1940年2月2日、第75帝国議会の2日目。斎藤隆夫は衆議院で、泥沼化していた日中戦争について、民政党から代表質問(反軍演説)をした。この演説に対して、米内首相は適当な答弁でかわし、畑陸相は沈黙した。ところが、会議後、軍務局長の武藤章らが、演説を「聖戦の目的を侮辱し、10万の英霊を冒涜する非国民的演説だ」として問題視し、斎藤の除名を主張した。
斎藤演説の要点は三つである(草柳大蔵『斎藤隆夫かく戦えり』)。
①「日中事変(日中全面戦争)が始まって2年半、10万の英霊という犠牲を払っても解決していない。戦いはいつまで続くか、処理はどうするのか。それを国民に示せ。
②「事変」に対する日本の態度を表明した第2次近衛声明(日満華三国連帯による東亜新秩序建設)のなかに「聖戦」「八紘一宇」とあるが、戦争の本質は歴史の示す通り弱肉強食であり、そのような考えでは事変は解決しない。
③第1次近衛声明に「蒋介石を相手にせず」とあり、汪兆銘の政権(大日本帝国政府の傀儡政権)に望みをかけているらしいが、それで事変の処理が可能か。蒋・汪両政権の関係はどうなるか。
である。
軍部は、斎藤除名に同調する他の議員もいた事から、懲罰委員会にかけさせ、1940年3月7日、衆議院は除名を可決した(反対は7名)。そして、議長は演説の5分の3を官報速記録から削除した。その内容は、
「現在世界の歴史から戦争を取り除いたならば残る何物があるか。一たび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を膺懲する、これが戦争という意味ではない。……この現実を無視して、唯いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲を掴むような文字をならべ立てて、千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るような事があれば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼす事はできないのであります。……」というものである。
2日後の3月9日には、社会大衆党がこの除名に反対した片山哲ら7議員を除名した。
驚くべき事は、その同じ日、衆議院は「聖戦貫徹決議案」を可決し、3月25日には各派の衆議院議員100名余りが「聖戦貫徹議員連盟」を結成し、全政党の解散と一大強力新党の樹立を提唱した。この動きは近衛文麿を中心とする1940年6月からの新体制運動に発展し、さらに政党の解散、政党政治の崩壊を経てその年10月には大政翼賛会の発足へと進み日本のファシズム体制が整備完成されていったのである。
そして、大日本帝国政府は1940年11月には「紀元(皇紀)2600年式典」を実施した。当時「紀元(皇紀)2600年」をどう受け止めていたのだろうか(大日本雄弁会講談社『雄弁』の巻頭言「輝く新春」)。
「聖戦ここに2年有半(1937年7月7日の盧溝橋事件にあたる)、国威いよいよ揚り、興亜新秩序建設の途上に於いて、輝ける皇紀2600年の新春を迎える事は、何という意義深い事であろうか。改めて、神武肇国の偉業を仰ぎ、国恩の有難さに感銘を新たにしつつ、将来への方途に深き省察の機縁を与えられた事は、まさに神意の恩寵であらねばならない。日本民族は、肇国の当初、既に八紘一宇の皇謨を授け賜ったのである。われらの行動一切は、肇国の神勅から一歩も逸脱せず、また逸脱する事を許されない。さればこそ、日本の大陸経綸は、侵略にもあらず、征服にもあらず、皇道に基づける仁愛と正義の弘布である。それ故に、満州事変も、支那事変も、聖業といい聖戦と言い得る。またこの清純な理想あるが為に、東亜の新秩序は必成の可能性を持つのである。われらは、この皇紀2600年を祝うのに、決してお祭り騒ぎを要しない。唯決意を新たにして聖業達成に驀進すればよい。それが尊き国恩に報いる最上の道である。……」というものに表れていると思う。
※参議院議員選挙や東京都知事選挙には、主権を持つ国民の一人ひとりが自分のため子孫のために、「国家百年の大計を誤るという罪」を犯さぬように、「立憲主義」「人権」の尊重を第一に考える議員を選ぶ事が今ほど大切な時はありません。安倍自公政権(日本会議)はこれとは真逆の政治勢力です。
(2019年5月28日投稿)
『私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています。』
こんな時代になったら、ここで言う「同胞感」がない僕などは、主権者でさえなくなりそう。不敬罪に引っかかって。