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斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の戦争責任追及と下村定陸相の答弁

2024-04-14 19:03:53 | 斎藤隆夫

 1945(昭和20)年11月28日の第89回帝国議会衆議院本会議で、斎藤隆夫氏は下村定陸軍大臣に対し、「満州事変当時から軍人が政治に干渉し、この弊害を停止するところなく、ついに今回の非運を招いた。この際、軍の代表者たる者は、いかにして我が国に軍国主義が生まれたか、又何故にこれを抑圧する事ができなかったか、いかにして今回の戦争を導いたのであるか、について全国民理解を求めるために、一切の事情を説明する必要があると思う。軍部大臣と合い間見ゆる事は今回が最後と思われる故に、あえてこの機会に大臣の所見を聞きたい」と質問した。

 これに対して下村定陸相は、以下のように「申し訳ありませぬ」などの「お詫び」の「言葉」を発するだけで、具体的な説明を伴わないだけでなく狡猾で無責任な答弁であった。

「斎藤君の質問にお答えを致します。いわゆる軍国主義の発生につきましては、軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考え方が誤った事、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かった事、これが根本であると信じます。この事が中外の色々な情勢と複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、ある者は勢いに乗じまして、いわゆる独善的な横暴な処置をとった者があると信じます。殊に許すべからざる事は、軍の不当なる政治干渉であります。かような事が重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を国家にもたらしました事は、何とも申し訳がありませぬ。私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じてこの点につき全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。陸軍は解体を致します。過去の罪責に対しまして、私どもは今後事実を以てお詫びを申し上げる事、事実を以て罪を償う事ができませぬ。誠に残念でありますが、どうか、従来からの国民各位の御同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、ただ今斎藤君の御質問にもありましたように、純忠なる軍人の功績を、抹殺し去らない事、殊に幾多戦没の英霊に対して、深きご同情を賜らん事を、この際切にお願いいたします。軍国主義の発生の経緯、ならびに、それを抑制し得なかった理由などについて、この議会に開陳せよという斎藤君の御希望、誠に御最もであります。これには清朝の検討を要する事でございまして、私ども、もとよりその必要を感じておりますが、今議会中において斎藤君の御満足いきますように、具体的、詳細に申し上げられるかどうかはお約束ができませぬ」

下村定陸相は、初の皇族内閣となった東久邇宮稔彦首相が、1945年9月初めに「戦争終結を国民に知らせる演説(一億総ざんげ論)」を行った際、演説草稿に「敗戦」という言葉を見つけ、「終戦」としてほしいと注文を付けた人物である。

※軍人勅諭では、「……世論に惑わず 政治に拘らず……」と定められていた。

(2024年4月14日投稿)

 

 

 

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「天声人語」が触れた毛沢東の4害「ネズミ」で思い出した「731部隊」細菌兵器研究と大阪ペスト襲来

2024-04-14 09:24:35 | 新型コロナ感染症

 朝日新聞の2017年10月26日「天声人語」欄に、「1950年代、中国の全土でスズメ撲滅運動が起きた。当時の指導者だった毛沢東の指示により、ネズミ、ハエ、カと並ぶ「四害」とされた」との言葉を見て、ふと最近テレビ番組でも取り上げられたあの悪名高い日本のアウシュビッツともいわれる「731部隊」も「ネズミ」と関りが深かった事を思い出した。

●「731部隊」とは秘匿名で正式には「関東軍防疫給水部本部」(1940年12月2日)といい、ハルピン市の平房に秘密基地がつくられたのである。その部隊長・石井四郎(軍医中将)の名前をとって「石井部隊」とも呼ばれた。言葉通りに受け取れば「伝染病や風土病を予防し、無害の飲み水などを給付する」部隊という事であるが、実際の活動は対ソビエト戦に備えての大規模な細菌戦の研究と開発であった。

 細菌戦とは、人を殺すために様々な「ばい菌」を作ってばら撒く事である。人の命を救う事を使命とする医者でありながら、それを逆に利用したという事である。それも反満抗日運動をしていた中国人や、朝鮮人、ロシア人などを生体実験の材料としていたのである。

 日本敗戦の年には、「731部隊」はペスト菌の乾燥保存(乾燥菌製造)技術を開発し、通常ペスト菌の60倍の毒性を持つ変性菌をも産出していたという。また、ペスト菌霧化技術も進み、陶器爆弾も完成し、特別に生存力の強いネズミや、「最も効果的な吸血能力を持つノミ」の一種族が大量繁殖されていた。

 そして、1945年5月、石井部隊長は部隊幹部に対して「日ソ開戦は必至の情勢……これより731の総力を挙げて、細菌とノミ、ネズミの増産に突入する」という増産訓示をしたのである。

 元隊員の証言によれば「ペスト菌を中心に、井戸水や貯水池に投げ込むチフス菌、コレラ菌、河や牧場を汚染する脾脱疽菌を、向こう2カ月間に大量生産せよ、命令が下りてきたのが5月10日の事だった……細菌製造工場だったロ号棟1階勤務の柄沢班は増員され、24時間体制で生産に入った……その結果、ペスト菌だけで20㎏近く製造したと思う……貯蔵してあるものを含めると、乾燥菌を合わせ100㎏に達したのではないか」という。

 ペスト菌をネズミのノミを媒介にして拡散させるために、ネズミについては「300万匹増産」を目指す命令が下った。ネズミの捕獲のために「特攻隊」が組織され、隊員たちは大量の捕鼠器をトラックに積み込み、ハルピンや新京(長春)の各市街を回り、住民や中学生女学生たちを大々的なネズミ捕りに動員したようだ。731部隊は各支部はもちろん、庁舎、宿舎を問わず、高さ1㍍足らずの板囲いの中で、不寝番までつけてネズミ増産に狂奔したという。平房秘密基地周辺の村人にも1人当たり5匹の「ネズミ捕りの命令」が発せられ、捕まえなければ処罰されたという。

 散布・投下にも使用するペスト・ノミの増産目標は「300㎏」(約10億匹)とされたが、田中班には4500個のノミ飼育器があり、わずか数日間で1億匹のノミを確保できたという。

 元隊員の証言によれば、敗戦直前に使用可能な保存細菌は「もし全部を理想的な方法でばら撒けば地球上の人類はことごとく死んでしまう」ほどの量であったという。

 この増産計画は8月9日のソ連軍の対日参戦により成就できずに終わらざるを得なくなったというが、ナチスと同類の731部隊の一連の極悪非道の所業は二度と行ってはならない事であり、戦後に生まれた我々日本人も先祖の犯したその所業の罪深さを肝に命じ決して忘れてはならない

●大阪にペスト襲来について

 1899年には大阪に襲来しており、府下で161人が発病し、市内では153人のうち138人が死亡しているが、1904年暮れから1910年までの6年間、再び大阪で大流行した。ペスト菌がネズミのノミを媒介にして広まる事は1894年に北里柴三郎により究明されており、感染経路は明らかとなったが、死亡率は89%であった。患者は大阪市立桃山病院に運び込まれ、家族と隣接民家の住民は北区西梅田下島町(現福島区)の通称鼠島の消毒所へ隔離された。患者の出た町も広い範囲でトタン板で交通遮断し石灰のようなもので大消毒がなされた。治療の決め手はなく、リンパ腺を切り取り、衰弱するとブドウ酒に強心剤を混ぜて飲ませたという。

 ペスト菌の感染拡大を防ぐ方法も「ネズミ退治」しかなかったので、1904年11月25日から大阪市は、各交番を窓口にしてネズミ1匹を2銭で買い上げた。連日3000匹以上が持ち込まれ、感染地域が広がると買い上げ値段は値上げ(05年12月には1匹10銭)されていき、持ち込まれるネズミの量も5000匹を大きく上回った。当時1日20銭あれば大人の男は1日生活できた時代であったので、5匹も獲れると「すき焼き」をしたという。また、ネコを飼うのも流行り、どこの家でも最低2匹はいたという。ネコがネズミをくわえていると、人間がそれを横取りし交番へ走ったともいう。

 この大阪でのペスト大流行の時期は、ちょうど日露戦争旅順総攻撃、桂・タフト協定、ポーツマス条約、日比谷焼打ち事件、第2次日韓協約、朝鮮統監府開庁、ハーグ密使事件、第3次日韓協約、安重根による伊藤博文射殺、大逆事件、韓国併合(朝鮮植民地化)条約、朝鮮総督府開庁などの時期に当たる。

(2017年10月29日投稿)

 

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育鵬社採択、四条畷市、東大阪市。メディアは採択の実相を伝えてこそ存在意義。

2024-04-12 22:57:16 | おおさか維新の会

 2016年度から使用する中学校教科書の採択が終わった。安倍内閣が日本の政治体制を改悪する「安保法制」審議を参議院で続けているのと連動して、安倍内閣の別働隊である「つくる会」系の育鵬社がその採択増加を狙う運動が行われてきた。新聞も採択結果を伝えてきた。その取り上げ方には、新聞が何を問題と考えているかという視点が表れているが、私の求めている視点とはズレている。おそらく同様な気持ちを抱いている読者がいるのではないかと思う。それは、新聞の記事は大筋の「結果の報告」でしかないからだ。もちろんそれは必要であるが、そのいきさつをもっと詳しく取り上げるべきだと思う。なぜならその情報を知る事によって、読者は単純に結論を出してしまわず、深く考え分析し洞察し理解し判断をする事ができるからである。新聞は読者の能力を軽く見ている表れではないかともいえる。

 さて、「グループZAZA」の傍聴報告(四条畷市、東大阪市)を簡単に紹介します。

 「四条畷市」教育委員会は7月29日に採択されたが、歴史・公民ともに育鵬社が採択された。国語から採択を始めたが、教育長が発言したのは歴史の時が初めてで、それも「歴史の教科書に育鵬社がふさわしい」と。それに合わせて賛成委員が、「育鵬社を推薦する。公民と連携で」と発言。その他の委員は他の教科書を推薦した。

 委員長は「学校現場で観点の異なる育鵬社を教える事は非常に難しいと思う。今まで他市も使っていない教科書を使うとなると考え方をしっかり持たないと、中学生に歴史的事実を色んな観点で教えるには、教える側の主体も、相当しっかり教えてもらわないといけない。これが良いとは言えないが、私の感想です」と。他の委員からの発言はなく、東京書籍と育鵬社に絞り込んだ。

 賛成委員が「育鵬社は郷土学習という観点から、楠正成が取り上げられ、公民とのバランスで推薦する」とダメ押しの発言。育鵬社に決まりかけたところで賛成委員が5分の休憩動議を出し、再開後、育鵬社に「強い意見」という事で採択された。

 公民は教育長が4点について育鵬社を推薦。先ほどの賛成委員が「歴史とリンクしているから育鵬社が良い」と賛成発言。委員長は「現行東書が分かりやすく、育鵬社か東書になるが意見は?」に対して意見はなし。沈黙のまま育鵬社を採択した。

 「東大阪市」教育委員会(野田義和市長。5期目は「おおさか維新」公認)は7月27日に公民で育鵬社を採択した。「選定委員会答申一覧」(傍聴者にも会議録配布)には地理、歴史、公民とも育鵬社以外の3社が選定されていた(が、前回に引き続き育鵬社を採択した。

 13時30分開始。教育次長の経過報告の中で「保護者(選定委員会の中の保護者代表)の意見反映のため、調査の結果現在使用の教科書を使用してほしい」との意見があったと補足し、それが現在の公民、歴史には含まれていないと説明。選定委員会には日本会議東大阪支部の関係者が入っているが、その人物の主張は選定委員会では受け入れられず、答申には入らなかった。(2011年の時は、無理矢理選定委員会答申に育鵬社を入れ教育委員会が採択した)。

 国語から始め、曖昧で採決もしない採択決定方法で各教科5分も費やさなかった。地理は帝國書院から東京書籍へ、歴史は東京書籍から教育出版へ採択(地理・歴史は現行と違う教科書を採択)。公民では、酒井委員(前回育鵬社を推薦)が「現行育鵬社と東京書籍に差はない、差がないなら現行の方が良い、変える必要はない」と。神足委員は「多角的多面的に考える分野において甲乙つけがたい、決められない、どの教科書でも良い」と責任放棄。堤委員は「それぞれ現代社会のしくみ課題を偏りなく書いている、突出して記述に彩色あるのを判断すると現行でも良い」と。教育長(前回育鵬社を推薦)は「生徒たちの興味関心を引く細かい工夫がされている、総合的に判断して教育出版が良い」と。

 乾教育委員長が神足委員に再度どれかを問いかけると「現行でもかまいませんが、他のでも」と。乾教育委員長が「私も現行で良いと思うが、教育長いかがですか」と問いかけると、教育長は「先ほど申し上げた通り」と。

 乾教育委員長が神足委員に再度「現行で良いか」と確認後、「それでは現行通りでいきます」と。この間で、育鵬社の採択理由の説明は一切なし。傍聴者の怒りの抗議の中、平然と15時には15の教科書すべての採択を終えた。傍聴者は「クーデター的やり方。文科省が通知した“選定委員会の絞り込みに縛られず、教育委員会議で決定”を忠実に実行した」と報告。

 これが教育委員会議による「教科書採択」の実相である。現在の新聞報道と比較してみてください。新聞報道以上の、また、比べ物にならないほど色々な事への考えが深まり広まります。真に物事への理解に迫る事ができます。現在の新聞報道(マスメディア)がいかに私たちの思考を操作しているかに気が付きます。

 次回は「大阪市の教科書採択」を紹介します。「大阪維新の会」も自民党、公明党などに劣らず狡猾で陰謀術数に秀でた連中です。

(2015年8月31日投稿)

 

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天声人語;「ソメイヨシノは華やかさが好まれて広がった」は歴史修正が狙いか?でなければ勉強不足

2024-04-11 10:21:59 | 桜を見る会

 ※アメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンの言葉「自らの支配者たらんとする人民は、知識が与える力で自らを武装しなければならない

 2017年2月4日の朝日新聞「天声人語」に、「ソメイヨシノ」に関して、「いまや桜の代名詞となったソメイヨシノも、明治以降、その華やかさが好まれて広がった」と説明していたが、これでは「広がった」理由をあまりにも軽率に、単純な「美的好悪」の感性の説明だけで済ませていると受け取れるが、「ソメイヨシノ」はそのレベルの説明で済ませる事ができる「」ではない。「好悪」の感性だけを普及理由としてしまうならば、それは説明としては誤りというべきだ。執筆者がそれを分からないはずはないであろう(分かっていないとすれば執筆者は勉強不足である)。もしも、それを分かっていながら上記の説明をしたとするならば、非常に問題のある説明というべきである。執筆者は意図的に読者に事実を伝えず、「好悪」だけが理由であったように読者に思わせ、洗脳する事を目的としていると言ってよいもので、読者にとってはきわめて危険な説明であるといえる。

 現在、「ソメイヨシノ」は日本の桜の8割を占めるといわれるが、その「ソメイヨシノ(染井吉野)」は幕末から明治時代初めに、東京の染井周辺で人工的交配により生み出されたもので、その後各地に広まったといわれている。当初は「吉野桜」と呼んでいたが、1901年、「ソメイヨシノ」が正式名となったようだ。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、「ソメイヨシノ」を「国花」として位置づけ、明治以来「小学校」ではその「徽章」として使用するようになり、学生服の金ボタンにも使用するようになった。また、学校教育においては、国定教科書の第3期4期の教科書では「サクラ」の花を教科書の「顔」として取り入れ、子どもの頃から意識の中に刷り込んでいった。

 東京では、1880年代以降「ソメイヨシノ」が流行し始め、1890年代には政府の意向に沿って各地の行政機関により、公園整備の際に植えるようになった。1890年頃には、「靖国神社」の境内にも「ソメイヨシノ」が植えられたという。

 大阪では、日露戦争前後に、天王寺公園に初めて「ソメイヨシノ」が植えられた。

 「ソメイヨシノ」が大々的に植えられるようになったのは、1910年以降であるという。それは、帝国政府や軍部の意思に沿って広められたものである。また、帝国政府は、国家神道(天皇教)信奉者(現在の歴史修正主義者)による「作り話プロパガンダ活動にも支えられて、国民の間に「ソメイヨシノ」が日本の「伝統」的な桜であると信じ込ませようとするとともに、それを通して為政者は自身に都合の良い思想認識を捏造し、それを「日本民族」が持つべき思想認識と位置づけ、国民に刷り込み洗脳していったのである。それを示すものを以下に示しておこう。

 前田曙山『曙山園芸』(1911年)の『』には「……桜と日本は神が結べる縁で、何者が水を差すとも、切れるの変わるのという仲ではない」としている。

 1913年改訂の国定教科書『高等小学読本』第1課にある井上哲次郎の『桜花』には、「……我が日本民族の長所が個人主義にあらずして、むしろ団体的活動にあるを表現してあまりありというべきなり。……桜花は我が日本民族のまさに具有すべき気性精神を表現するものにほかならず」としている。

 大町桂月『筆艸』の『日本国民と桜』には「……日本国民の特質をいえば、淡白にして思い切りよく、生死に未練なく、個人的ならず団体として大いに強し桜の花神、化して日本国民となれるか。日本国民の魂出でて桜の花となれるか。桜花は日本国民の表象なり」としている。

 1937年の大照晃道『桜と日本民族』には「……山桜のパッと咲いて潔く散れると云う処、民族的精神と相通っているのである。……桜に備えている徳……は、同時に国民の精神のその内容を為しているものであった。その精は植物となっては山桜となり、人となっては大和民族となったものであろう」としている。

 日本の「歴史修正主義」は大日本帝国政府による近代化とともに始まり、敗戦により否定されたが、それは表面的なものであって、地下水のごとく根強く暗躍し続け、社会の表面へ返り咲くチャンスを伺っていたが、1990年代より、公然と活動しその主張を正当化するようになり、今日の安倍政権に至るのである。神聖天皇主権大日本帝国政府の国民支配の手法を継承する安倍自公政権は、歴史は自分の都合の良いように「書き換えるべきもの」であると考えており、現代の国民を思いのままに洗脳したり、歴史の発展を逆戻りさせる事を不可能な事ではないと強く信じているのである

(2020年3月30日投稿)

 

 

 

 

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横浜連合生糸荷預所事件と渋沢栄一が果たした事

2024-04-07 10:11:21 | 渋沢栄一

 日米修好通商条約(1858年。露・蘭・英・仏を含め安政の五か国条約)は、日本に在留する外国人の治外法権(領事裁判権)を認め、居留地制度、関税協定制度(自主権なし)、一方的無条件最恵国待遇などの条項を含む、神聖天皇主権大日本帝国政府にとっては不利な不平等条約であった。治外法権を背景にした貿易取引上の外国商人の横暴が相次ぎ、成長し始めた日本の商人や製造業者との対立が深まったが、その代表的事件が1881(明治14)年の横浜連合生糸荷預所事件であった。この事件の収拾に主導的役割を果たしたのが渋沢栄一であった

 当時、生糸の輸出輸出総額中40%以上をしめ、代表的輸出品であった。しかし、輸出入ともに大部分は外国商人が独占しており、加えて治外法権を背景に外国商人不正不法が横行し、横浜の生糸売り込み相場は外国市場価格に比べて大幅な安値を余儀なくされていた。こうした状況に対して、1881年9月、横浜の生糸売り込み商人たちは、横浜連合生糸荷預所を設立し、生糸の売り込みをすべてこの荷預所を通じて行う事とした。

 この対応に横浜居留の外国商人は、荷預所から生糸を一切買わない事を広告したため、内外資本が全面衝突したのである。これを横浜連合生糸荷預所事件という連合生糸荷預所には、横浜の生糸売り込み商人のほとんどが所属した。そして、有力な売り込み商人であった渋沢喜作(渋沢栄一と従弟関係)、原善三郎、茂本惣兵衛、馬越恭平(三井物産)、朝吹英二(貿易商会)、らが役員となった。

 荷預所外国商人取引の弊習是正=商権回復を標榜し、銀行・運送会社や、各地の荷主たちが荷預所支持の運動を広範に繰り広げた。外国商人はこの事件をきっかけに、売り込み商人を排除し、国内の生産者・商人との直接取引を目論んだ。結局、11月18日、将来「共同倉庫」設置、それまで暫定措置として商館取引を認めるが、荷物預かり証などを内外商人が交換し、取引を合理化する、という和解約定書を取り交わし、一件落着した。

 この事件の収拾に主導的役割を果たしたのが渋沢栄一であったが、渋沢栄一など有力荷預所株主=売り込み商人は、国内の流通と生産を支配しようとする目論見をもち、この闘争の過程で、大資本(有力荷預所株主)中小資本の対立が生じたのを、大資本中小資本を犠牲にして外国商人と妥協をした収拾内容であった。

(2021年12月19日投稿)

 

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