朝日新聞2024年3月25日付「取材考記」「ハンセン病療養所 園歌の旅 韓国で見た威圧」記事に書かれた、韓国ハンセン病療養所「小鹿島(ソロクト)更生園」について、「ハンセン病 小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」発行のパンフレット「ソロクト・楽生院 Q&A」を基づいて以下に紹介したい。
「小鹿島(ソロクト)更生園」とは、神聖天皇主権大日本帝国政府が「大韓帝国」を併合し植民地にし「朝鮮」と改称していた時代に、天皇の勅令によりその「朝鮮」につくったハンセン病療養所である。植民地支配をしていた大日本帝国政府は、植民地でも、ハンセン病は恐ろしい伝染病だと宣伝して、患者をあぶりだし、強制収容して生涯とじこめるための隔離施設としての療養所をつくったのである。「小鹿島(ソロクト)更生園」は、隔離政策実現のために設立したものであり、「らい予防法」とほぼ同一の法律もつくったのである。
故郷から強制的に連行し、収容専用の車両や船を使って有無を言わさず収容した。大日本帝国内の療養所と同じく、職員が絶対的に不足していたので、療養所運営のために「患者」にあらゆる作業を強制した。「療養所」とは名ばかりで「強制収容所」そのものであった。「患者」を、夜が明けぬうちから作業場に狩り出し、レンガ工場や「かます」作り、桟橋の建設、日本人園長「周防正季」の銅像つくりのために夜遅くまで働かせた。食事は貧しく、しばしば理不尽で容赦ない「懲罰」を加え、たまらず逃げ出した「患者」は「監禁室」に入れ、「懲罰」として「断種」した。数えきれないほどの「患者」が「懲罰」と「飢餓」のため亡くなった。韓国は、日本とは異なり、1960年代には政府が隔離政策を撤廃し、制度上では、ハンセン病は普通の病気となんら変わらない感染症となった。しかし、大日本帝国政府が、植民地支配時代に、徹底的な「ハンセン病は恐ろしい」という宣伝を行ったために、ハンセン病に対する社会的偏見差別が生まれた。故郷から強制隔離された「患者」は家族とのつながりを断たれているため、治癒しても故郷には帰れず、療養所での生活を余儀なくされている。2005年頃には700名超の「患者」が生活していた。
《小鹿島(ソロクト)略年表》
1910年 韓国併合条約調印
1917年 小鹿島慈恵医院開設
1933年 第1期拡張工事
1934年 小鹿島(ソロクト)更生園成立
1935年 朝鮮らい予防令施行
1936年 第2期拡張工事
1939年 第3期拡張工事
1945年 日本人職員退去(敗戦)
(2024年3月25日投稿)