幣原喜重郎内閣は、東久邇宮内閣(GHQの人権指令実施は不可能として総辞職)のあとを受けて成立。GHQは五大改革指令(1945年10月11日)を伝え、憲法改正の必要を示唆した。この実行がこの内閣の課題となった。斎藤隆夫は第89回衆院本会議で幣原首相に「戦争責任者に対する政府の態度」と「なぜ戦争責任を国民全体に負わしているのか=一億総ざんげ論」について質問している。このやり取りから主権者国民が教訓とする事ができる一部を以下に紹介しよう。
先ず、「戦争責任者に対する政府の態度」についての質問。「幣原首相は日本全国民も戦争の責任を負わねばならぬと明言せられている、これは一体どういう事であるか、私共誠に怪訝に堪えない、日本国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかないか、この論結に入る前に先立ちまして、先ず以て戦争責任の根本について一言せざるを得ない、今日戦争の根本責任を負う者は東條大将と近衛公爵、この二人であると思う、最もこの両人だけが戦争の責任者ではない、しかし、苟も政局の表面に立ってこの戦争を惹起した根本責任は近衛公爵と東條大将、この両人であるというについて、天下に異論ある筈はない、それは何故か、申すまでもなく大東亜戦争は何から起こっているかと言えば、つまり支那事変から起こっている、支那事変がなければ大東亜戦争はない、それ故に大東亜戦争を起こした東條大将に戦争責任があるとするならば、支那事変を起こした近衛公爵にもまた戦争の責任がなくてはならない、私は今日この場合に於いて支那事変は何が故に起こったのか、そういう事は申さない、又当時近衛内閣が声明した現地解決、事変不拡大の方針、これが何故に行われなかったか、これまた言う必要はない、しかしながら事変は拡大に拡大を重ねて停止する事ができない、この時に当たって近衛内閣はいかなる事を声明したか、支那事変は支那を侵略するのが目的ではない、それを蒋介石が邪魔をするから、蒋介石を討つのが目的であって、決して支那民衆を敵とするものではない、こういう事を声明している、しかしかくの如き浅はかなる声明が支那の民心を把握して、世界の世論を惹きつける事ができると思うに至っては、全く児戯に類するものである、次に何を言うたか、蒋介石を討つにあらざれば戈を収めない、蒋介石を相手にしない、蒋介石を討つ事ができたか、討つ事ができないではないか、蒋介石を相手にするもしないも、支那は今日連合国の一員となって、戦勝国の権利として戦敗国たる日本に向かっているではないか、近衛公はこの事実をどう見るか、苟も責任を解し、恥を知る政治家であるならば、安閑としておれるわけはない、なお近衛公の責任はこれ位のものでは止まらない、彼の汪兆銘と称する政治家、この無力なる政治家を引っ張ってきて、そうして支那に新政府を作らせる、この新政府によって日本はどれだけ搾取せられたか、どれだけ犠牲を払ったか、実に言うに忍びない、しかるにこの新政府はどうなったか、終戦と同時に崩壊して、今日は影も形もなくなっている、この事実をどうするのか、あるいは日独伊の三国同盟を作ったのも近衛内閣である、当時日本国民はかくの如き同盟には衷心賛成はしていなかった、にもかかわらず強いてこれを作った、そうしてこの三国同盟が大東亜戦争を導いたという事は紛れもない事実である、あるいは又米英の蒋介石援助に向かって抗議を申込んだ、かくの如き抗議が成り立たないという位の事は、常識を備えている者なら分かるはずである、何故か、日本が蒋介石を討てば、日本の勢力が益々支那に侵入する、日本の勢力が支那に侵入すればそれだけ米英の勢力は後退しなくてはならぬ、いづれの国といえども自国の勢力が後退するのを、指をくわえて見ている馬鹿はない、それ故に日本から見たならば、米英の蒋介石援助はけしからぬ事のように思えるかもしれないが、米英より見たならば、日本の蒋介石討伐はけしからぬと思われるに違いない、こういう事が段々と悪化して、遂に日米会談となる、近衛公は近頃日米会談の裏面に於て非常に骨を折ったけれども、これを成立させる事ができなかったのは甚だ遺憾であると言うて、何となく自分の責任回避を仄めかしているようであるが、これはもっての外の我がままである、日米会談は何から起こったのであるか、支那事変から起こったのである、自分で火をつけて大火事を起こしておきながら、その火事を消す事ができなかったから、火事の責任は自分にはない、こういう理屈が今日の世の中に於て通ると思うのは、これは全く世間知らずの分らず屋である、近衛公の戦争に対する責任は実に看過すべからざるものがある、これを現内閣はどう見ているか、近衛公は戦争に対しては責任はないと思っているが、もし責任がないと思うならば、私が以上述べた事実と近衛公との関係はどうなるのか、これを説明されたい、私がこういう事を申すのは、別に深い意味がある、それは今日我が国民が最も恨んでいる者が二人いる、一人は東條大将であるが、他の一人は近衛公である、この両人に対する国民の恨みは実に深刻なものがある、政府の高いところにいてはこれが分からないかは知らないが、これは全く事実である、しかるに一方の東條大将は、戦争犯罪者として検挙せられて、その運命も余り遠からないうちに定まるのであるが、他の責任者たる近衛公は、戦争犯罪者としてはおろか、政治上に於ける責任もとる形跡はない、のみならず宮中府中を通じてその存在は今なお国民の眼に映ずる、国民よりこれを見るならばこれ程奇怪千万な事はない、こういう事実が今日の国民思想の上に於てどういう影響を及ぼすか、それでなくても今日敗戦後の国民思想の中には、極めて油断のならないものがある、この油断のならない思想の中に於て、かくの如き問題をこのままに葬り去る事は国家の大局より見て戒むべき事であると思う、これに対する総理大臣の見解を伺いたい」
次に、「総理大臣が戦争責任を国民全体に負わしている事=一億総ざんげ論」についての質問。「国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかどうか、最も今回の戦争はやるべきものであったか、やるべからざるものであったかという事については、国民の腹の底には色々の考えがあったに相違ない、もしこれを国民投票に訴えたならばその結果はどうであったか、私は今日これを明言しない、しかしひとたび戦争が起った以上は、その戦争には何としても勝たねばならぬ、戦争に勝たなければ国は滅びてしまう、それ故に戦前にはいかなる考えを持っていたにせよ、ひとたび戦争が始まった以上は、この戦争に勝つがために、国民は各々その身に応ずる能力を捧げて、戦争に向かって努力をしたに相違ないのである、国民の中には幾百万人の出征軍人もいる、これらの軍人は命を捨てて国家の為に戦ってきた、これに戦争の責任があるわけはない、その他銃後の国民も勝つがためには各々その身に相当する犠牲を払っている、例えば全国民の約半数を占めている農民である、彼らは増産に骨を折れと言えば一生懸命に増産に骨を折る、米を出せと言えば黙々としてこれを出す、自分の食糧をも省いて無条件に米を出している、農民は正直である、米を出せば戦争に勝つが、米を出さねば戦争に負ける、戦争に負けたなら出すも出さないもない、根こそぎ取られてしまうと説かるる、正直な農民は一途にこれを信じて米を出してきた、戦争に勝ちましたか、戦争に負けたではないか、政府は国民を騙したのである、政府が農民を騙していながら、その農民に戦争の責任を負わせんとするのが幣原首相の態度である、その他一般の国民もまた然り、徴用工になれと言えば徴用工になる、挺身隊になれと言えば挺身隊になる、全国幾十万の学生生徒は大切な学業を中止してまで、直接間接に戦争のために働いてきた、それらの国民に何の責任があるのか、責任を負う者は別にあるが、それらの責任者に向かっては一指を染める事ができずに、一般の国民に向かって責任を負わせんとする幣原首相の考えはどこから出るのか、民主政治の確立、戦争の責任者、現内閣のなすところ、幣原首相のなすところは全く解し難い、この機会に所信を披瀝せられん事を望む」
これに対する幣原首相の答弁。「戦争の責任は国民一般にあるとかいうような事のお話があったが、私はかような事を申した事はない、その不確実あるいは無根の事を新聞に出された事によって、私を攻撃する事は甚だ残念です、特定の政治家が戦争の責任があるかどうかという事を、政府として表明する事は適当な事ではないと考える、唯一般論としては、戦争責任者の追究について国民の間に血で血を洗うがごとき結果となるような方法に依る事は好ましくない、既に戦争責任者の一部については、連合国側に依って逮捕審問を受けつつある、その他の人々の中にも自ら責任を痛感し、自発的に公的の地位ないし社会的の地位より隠退しつつある向きも少なくない事はご承知の通りです、なお政府としてはかくの如き自発的に責任を痛感して隠退を決意せらるる向きに対しては、その方法を容易ならしむべく具体的措置を講ずる」
※戦争処理のための皇族内閣東久邇宮稔彦内閣の国民への戦争終結メッセージ「一億総ざんげ論」の一部を以下に紹介したい。
「……終戦(敗戦)の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日我々が徒に過去に遡って、誰を責め、何を咎める事もないのでありますが、前線も銃後も軍も官も民も国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔をして神の前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の戒めと為し、心を新たにして、戦の日にも増して挙国一家乏しきを分ち、苦しきを労り、温き心に相援け、相携えて、各々其の本分に最善を尽くし、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進運を開くべきであると思います……」
神聖天皇主権大日本帝国政府官僚は、「天皇制国体の護持」こそが戦後政治に参画する者の重要なる責務と考え、天皇制国体の最大危機を救う最後の切り札として、久邇宮朝彦親王の9男で、明治天皇の娘を夫人とする東久邇宮稔彦に組閣(1945年8月17日~10月5日)させた。内閣制度開始以来初の皇族内閣である。任務は、天皇制国体に対する国民の離反を防止し、占領に先立って支配体制の安定を作り上げておく事であり、占領軍が実施する非軍事化と民主化の先回りをして、天皇制国体の完全復活を期するにあった。国民教育に対する期待も「新日本建設の教育方針」(文部省1945年8月15日)には「今後の教育は益々国体の護持に努る事」としていた。
(2018年11月14日投稿)