2018年2月20日、安倍自公政権の下、式典準備委員会で了承された「退位即位の儀式」についての「考え方」は、「憲法の趣旨に沿い、かつ皇室の伝統などを尊重したものとする」という事である。平成の代替わり時と同一であるが、この言葉は2つの相矛盾し対立する価値観を調和させる」という事を意味している。換言すると、「憲法の趣旨に沿い」とは、憲法が最高法規であり、基本的人権を国民に保障すると定め、天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員が第99条に定める「憲法尊重擁護」の義務を遵守しなければならないという事に則る事を意味している。また、「皇室の伝統の尊重」とは「皇室宮中祭祀(国家神道)を護持する事」であり、それは、敗戦までの「大日本帝国憲法下の国家神道(皇室神道)宗教体制に基づく即位退位儀式を尊重護持し復活継承する」という事を意味しているのである。現憲法の原則である「国民主権の伝統護持」を意味しているのではない。「伝統」という言葉にごまかされてはいけない。安倍自公政権式典準備委員会は2つの価値観の調和をうたっているが、2つの矛盾し対立する価値観は本来両立させる事は不可能であり、安倍自公政権が真にめざしているのは両立させる事ではなく、現行憲法を否定し、「皇室の伝統の尊重」を根幹に据える「改憲草案」に改める事である。
だから、主権者国民はこのような考え方を単純にスルーしてよい事でなく、日本国憲法に基づいて生活する主権者国民にとってはひじょうに重大で放置してはならない、憲法を形骸化する問題を含んでいるのである。つまり、大日本帝国憲法を廃止(表向き天皇が帝国憲法改正を裁可したという手続きをとっているが)して成立させた現行「日本国憲法」下において平成時に続けて今回も再び、敗戦により否定削除したはずの「大日本帝国憲法下で定められた様式」を復活させ継続して実施する事により既成事実化するという、憲法に違反する内容を決定した、という事を意味しているのである。現行憲法下で初の平成の代替わりにおいても、自民党海部政権が国民のイメージする「象徴天皇」とは根本的にはあまりにもかけ離れた即位儀式を強行したため顰蹙をかったにもかかわらず、今回も性懲りもなく同様の考え方を推し進め実施しようとしているのである。
この儀式の様式については、憲法の定めでは、その責任は、時の政権、今回は安倍自公政権が負うのは当然であるが、その範疇だけで済ませてよいものではない。平成代替わり時にしても、今回にしても、その当事者であり様式に決定権を持つ天皇家皇族の価値観や意思にも(こそ)主権者国民は放置してはならない重大な問題がある事に気づかなければならない。それは、天皇家皇族の憲法に対する認識とその遵守意思である。特に、第97条「憲法が主権者国民に基本的人権を保障している事」、第98条「憲法は国の最高法規である事」、第99条「為政者に対する立憲主義」についてである。
天皇家皇族は、「国民とともに」「国民に寄り添い」という言葉をよく使う。この言葉はよく考えれば、天皇家皇族自身が自らを国民とは異なる上位の存在であるという事を主張しているといえる。
即位の儀式に関していえば、平成代替わり時までと同様に今回も「高御座」「御帳台」を使用する事を決めている(この様式を天皇家が否定拒否廃止せず再び実施するという事を意味している)が、ここには天皇家皇族の意識が反映しているのである。「高御座」は高さ約6.5㍍あり、国民を含む内外の参列者を見下ろす形で即位を宣言するという事は、平成の代替わり時にも、主権者国民は、その様式が現行憲法を無視したものであり象徴天皇のイメージを壊すものとして、違和感を感じたのであるが、天皇家皇族は現行憲法が国民主権であり、天皇は象徴と位置づけられている事への自覚認識が欠如していると考えざるを得ない。また、京都御所にある「高御座」は平成の代替わり時にはその皇室神道(国家神道)に基づく宗教的即位儀式のために、公務員である「航空自衛隊」に命じるという憲法違反を行って、その大型ヘリで東京へ運んだが、今回も公務員である陸上自衛隊に命じて運ぶという。天皇家皇族は公務員を天皇家の宗教的儀式に関わる事を命じる事を憲法は禁止している事を知らないとでもいうつもりなのだろうか。第20条1項には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」、2項には「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する事を強制されない」、3項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。天皇家皇族は現行憲法の「尊重擁護義務」を果たしているといえるだろうか。象徴天皇として果たすべき事は、憲法に基づく社会を実現させるために先頭に立ち努力すべき事なのではないだろうか。
ある大手新聞記事は、このような問題提起をする事もなくご丁寧な事に、その「高御座」を間近に見学できるという案内をしているが、安倍自公政権や天皇家皇室の価値観に翼賛し広める事を狙っているのであろう。
2018年3月20日のある大手新聞記事によると、宮内庁は、両陛下が、記紀神話に初代天皇とされている神武天皇を祀る橿原神宮(大日本帝国政府が国家神道の教義を表現するものとして1890年創建、神武天皇陵も同様)に銅鏡を贈ったと発表した。両陛下が2016年4月に、神武天皇没後2600年という理由で、神宮を参拝した際に、銅鏡を贈る意向を示し、京都の名工に作らせたものであるという。この事は、天皇家皇族自身がいまだに大日本帝国政府が捏造した国家神道という宗教に基づいた生活をしているという事を証明している。もちろん皇族個々人の信教の自由も認めない。これは憲法無視そのものであり国民の求める象徴行為とは正反対であり、「国民のために祈る」という屁理屈のもとに行われる宗教行為は、主権者国民の信教の自由をも侵害する事になっているのである。また、学問の科学的研究の成果を無視する態度である。天皇家皇族は今日においても、戦前、津田左右吉が記紀の神代史を「客観的史実ではなく皇室の由来と皇室の日本統治の必然性を理由づけるための政治的要求から生まれた政治的述作である」とした観点を認めていないという事である。ちなみに、帝国政府は右翼の主張を正当とし津田の著書を発禁処分(1940年)とし、皇室の尊厳を侵害した(大逆思想)として有罪(1942年)とした。大日本帝国政府は天皇家皇族に宗教行為を営ませ、それをもとにして、国民を支配統制していたのである。
天皇家皇族が象徴として果たすべき事は、昭和天皇が裁可した現行憲法を先頭に立って広める事である。そのために先ず自らの生活や様々な公的私的行為(象徴行為などを含む)を点検すべきである。また、自らの生活を律する「皇室典範」がいかに憲法の原則と正反対の内容であるかに気づく事である。そして憲法に則った内容に改正をめざす事に努力する事である。「生前退位」を表明するほどの勇気を持っているのであれば、その気さえあればこの事も表明できるはずである。それができるか否かで国民は天皇家皇族のもつ建前でない価値観(本心)を知る事ができるだろう。不平等、個々人の基本的人権を否定した価値観に基づいた皇室典範で律し、国民とは異なる価値観に基づいた生活をする天皇家皇族が、国民の生活や思いを理解できるはずがないだろう。そのような存在が国民を「象徴」する存在であろうとする事は所詮無理がある。
※皇室典範が憲法原則にいかに違反しているかについては、別稿「皇室典範内容は憲法原則違反、差別の元締め的特徴、……」(2017年3月14日投稿の「皇室」ブログ記事)を御覧ください。