするべきであろう。しかしそうではなく、極めて第三者的な無責任な表現を使用しており、天皇が主権者国民に対し「繰り返してはいけない」と説諭しているような表現になっている。
そして、「全国民と共に」とあるが、天皇と国民とは立場も人格も別なのであるから、天皇が国民の個々の意思を無視して自身の都合で一方的に、全国民(主権者)を代表しているような表現を使用したり、全国民(主権者)に対し天皇の意思に同調させる圧力をかけるような表現を使用したりすべきではない。天皇として自身の意思だけを表明すべきである。「先の戦争」に対する認識は立場の違いにより異なるものであるからだ。「戦陣に散り」という表現は期せずしてそれを示してくれており、この表現は天皇の「先の戦争」についての認識を表しているものである。「散り」とは「死」を「美化」するため神聖天皇主権大日本帝国政府が敗戦までよく使用した「散華」と同じであり、「玉砕」などにつながる表現で、戦争の真実を曖昧にし隠蔽し美化する表現であった。そのような表現を使用しているところに「先の戦争」についての主権者国民の認識との違いが表れているといえる。また「追悼」という表現についてであるが、本来とは異なる意味をもたせておきながら、それを「曖昧」に使用し主権者国民を「ごまかして」いるように思われる。つまりそれは「戦死者を顕彰し、讃えている」にもかかわらず、それを「哀悼しているのか」のように思わせているという事である。この「追悼式」は、「追悼」という表現を「戦死者を顕彰し、讃える」意味で使用しておきながら「哀悼」しているように思わせているのではないかという事である。
今後もこのような「式辞」を続けるというのであれば、もう止めていただきたい。このような問題は地方自治体が実施している「追悼式」や、その「式辞」においても同様に存在していると思えるがどうだろう。
(2020年8月22日投稿)