日中戦争の長期化にともない、神聖天皇主権大日本帝国政府(第1次近衛内閣)は国家総力戦体制樹立のため、1938年4月1日、国家総動員法を制定した。総動員法は国民経済と国民生活のすべてを官僚統制のもとにおき、その統制に関する大幅な権限を政府に委任する事を規定していた。また、政府命令は、議会の議決を必要としない勅令により発せられる事になり、政府の権限は強化された。その反対に議会と政党の地位は低下させられ、天皇の恩恵として「法律の範囲内」において認められていた「臣民の権利」も、勅令により剥奪できる体制が出来上がった。
そのため、1938年2月24日、法案が衆議院に提出されると、民政党の「斎藤隆夫」、政友会の牧野良三ら自由主義代議士が「憲法違反」として批判した。それは、
①「戦時又は国家事変」の際における臣民の権利の制限または停止は「天皇の非常大権」(帝国憲法第31条)であるにもかかわらず、それをあらかじめ法律で決めておく事は違憲である。
②法律によって個々になすべき臣民の権利の制限又は停止を、一括して政府の自由に委ねている事は違憲である、というものであった。
しかし、近衛首相は、「日中戦争には適用しない」と明言して強行成立をめざした。2月17日には政府と呼応して民間右翼「防共護国団」が政友会と民政党の本部を占拠(テロ)した。陸軍は衆議院解散をほのめかして政党を圧迫し、3月3日には政府側委員として出席した陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐が質問中の議員に向かって「黙れ!」と怒鳴る議会史上初の「黙れ事件」も起きた。(ちなみに佐藤は処罰されず、その後陸軍中将まで順調に昇進した。しかし、戦犯に問われ東京裁判では終身禁固刑の判決を受けた。)
反対した政友会と民政党の内部には、近衛首相を中心に親軍新党の樹立めざす動きがあり、社会大衆党と東方会は積極的に賛成したため、反対運動は盛り上がらず、無修正で4月1日公布、5月5日施行された。
近衛は、総動員法が成立すると同時に、前言を反故にし同法に基づく最初の勅令「工場事業場管理令」を発した。以後、統制は社会の隅々にまで及ぼされ、国民は日常生活の細部に至るまで国家権力により監視統制される事となった。
国家総動員法は、大日本帝国憲法の立憲主義的な面を否定し、ファッショ的行政国家(高度国防国家)へと再編成していく上で画期となった法律なのである。
※斎藤隆夫は1936年の2・26事件後の5月7日、第69特別議会衆議院本会議では、青年将校らの思想の単純さ浅薄さとともに、軍当局の三月事件(1931年)、十月事件(1931年)、5・15事件(1932年)での取り締まりの緩さを厳しく批判した(「粛軍演説」)。軍人の政治関与を非難して、「ある威力によって国民の自由が弾圧せられるがごとき傾向」があるのは国家の将来にとって誠に憂うべきだと指摘した。
しかし、陸軍は2・26事件を、軍備の拡充、国防国家建設の体制を強化する圧力として利用した。また、広田弘毅内閣は36年5月軍部大臣現役武官制を復活させ、軍への外部からの容喙を一切排除するとともに、内閣の組織、存続に対する主導権を掌握し、軍を中核とする臨戦体制確立への一段階を画した。
(2016年6月19日投稿)
このような暴力行為が許されないのは民主国家では当然ですが、さらに問題なのは同君の一身上の弁明です。
「もし、国民に不利益になると判断される事態になれば、それこそ体を張ってでも阻止しなければならないと考えます。歴史を顧みれば、昭和十一年、二・二六事件直後に、いわゆる粛軍演説を敢行した斎藤隆夫衆議院議員は、昭和十五年には再び反軍演説を行い、衆議院議員を除名されました。そして、昭和十七年には、いわゆる翼賛選挙が行われ、衆議院の八割以上を大政翼賛会推薦の議員が占める結果となりました。その後の我が国がどのような道を歩んだか、今さら言うまでもないことでしょう。」(同005 内山晃)と発言しています。
斎藤隆夫君は軍部の暴走に言論を以て抗したのであり、委員長の椅子を外す等の暴力行為を行った内山晃君と比べるべくもありません。
かかる暴力で自党の考えを通そうとするのであれば、昭和の軍部の遣り方と一体一体何が違おうか。
このような、民主主義とは真逆の暴力行為を正当化するために、斎藤隆夫君の反軍演説や粛軍演説を持ち出す所に、強い怒りを感じずにはいられません。
なお、同君は懲罰事犯の事実関係については弁明しませんでした。仔細は会議録に譲りたいと思います。
内山晃君の暴力行為が、斎藤隆夫君が批判した軍部の遣り方その物ではありませんか。
斎藤隆夫君も内山晃君にこのような形で自身の演説を使われ、さぞ無念のことと存じます。