安倍首相の新元号「令和」についての談話(2019年4月1日)内容は、神聖天皇主権大日本帝国下において、美濃部達吉氏の「天皇機関説」の問題化に際し岡田啓介内閣が「国体明徴声明」を発表した後、文部省が1937年5月に発行した『国体の本義』に示された思想、価値観(ウルトラナショナリズム)に基づくものであり、その「焼き直し」である。『本義』は、『古事記』『日本書紀』に基づいた、神聖天皇主権大日本帝国政府による国民教化(洗脳)を目的とした根本テキストで、国体(国家体制)の尊厳・君臣の大義を説いたもので、日本は神聖天皇が頂点に立ち主権を行使する家族国家であり運命共同体であると説くものである。安倍首相が談話によって述べた新元号「令和」についての説明内容は、その『国体の本義』の「第一 大日本国体 四、和と「まこと」」に基づいたものであり、その「焼き直し」である事に気づくべきである。
「令和」は万葉集の文言を「引用」したとするが、これまでの元号の「引用」の仕方とは異なっている。都合の良い漢字が存在する、いわゆる「序」に目をつけて、必要な漢字をくっ付けて作っただけである。実状は「令和」と先に決めた上で、その「2文字」を万葉集の「序」が都合よく含んでいるのを見つけ出し、つなぎ合わせたというところであろう。
そして、「令和」に込めた意味は、新天皇の下ですべての国民に「和」を尊ばせるという事であり、心身ともに挙国一致体制(一億総活躍体制)を樹立する事をめざすという事である。それは、神聖天皇主権大日本帝国政府が明治の国民(臣民)を教化した『国体の本義』に示されている、あるべき「国体」の姿を実現する事につなげるためである。それは談話で「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められている」と述べている事がそれである。
そして、安倍首相は、その「和」が天皇制とともに、『記紀』に書かれた神話の時代から変わる事なく継承されてきたものであると国民に刷り込むため(周知の如く事実はそうではない)、万葉集を「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書である」と決めつけ、国民にそう思い込ませる事を目論み、さらに、日本を「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然」と形容(これも非科学的で主観的で短絡した誤った独善的な歴史修正主義的評価)し、「令和」を「我が国が誇る悠久の歴史、文化、伝統(天皇制を指す)の上に、次の時代を担う世代のためにどういう日本を築き上げていくのか。新しい時代への願いを示す上で最もふさわしい」とし、その上で、「しっかりと次の時代へと引き継いでいく」としているのである。
元号(昭和への「改元」までは「詔書」によって実施)についても、安倍首相は独善的な解釈に立っている。「元号法」は「元号は国民のために国民が決める」ものと解釈すべきであり、国民主権の今日においては説明の必要がないにもかかわらず、わざわざ「元号は、皇室の長い伝統と、国家の安泰と国民の幸福への深い願いとともに、千四百年近くにわたる我が国の歴史を紡いできた」と歴史研究成果とは異なった非科学的(虚偽、フェイク)な内容を述べて事実を隠蔽し国民を欺き、安倍首相にとって都合の良い天皇(皇室)のイメージを国民に刷り込もうとしている。さらに、国民に元号の使用を強制してきた事実をも頬かむりして認めず、「日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を与えるものとなっている」と述べ、そうする事を当たり前と思い込ませる刷り込みをしている事については呆れてしまう。
さて、『国体の本義』「和と「まこと」」を紹介しよう。
「我が肇国の事実及び歴史の発展の跡をたどる時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離れるべからざる人倫の道である。和の精神は万物融合の上に成り立つ。人々が飽くまで自己を主とし、私を主張する場合には、矛盾対立のみあって和は生じない。個人主義においては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。即ち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争であり、歴史はすべて階級闘争の歴史ともなろう。かかる社会における社会形態・政治組織及びその理論的表現たる社会学説・政治学説・国家学説等は、和を以て根本の道とする我が国のそれとは本質的に相違する。我が国の思想・学問が西洋諸国のそれと根本的に異なる所以は、実にここに存する。我が国の和は、理性から出発し、互いに独立した平等な個人の機械的な協調ではなく、全体の中に文を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和である。従ってそこには相互のものの間に敬愛随順・愛撫掬育が行ぜられる。これは単なる機械的・同質的なものの妥協・調和ではなく、各々その特性を持ち、互いに相違しながら、しかもその特性即ち分を通じてよく本質を現じ、以て一如の世界に和するのである。即ち我が国の和は、各自その特質を発揮し、葛藤と切磋琢磨とを通じてよく一に帰するところの大和である。(中略)戦争は、この意味において、決して他を破壊し、圧倒し、征服せんがためのものではなく、道に則って創造の働をなし、大和即ち平和を現ぜんがためのものでなければならぬ。(中略)かくて君臣相和し、臣民互いに親和して国家の創造発展がなされる。現下の問題たる国家諸般の刷新改善も、またこの和によるむすび(創造)でなければならぬ。それは、一に天皇の御稜威の下に国体に照らして誤れるを正し、大和によって大いに新たなる成果を生み出す事でなければならぬ。(中略)この和はいかなる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、みな共々に和の道に従わねばならぬ。それぞれの集団には、上に立つ者がおり、下に働く者がある。それら各々が分を守る事によって集団の和は得られる。分を守る事は、それぞれの有する位置において定まった職分を最も忠実に努める事であって、それによって上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互いに相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行われる。この事は、又郷党においても国家においても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執着して対立を事とせず、一に和を以て本とすべきである。我が国においては、それぞれの立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によってよく一つとなる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によって結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。(中略)「君のため世のため何か惜しからむ拾てて甲斐ある命なりせば」という歌の心は、臣民が天皇に一身を捧げ奉る和の極致を示したものである。かかる我が国の和の精神が世界に拡充せられ、それぞれの民族・国家が各々その分を守り、その特性を発揮する時、真の世界の平和とその進歩とが実現せられるであろう。(以下省略)