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昭和天皇や国会公文書が示す(新憲法施行から52年まで)の新憲法否認意識

2024-04-17 21:44:52 | 皇室

 現在、国会の「開会式」は「国会が行う行事」として行われるが、大日本帝国憲法下では「開院式」と称し、「宮内省が行う宮中儀式行事」として「貴族院」議場で行われた。本来、宮中で行うべき行事であるが、宮中には全議員を集める場所がないので、議事堂を使用する事になったといわれる。貴族院職員にその日だけ「貴族院職員兼宮内省職員」という身分を与え事務に携わらせた。帝国議会最終日には「閉院式」を行った。現行新憲法下の国会では「閉会式」は行わない。

 「開院式」では、天皇が「勅語」を読んだ。

 戦時最後の第87回帝国議会(1945年6月9日)の「開院式」での「勅語」は、

「朕茲に帝国議会開院の式を行い貴族院及び衆議院の各員に告ぐ

朕は国務大臣に命じて特に時局に関し緊急なる議案を帝国議会に提出せしむ 卿等よく朕が意を体し和衷審議以て協賛の任をつくせよ」

 戦後初第88回帝国議会(1945年9月4日)の「開院式」の「勅語」は、

「朕茲に帝国議会開院の式を行い貴族院及び衆議院の各員に告ぐ

朕すでに戦争終結の詔命を下し 更に使臣を派して関係文書を調印せしめたり 朕は国務大臣に命じて国家内外の情勢と非常措置の径路とを説明せしむ 卿等其れよく朕が意を体し道義立国の皇謨に則り政府と協力して朕が事を奨順し億兆一致愈々奉公の誠を竭さん事を期せよ」

 1947年5月3日には現行新憲法施行され、「前文」中には、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と定めた。又、第98条1項でも「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めた。

 ところが、新憲法下での第1回国会(1947年6月23日)の「開会式」にも、衆議院議長の式辞の後、昭和天皇は以下の「勅語」を読んだ。その中には「国会は、国家の最高機関であり、国の唯一の立法機関である」と述べているにもかかわらず。

「本日、第1国会の開会式に臨み、全国民を代表する諸君と一同に会する事は、私の深く喜びとするところである、日本国憲法に明らかであるように、国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である、従って、我国今後の民主主義に基づく平和国家、文化国家の建設に成功する事を切に望むものである」

 この後、「開会式」での「勅語」は、国会の公文書第13回国会(1951年12月10日)まで使用している。

そして、第3次吉田茂内閣(1949年2月16日~52年10月30日)が「抜き打ち解散」をしたので、第14回国会(1952年8月26日)は「3日間」で、「開会式」は行われず、第15回国会(1952年10月24日)の「開会式からやっと「お言葉」に改めている。

 ところで新聞メディアの報道では、朝日新聞第2回国会の「開会式」には「勅語」を止め、「お言葉」を使用している。

(2024年4月16日投稿)

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斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の戦争責任追及と幣原首相の答弁

2024-04-14 20:56:03 | 斎藤隆夫

 幣原喜重郎内閣は、東久邇宮内閣(GHQの人権指令実施は不可能として総辞職)のあとを受けて成立。GHQは五大改革指令(1945年10月11日)を伝え、憲法改正の必要を示唆した。この実行がこの内閣の課題となった。斎藤隆夫は第89回衆院本会議で幣原首相に「戦争責任者に対する政府の態度」と「なぜ戦争責任を国民全体に負わしているのか=一億総ざんげ論」について質問している。このやり取りから主権者国民が教訓とする事ができる一部を以下に紹介しよう。

先ず、「戦争責任者に対する政府の態度」についての質問。「幣原首相は日本全国民も戦争の責任を負わねばならぬと明言せられている、これは一体どういう事であるか、私共誠に怪訝に堪えない、日本国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかないか、この論結に入る前に先立ちまして、先ず以て戦争責任の根本について一言せざるを得ない、今日戦争の根本責任を負う者は東條大将と近衛公爵、この二人であると思う、最もこの両人だけが戦争の責任者ではない、しかし、苟も政局の表面に立ってこの戦争を惹起した根本責任は近衛公爵と東條大将、この両人であるというについて、天下に異論ある筈はない、それは何故か、申すまでもなく大東亜戦争は何から起こっているかと言えば、つまり支那事変から起こっている支那事変がなければ大東亜戦争はない、それ故に大東亜戦争を起こした東條大将に戦争責任があるとするならば、支那事変を起こした近衛公爵にもまた戦争の責任がなくてはならない、私は今日この場合に於いて支那事変は何が故に起こったのか、そういう事は申さない、又当時近衛内閣が声明した現地解決、事変不拡大の方針、これが何故に行われなかったか、これまた言う必要はない、しかしながら事変は拡大に拡大を重ねて停止する事ができない、この時に当たって近衛内閣はいかなる事を声明したか、支那事変は支那を侵略するのが目的ではないそれを蒋介石が邪魔をするから、蒋介石を討つのが目的であって、決して支那民衆を敵とするものではない、こういう事を声明している、しかしかくの如き浅はかなる声明が支那の民心を把握して、世界の世論を惹きつける事ができると思うに至っては、全く児戯に類するものである、次に何を言うたか、蒋介石を討つにあらざれば戈を収めない、蒋介石を相手にしない、蒋介石を討つ事ができたか、討つ事ができないではないか、蒋介石を相手にするもしないも、支那は今日連合国の一員となって、戦勝国の権利として戦敗国たる日本に向かっているではないか、近衛公はこの事実をどう見るか、苟も責任を解し、恥を知る政治家であるならば、安閑としておれるわけはない、なお近衛公の責任はこれ位のものでは止まらない、彼の汪兆銘と称する政治家、この無力なる政治家を引っ張ってきて、そうして支那に新政府を作らせる、この新政府によって日本はどれだけ搾取せられたか、どれだけ犠牲を払ったか、実に言うに忍びない、しかるにこの新政府はどうなったか、終戦と同時に崩壊して、今日は影も形もなくなっている、この事実をどうするのか、あるいは日独伊の三国同盟を作ったのも近衛内閣である、当時日本国民はかくの如き同盟には衷心賛成はしていなかった、にもかかわらず強いてこれを作った、そうしてこの三国同盟が大東亜戦争を導いたという事は紛れもない事実である、あるいは又米英の蒋介石援助に向かって抗議を申込んだ、かくの如き抗議が成り立たないという位の事は、常識を備えている者なら分かるはずである、何故か、日本が蒋介石を討てば、日本の勢力が益々支那に侵入する、日本の勢力が支那に侵入すればそれだけ米英の勢力は後退しなくてはならぬ、いづれの国といえども自国の勢力が後退するのを、指をくわえて見ている馬鹿はない、それ故に日本から見たならば、米英の蒋介石援助はけしからぬ事のように思えるかもしれないが、米英より見たならば、日本の蒋介石討伐はけしからぬと思われるに違いない、こういう事が段々と悪化して、遂に日米会談となる、近衛公は近頃日米会談の裏面に於て非常に骨を折ったけれども、これを成立させる事ができなかったのは甚だ遺憾であると言うて、何となく自分の責任回避を仄めかしているようであるが、これはもっての外の我がままである、日米会談は何から起こったのであるか、支那事変から起こったのである、自分で火をつけて大火事を起こしておきながら、その火事を消す事ができなかったから、火事の責任は自分にはない、こういう理屈が今日の世の中に於て通ると思うのは、これは全く世間知らずの分らず屋である、近衛公の戦争に対する責任は実に看過すべからざるものがある、これを現内閣はどう見ているか、近衛公は戦争に対しては責任はないと思っているが、もし責任がないと思うならば、私が以上述べた事実と近衛公との関係はどうなるのか、これを説明されたい、私がこういう事を申すのは、別に深い意味がある、それは今日我が国民が最も恨んでいる者が二人いる、一人は東條大将であるが、他の一人は近衛公である、この両人に対する国民の恨みは実に深刻なものがある、政府の高いところにいてはこれが分からないかは知らないが、これは全く事実である、しかるに一方の東條大将は、戦争犯罪者として検挙せられて、その運命も余り遠からないうちに定まるのであるが、他の責任者たる近衛公は、戦争犯罪者としてはおろか、政治上に於ける責任もとる形跡はない、のみならず宮中府中を通じてその存在は今なお国民の眼に映ずる、国民よりこれを見るならばこれ程奇怪千万な事はない、こういう事実が今日の国民思想の上に於てどういう影響を及ぼすか、それでなくても今日敗戦後の国民思想の中には、極めて油断のならないものがある、この油断のならない思想の中に於て、かくの如き問題をこのままに葬り去る事は国家の大局より見て戒むべき事であると思う、これに対する総理大臣の見解を伺いたい」

次に、「総理大臣が戦争責任を国民全体に負わしている事=一億総ざんげ論」についての質問。「国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかどうか、最も今回の戦争はやるべきものであったか、やるべからざるものであったかという事については、国民の腹の底には色々の考えがあったに相違ない、もしこれを国民投票に訴えたならばその結果はどうであったか、私は今日これを明言しない、しかしひとたび戦争が起った以上は、その戦争には何としても勝たねばならぬ、戦争に勝たなければ国は滅びてしまう、それ故に戦前にはいかなる考えを持っていたにせよ、ひとたび戦争が始まった以上は、この戦争に勝つがために、国民は各々その身に応ずる能力を捧げて、戦争に向かって努力をしたに相違ないのである、国民の中には幾百万人の出征軍人もいる、これらの軍人は命を捨てて国家の為に戦ってきた、これに戦争の責任があるわけはない、その他銃後の国民も勝つがためには各々その身に相当する犠牲を払っている、例えば全国民の約半数を占めている農民である、彼らは増産に骨を折れと言えば一生懸命に増産に骨を折る、米を出せと言えば黙々としてこれを出す、自分の食糧をも省いて無条件に米を出している、農民は正直である、米を出せば戦争に勝つが、米を出さねば戦争に負ける、戦争に負けたなら出すも出さないもない、根こそぎ取られてしまうと説かるる、正直な農民は一途にこれを信じて米を出してきた、戦争に勝ちましたか、戦争に負けたではないか、政府は国民を騙したのである政府が農民を騙していながら、その農民に戦争の責任を負わせんとするのが幣原首相の態度である、その他一般の国民もまた然り、徴用工になれと言えば徴用工になる、挺身隊になれと言えば挺身隊になる、全国幾十万の学生生徒は大切な学業を中止してまで、直接間接に戦争のために働いてきた、それらの国民に何の責任があるのか、責任を負う者は別にあるが、それらの責任者に向かっては一指を染める事ができずに、一般の国民に向かって責任を負わせんとする幣原首相の考えはどこから出るのか、民主政治の確立、戦争の責任者、現内閣のなすところ、幣原首相のなすところは全く解し難い、この機会に所信を披瀝せられん事を望む」

 これに対する幣原首相の答弁。「戦争の責任は国民一般にあるとかいうような事のお話があったが、私はかような事を申した事はない、その不確実あるいは無根の事を新聞に出された事によって、私を攻撃する事は甚だ残念です、特定の政治家が戦争の責任があるかどうかという事を、政府として表明する事は適当な事ではないと考える、唯一般論としては、戦争責任者の追究について国民の間に血で血を洗うがごとき結果となるような方法に依る事は好ましくない、既に戦争責任者の一部については、連合国側に依って逮捕審問を受けつつある、その他の人々の中にも自ら責任を痛感し、自発的に公的の地位ないし社会的の地位より隠退しつつある向きも少なくない事はご承知の通りです、なお政府としてはかくの如き自発的に責任を痛感して隠退を決意せらるる向きに対しては、その方法を容易ならしむべく具体的措置を講ずる」 

戦争処理のための皇族内閣東久邇宮稔彦内閣の国民への戦争終結メッセージ「一億総ざんげ論」の一部を以下に紹介したい。

「……終戦(敗戦)の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日我々が徒に過去に遡って、誰を責め、何を咎める事もないのでありますが、前線銃後国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔をして神の前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の戒めと為し、心を新たにして、戦の日にも増して挙国一家乏しきを分ち、苦しきを労り、温き心に相援け、相携えて、各々其の本分に最善を尽くし、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進運を開くべきであると思います……」

 神聖天皇主権大日本帝国政府官僚は、「天皇制国体の護持」こそが戦後政治に参画する者の重要なる責務と考え、天皇制国体の最大危機を救う最後の切り札として、久邇宮朝彦親王の9男で、明治天皇の娘を夫人とする東久邇宮稔彦に組閣(1945年8月17日~10月5日)させた。内閣制度開始以来初の皇族内閣である。任務は、天皇制国体に対する国民の離反を防止し、占領に先立って支配体制の安定を作り上げておく事であり、占領軍が実施する非軍事化民主化の先回りをして、天皇制国体の完全復活を期するにあった。国民教育に対する期待も「新日本建設の教育方針」(文部省1945年8月15日)には「今後の教育は益々国体の護持に努る事」としていた。

(2018年11月14日投稿)

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斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の戦争責任追及と下村定陸相の答弁

2024-04-14 19:03:53 | 斎藤隆夫

 1945(昭和20)年11月28日の第89回帝国議会衆議院本会議で、斎藤隆夫氏は下村定陸軍大臣に対し、「満州事変当時から軍人が政治に干渉し、この弊害を停止するところなく、ついに今回の非運を招いた。この際、軍の代表者たる者は、いかにして我が国に軍国主義が生まれたか、又何故にこれを抑圧する事ができなかったか、いかにして今回の戦争を導いたのであるか、について全国民理解を求めるために、一切の事情を説明する必要があると思う。軍部大臣と合い間見ゆる事は今回が最後と思われる故に、あえてこの機会に大臣の所見を聞きたい」と質問した。

 これに対して下村定陸相は、以下のように「申し訳ありませぬ」などの「お詫び」の「言葉」を発するだけで、具体的な説明を伴わないだけでなく狡猾で無責任な答弁であった。

「斎藤君の質問にお答えを致します。いわゆる軍国主義の発生につきましては、軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考え方が誤った事、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かった事、これが根本であると信じます。この事が中外の色々な情勢と複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、ある者は勢いに乗じまして、いわゆる独善的な横暴な処置をとった者があると信じます。殊に許すべからざる事は、軍の不当なる政治干渉であります。かような事が重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を国家にもたらしました事は、何とも申し訳がありませぬ。私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じてこの点につき全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。陸軍は解体を致します。過去の罪責に対しまして、私どもは今後事実を以てお詫びを申し上げる事、事実を以て罪を償う事ができませぬ。誠に残念でありますが、どうか、従来からの国民各位の御同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、ただ今斎藤君の御質問にもありましたように、純忠なる軍人の功績を、抹殺し去らない事、殊に幾多戦没の英霊に対して、深きご同情を賜らん事を、この際切にお願いいたします。軍国主義の発生の経緯、ならびに、それを抑制し得なかった理由などについて、この議会に開陳せよという斎藤君の御希望、誠に御最もであります。これには清朝の検討を要する事でございまして、私ども、もとよりその必要を感じておりますが、今議会中において斎藤君の御満足いきますように、具体的、詳細に申し上げられるかどうかはお約束ができませぬ」

下村定陸相は、初の皇族内閣となった東久邇宮稔彦首相が、1945年9月初めに「戦争終結を国民に知らせる演説(一億総ざんげ論)」を行った際、演説草稿に「敗戦」という言葉を見つけ、「終戦」としてほしいと注文を付けた人物である。

※軍人勅諭では、「……世論に惑わず 政治に拘らず……」と定められていた。

(2024年4月14日投稿)

 

 

 

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「天声人語」が触れた毛沢東の4害「ネズミ」で思い出した「731部隊」細菌兵器研究と大阪ペスト襲来

2024-04-14 09:24:35 | 新型コロナ感染症

 朝日新聞の2017年10月26日「天声人語」欄に、「1950年代、中国の全土でスズメ撲滅運動が起きた。当時の指導者だった毛沢東の指示により、ネズミ、ハエ、カと並ぶ「四害」とされた」との言葉を見て、ふと最近テレビ番組でも取り上げられたあの悪名高い日本のアウシュビッツともいわれる「731部隊」も「ネズミ」と関りが深かった事を思い出した。

●「731部隊」とは秘匿名で正式には「関東軍防疫給水部本部」(1940年12月2日)といい、ハルピン市の平房に秘密基地がつくられたのである。その部隊長・石井四郎(軍医中将)の名前をとって「石井部隊」とも呼ばれた。言葉通りに受け取れば「伝染病や風土病を予防し、無害の飲み水などを給付する」部隊という事であるが、実際の活動は対ソビエト戦に備えての大規模な細菌戦の研究と開発であった。

 細菌戦とは、人を殺すために様々な「ばい菌」を作ってばら撒く事である。人の命を救う事を使命とする医者でありながら、それを逆に利用したという事である。それも反満抗日運動をしていた中国人や、朝鮮人、ロシア人などを生体実験の材料としていたのである。

 日本敗戦の年には、「731部隊」はペスト菌の乾燥保存(乾燥菌製造)技術を開発し、通常ペスト菌の60倍の毒性を持つ変性菌をも産出していたという。また、ペスト菌霧化技術も進み、陶器爆弾も完成し、特別に生存力の強いネズミや、「最も効果的な吸血能力を持つノミ」の一種族が大量繁殖されていた。

 そして、1945年5月、石井部隊長は部隊幹部に対して「日ソ開戦は必至の情勢……これより731の総力を挙げて、細菌とノミ、ネズミの増産に突入する」という増産訓示をしたのである。

 元隊員の証言によれば「ペスト菌を中心に、井戸水や貯水池に投げ込むチフス菌、コレラ菌、河や牧場を汚染する脾脱疽菌を、向こう2カ月間に大量生産せよ、命令が下りてきたのが5月10日の事だった……細菌製造工場だったロ号棟1階勤務の柄沢班は増員され、24時間体制で生産に入った……その結果、ペスト菌だけで20㎏近く製造したと思う……貯蔵してあるものを含めると、乾燥菌を合わせ100㎏に達したのではないか」という。

 ペスト菌をネズミのノミを媒介にして拡散させるために、ネズミについては「300万匹増産」を目指す命令が下った。ネズミの捕獲のために「特攻隊」が組織され、隊員たちは大量の捕鼠器をトラックに積み込み、ハルピンや新京(長春)の各市街を回り、住民や中学生女学生たちを大々的なネズミ捕りに動員したようだ。731部隊は各支部はもちろん、庁舎、宿舎を問わず、高さ1㍍足らずの板囲いの中で、不寝番までつけてネズミ増産に狂奔したという。平房秘密基地周辺の村人にも1人当たり5匹の「ネズミ捕りの命令」が発せられ、捕まえなければ処罰されたという。

 散布・投下にも使用するペスト・ノミの増産目標は「300㎏」(約10億匹)とされたが、田中班には4500個のノミ飼育器があり、わずか数日間で1億匹のノミを確保できたという。

 元隊員の証言によれば、敗戦直前に使用可能な保存細菌は「もし全部を理想的な方法でばら撒けば地球上の人類はことごとく死んでしまう」ほどの量であったという。

 この増産計画は8月9日のソ連軍の対日参戦により成就できずに終わらざるを得なくなったというが、ナチスと同類の731部隊の一連の極悪非道の所業は二度と行ってはならない事であり、戦後に生まれた我々日本人も先祖の犯したその所業の罪深さを肝に命じ決して忘れてはならない

●大阪にペスト襲来について

 1899年には大阪に襲来しており、府下で161人が発病し、市内では153人のうち138人が死亡しているが、1904年暮れから1910年までの6年間、再び大阪で大流行した。ペスト菌がネズミのノミを媒介にして広まる事は1894年に北里柴三郎により究明されており、感染経路は明らかとなったが、死亡率は89%であった。患者は大阪市立桃山病院に運び込まれ、家族と隣接民家の住民は北区西梅田下島町(現福島区)の通称鼠島の消毒所へ隔離された。患者の出た町も広い範囲でトタン板で交通遮断し石灰のようなもので大消毒がなされた。治療の決め手はなく、リンパ腺を切り取り、衰弱するとブドウ酒に強心剤を混ぜて飲ませたという。

 ペスト菌の感染拡大を防ぐ方法も「ネズミ退治」しかなかったので、1904年11月25日から大阪市は、各交番を窓口にしてネズミ1匹を2銭で買い上げた。連日3000匹以上が持ち込まれ、感染地域が広がると買い上げ値段は値上げ(05年12月には1匹10銭)されていき、持ち込まれるネズミの量も5000匹を大きく上回った。当時1日20銭あれば大人の男は1日生活できた時代であったので、5匹も獲れると「すき焼き」をしたという。また、ネコを飼うのも流行り、どこの家でも最低2匹はいたという。ネコがネズミをくわえていると、人間がそれを横取りし交番へ走ったともいう。

 この大阪でのペスト大流行の時期は、ちょうど日露戦争旅順総攻撃、桂・タフト協定、ポーツマス条約、日比谷焼打ち事件、第2次日韓協約、朝鮮統監府開庁、ハーグ密使事件、第3次日韓協約、安重根による伊藤博文射殺、大逆事件、韓国併合(朝鮮植民地化)条約、朝鮮総督府開庁などの時期に当たる。

(2017年10月29日投稿)

 

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育鵬社採択、四条畷市、東大阪市。メディアは採択の実相を伝えてこそ存在意義。

2024-04-12 22:57:16 | おおさか維新の会

 2016年度から使用する中学校教科書の採択が終わった。安倍内閣が日本の政治体制を改悪する「安保法制」審議を参議院で続けているのと連動して、安倍内閣の別働隊である「つくる会」系の育鵬社がその採択増加を狙う運動が行われてきた。新聞も採択結果を伝えてきた。その取り上げ方には、新聞が何を問題と考えているかという視点が表れているが、私の求めている視点とはズレている。おそらく同様な気持ちを抱いている読者がいるのではないかと思う。それは、新聞の記事は大筋の「結果の報告」でしかないからだ。もちろんそれは必要であるが、そのいきさつをもっと詳しく取り上げるべきだと思う。なぜならその情報を知る事によって、読者は単純に結論を出してしまわず、深く考え分析し洞察し理解し判断をする事ができるからである。新聞は読者の能力を軽く見ている表れではないかともいえる。

 さて、「グループZAZA」の傍聴報告(四条畷市、東大阪市)を簡単に紹介します。

 「四条畷市」教育委員会は7月29日に採択されたが、歴史・公民ともに育鵬社が採択された。国語から採択を始めたが、教育長が発言したのは歴史の時が初めてで、それも「歴史の教科書に育鵬社がふさわしい」と。それに合わせて賛成委員が、「育鵬社を推薦する。公民と連携で」と発言。その他の委員は他の教科書を推薦した。

 委員長は「学校現場で観点の異なる育鵬社を教える事は非常に難しいと思う。今まで他市も使っていない教科書を使うとなると考え方をしっかり持たないと、中学生に歴史的事実を色んな観点で教えるには、教える側の主体も、相当しっかり教えてもらわないといけない。これが良いとは言えないが、私の感想です」と。他の委員からの発言はなく、東京書籍と育鵬社に絞り込んだ。

 賛成委員が「育鵬社は郷土学習という観点から、楠正成が取り上げられ、公民とのバランスで推薦する」とダメ押しの発言。育鵬社に決まりかけたところで賛成委員が5分の休憩動議を出し、再開後、育鵬社に「強い意見」という事で採択された。

 公民は教育長が4点について育鵬社を推薦。先ほどの賛成委員が「歴史とリンクしているから育鵬社が良い」と賛成発言。委員長は「現行東書が分かりやすく、育鵬社か東書になるが意見は?」に対して意見はなし。沈黙のまま育鵬社を採択した。

 「東大阪市」教育委員会(野田義和市長。5期目は「おおさか維新」公認)は7月27日に公民で育鵬社を採択した。「選定委員会答申一覧」(傍聴者にも会議録配布)には地理、歴史、公民とも育鵬社以外の3社が選定されていた(が、前回に引き続き育鵬社を採択した。

 13時30分開始。教育次長の経過報告の中で「保護者(選定委員会の中の保護者代表)の意見反映のため、調査の結果現在使用の教科書を使用してほしい」との意見があったと補足し、それが現在の公民、歴史には含まれていないと説明。選定委員会には日本会議東大阪支部の関係者が入っているが、その人物の主張は選定委員会では受け入れられず、答申には入らなかった。(2011年の時は、無理矢理選定委員会答申に育鵬社を入れ教育委員会が採択した)。

 国語から始め、曖昧で採決もしない採択決定方法で各教科5分も費やさなかった。地理は帝國書院から東京書籍へ、歴史は東京書籍から教育出版へ採択(地理・歴史は現行と違う教科書を採択)。公民では、酒井委員(前回育鵬社を推薦)が「現行育鵬社と東京書籍に差はない、差がないなら現行の方が良い、変える必要はない」と。神足委員は「多角的多面的に考える分野において甲乙つけがたい、決められない、どの教科書でも良い」と責任放棄。堤委員は「それぞれ現代社会のしくみ課題を偏りなく書いている、突出して記述に彩色あるのを判断すると現行でも良い」と。教育長(前回育鵬社を推薦)は「生徒たちの興味関心を引く細かい工夫がされている、総合的に判断して教育出版が良い」と。

 乾教育委員長が神足委員に再度どれかを問いかけると「現行でもかまいませんが、他のでも」と。乾教育委員長が「私も現行で良いと思うが、教育長いかがですか」と問いかけると、教育長は「先ほど申し上げた通り」と。

 乾教育委員長が神足委員に再度「現行で良いか」と確認後、「それでは現行通りでいきます」と。この間で、育鵬社の採択理由の説明は一切なし。傍聴者の怒りの抗議の中、平然と15時には15の教科書すべての採択を終えた。傍聴者は「クーデター的やり方。文科省が通知した“選定委員会の絞り込みに縛られず、教育委員会議で決定”を忠実に実行した」と報告。

 これが教育委員会議による「教科書採択」の実相である。現在の新聞報道と比較してみてください。新聞報道以上の、また、比べ物にならないほど色々な事への考えが深まり広まります。真に物事への理解に迫る事ができます。現在の新聞報道(マスメディア)がいかに私たちの思考を操作しているかに気が付きます。

 次回は「大阪市の教科書採択」を紹介します。「大阪維新の会」も自民党、公明党などに劣らず狡猾で陰謀術数に秀でた連中です。

(2015年8月31日投稿)

 

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