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全国戦没者追悼式の式辞からうかがえる天皇の先の戦争に対する認識と国民観

2023-08-18 00:31:03 | 皇室

 今年の「全国戦没者追悼式」での「天皇の式辞」(天皇陛下のおことば)で、まず全体を通して言える事は、「第三者的」な立ち位置を感じさせる表現を使用している事である。

 例えば、かけがえのない「命を失った」という表現や、「深い悲しみを新たにいたします」という表現であるが、「命を失った」のは誰に責任があるのか?それは現行天皇のお祖父さんである「昭和天皇」やお父さんである「平成天皇」であろう。それをきちんと自覚しておれば「深い悲しみを新たにいたします」という表現では済まない事は明らかであろう。この表現を使用するところに現行天皇の「先の戦争」に対する認識や国民観が表れているといえるだろう。

 また「終戦」ではなく「敗戦」とすべきであろう。「終戦」という表現はただ無意識に使っているのではなく極めて意識的と思えるもので、「敗戦」を認める事はできないとする天皇家皇族全体の統一認識に基づくものと見做してよいだろう。「終戦」という表現の使用については、敗戦処理内閣である東久邇宮内閣が、1945年9月初めに議会を開き、そこで首相自ら国民に向けて戦争終結のメッセージを送る演説を行っているが、その演説の草稿段階で、陸相であった下村定が草稿の中の「敗戦」という表現をみつけ、「敗戦ではなくて、終戦としてほしい」と注文をつけた事がきっかけとなっているのである。それを天皇家皇族も延々と踏襲しているという事なのである。天皇家皇族が自ら負わねばならない責任を自覚し使用すべき適切な表現を選択すべきであるにもかかわらず、「終戦」という表現を今回までそのまま踏襲し続けている姿勢に天皇の「先の戦争」についての認識が表れているのである。国内では問題視されずに使用できても、外の世界や外国からみればこれは「異常」「不可解」としか思えないにもかかわらずである。

 また、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」という表現については、「さきの戦争」を引き起こした責任者について、憲法前文の表現を認識しておれば、天皇は政府の部分(敗戦前は統治権の総攬者であり、敗戦後は内閣の助言と承認により、法律、政令及び条約を公布する役割)であるから、「政府の行為によって」という表現をその前に付け、戦争責任者の継承者である立場を明確にするとともに自身の意思を示すため、「過去を顧み、深い反省の上に立って、政府の行為によって再び戦争の惨禍を引き起こす事のないようにする事を決意し」とするべきであろう。しかしそうではなく、極めて第三者的な無責任な表現を使用しており、天皇が主権者国民に対し「繰り返してはいけない」と説諭しているような表現になっている。

 そして、「全国民と共に」とあるが、天皇と国民とは立場も人格も別なのであるから、天皇が国民の個々の意思を無視して自身の都合で一方的に、全国民(主権者)を代表しているような表現を使用したり、全国民(主権者)に対し天皇の意思に同調させる圧力をかけるような表現を使用したりすべきではない。天皇として自身の意思だけを表明すべきである。「先の戦争」に対する認識は立場の違いにより異なるものであるからだ。「戦陣に散り」という表現は期せずしてそれを示してくれており、この表現は天皇の「先の戦争」についての認識を表しているものである。「散り」とは「死」を「美化」するため神聖天皇主権大日本帝国政府が敗戦までよく使用した「散華」と同じであり、「玉砕」などにつながる表現で、戦争の真実を曖昧にし隠蔽し美化する表現であった。そのような表現を使用しているところに「先の戦争」についての主権者国民の認識との違いが表れているといえる。また「追悼」という表現についてであるが、本来とは異なる意味をもたせておきながら、それを「曖昧」に使用し主権者国民を「ごまかして」いるように思われる。つまりそれは「戦死者を顕彰し、讃えている」にもかかわらず、それを「哀悼しているのか」のように思わせているという事である。この「追悼式」は、「追悼」という表現を「戦死者を顕彰し、讃える」意味で使用しておきながら「哀悼」しているように思わせているのではないかという事である。

 今後もこのような「式辞」を続けるというのであれば、もう止めていただきたい。このような問題は地方自治体が実施している「追悼式」や、その「式辞」においても同様に存在していると思えるがどうだろう。

(2020年8月22日投稿)

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戦没者追悼式の安倍首相式辞は歴史を書き換えた歴史修正主義

2023-08-18 00:24:09 | 宗教

 安倍首相の式辞はアジア太平洋戦争について、その侵略的性格と神聖天皇主権大日本帝国政府為政者とそれを継承する人間たち、つまり自民党だけを利したという性格を認めず不問にし、事実を自己に都合よく書き換えたものである。

 「皆様の尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄がある」という文言は、安倍首相がアジア太平洋戦争の侵略的性格を認めているならば語れる文言ではない。また、「平和と繁栄」は「尊い犠牲」の上に享受しているのではない。

 「尊い犠牲」によって「平和と繁栄」が生み出されたのではないし、戦没者は「尊い犠牲」ではない。「尊い犠牲」という考え方は、神聖天皇主権大日本帝国政府為政者のために「犠牲」になってくれた人に「ありがとう」という感謝をし「顕彰」する考え方に基づくものである。

 しかし、侵略戦争の戦没者はそれには当たらない。侵略戦争で亡くなった人々は、戦場へ本人の意思の有無を問われず送り出され、弾なく武器なく食料なく医薬品なくという「ないない尽くし」の状況下の戦闘に追いやられ、そのうえ見捨てられ「無念の死を政府によって強制」された人々である。安倍首相はそれを「尊い」としているのである。それはなぜか。国民が戦場へ行って命を賭して戦ってくれる事が為政者にとっては好ましくありがたい事であって、それによって戦争を遂行できたとして讃える事を目的としているからである。つまり、為政者のために戦ってくれた事に感謝するという考え方に立つ「言葉」なのである。その為政者側に立つ安倍首相にとっては当然の言葉なのである。また、あえてしつこくそのように語る事によって、安倍首相は国民の意識を洗脳し、過去の侵略戦争を正当な戦争であると評価認識させようとしているのであり、現在推進している戦争政策を正当化しようとしているのである。

 だからその文言の後に「改めて敬意と感謝の念を申し上げます」としているのである。しかし、安倍首相が日本国憲法の前文に基づいて国民に対して示すべき誠意ある言葉としては、戦没者に対する謝罪と遺族に対する補償についての文言であるべきである。彼がその文言を使用しないのは、そこに彼の国民観(戦前の国民観)が表れているといえる。

 また、「尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄がある」という文言と「敬意と感謝の念を申し上げる」という文言の間にある「哀悼」という文言は、その前後の文言の意味を考えれば、「顕彰」という文言を使用するのが妥当であるにもかかわらず、それをなぜか「哀悼」という文言を使用しているのは国民をごまかすためなのだろうと思われる。 

 その後の文言には「我が国は戦後一貫して戦争を憎み、平和を重んじる国として、孜々として歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため惜しみない支援、平和への取り組みを、積み重ねてまいりました。」とあるが、これはまったく事実と正反対と言ってよく、歴史的事実を都合よく書き換える「歴史修正主義」に立った歴史観そのものである。なぜなら、

 朝鮮戦争やベトナム戦争では、日本政府はどのような役割を果たしたのですか。「死の商人」として米国に協力し、戦後の経済復興を短期間で果たし、経済発展の基礎としたのではなかったのですか。その間、直接戦闘に参加していないけれども、沖縄県を兵站基地として、米軍を支援してきたのではないですか。最近では、「正しい決断」と称して、イラク戦争などにも関わっていますね。

 また、武器輸出をするようになったという事もあるし、原発をも輸出するし、「積極的平和主義」という言葉でごまかして、「憲法違反」の声にも耳を貸さず、安全保障法制を強行成立させ、世界へ自衛隊を派遣する事を可能にしてしまったしね。最近では核兵器を持つ事を憲法は否定するものではないと強調しているし、核先制不使用に反対しているというしね。安倍政権は詐欺師政権といわれても当然ですからね。

 その後の文言は、今までの安倍政権の姿勢を見ていると、その欺瞞と傲慢さに開いた口が塞がらない、という文言ではないですか。

「戦争の惨禍を決して繰り返さない。これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切り開いてまいります。その事が御霊に報いる途であると信じて疑いません。」

ヒトラーの言葉そのままを実行している人物ですね。その一つに、

「大衆は小さなウソより大きなウソを信用する」という言葉がある。

しかし、日本の若者の多くは、安倍首相のこの言葉をそのまま信じてしまうのですね。若者だけではないようですがね。

(2016年8月26日投稿)

 

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