つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の戦争責任追及と幣原首相の答弁

2024-04-14 20:56:03 | 斎藤隆夫

 幣原喜重郎内閣は、東久邇宮内閣(GHQの人権指令実施は不可能として総辞職)のあとを受けて成立。GHQは五大改革指令(1945年10月11日)を伝え、憲法改正の必要を示唆した。この実行がこの内閣の課題となった。斎藤隆夫は第89回衆院本会議で幣原首相に「戦争責任者に対する政府の態度」と「なぜ戦争責任を国民全体に負わしているのか=一億総ざんげ論」について質問している。このやり取りから主権者国民が教訓とする事ができる一部を以下に紹介しよう。

先ず、「戦争責任者に対する政府の態度」についての質問。「幣原首相は日本全国民も戦争の責任を負わねばならぬと明言せられている、これは一体どういう事であるか、私共誠に怪訝に堪えない、日本国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかないか、この論結に入る前に先立ちまして、先ず以て戦争責任の根本について一言せざるを得ない、今日戦争の根本責任を負う者は東條大将と近衛公爵、この二人であると思う、最もこの両人だけが戦争の責任者ではない、しかし、苟も政局の表面に立ってこの戦争を惹起した根本責任は近衛公爵と東條大将、この両人であるというについて、天下に異論ある筈はない、それは何故か、申すまでもなく大東亜戦争は何から起こっているかと言えば、つまり支那事変から起こっている支那事変がなければ大東亜戦争はない、それ故に大東亜戦争を起こした東條大将に戦争責任があるとするならば、支那事変を起こした近衛公爵にもまた戦争の責任がなくてはならない、私は今日この場合に於いて支那事変は何が故に起こったのか、そういう事は申さない、又当時近衛内閣が声明した現地解決、事変不拡大の方針、これが何故に行われなかったか、これまた言う必要はない、しかしながら事変は拡大に拡大を重ねて停止する事ができない、この時に当たって近衛内閣はいかなる事を声明したか、支那事変は支那を侵略するのが目的ではないそれを蒋介石が邪魔をするから、蒋介石を討つのが目的であって、決して支那民衆を敵とするものではない、こういう事を声明している、しかしかくの如き浅はかなる声明が支那の民心を把握して、世界の世論を惹きつける事ができると思うに至っては、全く児戯に類するものである、次に何を言うたか、蒋介石を討つにあらざれば戈を収めない、蒋介石を相手にしない、蒋介石を討つ事ができたか、討つ事ができないではないか、蒋介石を相手にするもしないも、支那は今日連合国の一員となって、戦勝国の権利として戦敗国たる日本に向かっているではないか、近衛公はこの事実をどう見るか、苟も責任を解し、恥を知る政治家であるならば、安閑としておれるわけはない、なお近衛公の責任はこれ位のものでは止まらない、彼の汪兆銘と称する政治家、この無力なる政治家を引っ張ってきて、そうして支那に新政府を作らせる、この新政府によって日本はどれだけ搾取せられたか、どれだけ犠牲を払ったか、実に言うに忍びない、しかるにこの新政府はどうなったか、終戦と同時に崩壊して、今日は影も形もなくなっている、この事実をどうするのか、あるいは日独伊の三国同盟を作ったのも近衛内閣である、当時日本国民はかくの如き同盟には衷心賛成はしていなかった、にもかかわらず強いてこれを作った、そうしてこの三国同盟が大東亜戦争を導いたという事は紛れもない事実である、あるいは又米英の蒋介石援助に向かって抗議を申込んだ、かくの如き抗議が成り立たないという位の事は、常識を備えている者なら分かるはずである、何故か、日本が蒋介石を討てば、日本の勢力が益々支那に侵入する、日本の勢力が支那に侵入すればそれだけ米英の勢力は後退しなくてはならぬ、いづれの国といえども自国の勢力が後退するのを、指をくわえて見ている馬鹿はない、それ故に日本から見たならば、米英の蒋介石援助はけしからぬ事のように思えるかもしれないが、米英より見たならば、日本の蒋介石討伐はけしからぬと思われるに違いない、こういう事が段々と悪化して、遂に日米会談となる、近衛公は近頃日米会談の裏面に於て非常に骨を折ったけれども、これを成立させる事ができなかったのは甚だ遺憾であると言うて、何となく自分の責任回避を仄めかしているようであるが、これはもっての外の我がままである、日米会談は何から起こったのであるか、支那事変から起こったのである、自分で火をつけて大火事を起こしておきながら、その火事を消す事ができなかったから、火事の責任は自分にはない、こういう理屈が今日の世の中に於て通ると思うのは、これは全く世間知らずの分らず屋である、近衛公の戦争に対する責任は実に看過すべからざるものがある、これを現内閣はどう見ているか、近衛公は戦争に対しては責任はないと思っているが、もし責任がないと思うならば、私が以上述べた事実と近衛公との関係はどうなるのか、これを説明されたい、私がこういう事を申すのは、別に深い意味がある、それは今日我が国民が最も恨んでいる者が二人いる、一人は東條大将であるが、他の一人は近衛公である、この両人に対する国民の恨みは実に深刻なものがある、政府の高いところにいてはこれが分からないかは知らないが、これは全く事実である、しかるに一方の東條大将は、戦争犯罪者として検挙せられて、その運命も余り遠からないうちに定まるのであるが、他の責任者たる近衛公は、戦争犯罪者としてはおろか、政治上に於ける責任もとる形跡はない、のみならず宮中府中を通じてその存在は今なお国民の眼に映ずる、国民よりこれを見るならばこれ程奇怪千万な事はない、こういう事実が今日の国民思想の上に於てどういう影響を及ぼすか、それでなくても今日敗戦後の国民思想の中には、極めて油断のならないものがある、この油断のならない思想の中に於て、かくの如き問題をこのままに葬り去る事は国家の大局より見て戒むべき事であると思う、これに対する総理大臣の見解を伺いたい」

次に、「総理大臣が戦争責任を国民全体に負わしている事=一億総ざんげ論」についての質問。「国民は果たして戦争の責任を負わねばならぬものであるかどうか、最も今回の戦争はやるべきものであったか、やるべからざるものであったかという事については、国民の腹の底には色々の考えがあったに相違ない、もしこれを国民投票に訴えたならばその結果はどうであったか、私は今日これを明言しない、しかしひとたび戦争が起った以上は、その戦争には何としても勝たねばならぬ、戦争に勝たなければ国は滅びてしまう、それ故に戦前にはいかなる考えを持っていたにせよ、ひとたび戦争が始まった以上は、この戦争に勝つがために、国民は各々その身に応ずる能力を捧げて、戦争に向かって努力をしたに相違ないのである、国民の中には幾百万人の出征軍人もいる、これらの軍人は命を捨てて国家の為に戦ってきた、これに戦争の責任があるわけはない、その他銃後の国民も勝つがためには各々その身に相当する犠牲を払っている、例えば全国民の約半数を占めている農民である、彼らは増産に骨を折れと言えば一生懸命に増産に骨を折る、米を出せと言えば黙々としてこれを出す、自分の食糧をも省いて無条件に米を出している、農民は正直である、米を出せば戦争に勝つが、米を出さねば戦争に負ける、戦争に負けたなら出すも出さないもない、根こそぎ取られてしまうと説かるる、正直な農民は一途にこれを信じて米を出してきた、戦争に勝ちましたか、戦争に負けたではないか、政府は国民を騙したのである政府が農民を騙していながら、その農民に戦争の責任を負わせんとするのが幣原首相の態度である、その他一般の国民もまた然り、徴用工になれと言えば徴用工になる、挺身隊になれと言えば挺身隊になる、全国幾十万の学生生徒は大切な学業を中止してまで、直接間接に戦争のために働いてきた、それらの国民に何の責任があるのか、責任を負う者は別にあるが、それらの責任者に向かっては一指を染める事ができずに、一般の国民に向かって責任を負わせんとする幣原首相の考えはどこから出るのか、民主政治の確立、戦争の責任者、現内閣のなすところ、幣原首相のなすところは全く解し難い、この機会に所信を披瀝せられん事を望む」

 これに対する幣原首相の答弁。「戦争の責任は国民一般にあるとかいうような事のお話があったが、私はかような事を申した事はない、その不確実あるいは無根の事を新聞に出された事によって、私を攻撃する事は甚だ残念です、特定の政治家が戦争の責任があるかどうかという事を、政府として表明する事は適当な事ではないと考える、唯一般論としては、戦争責任者の追究について国民の間に血で血を洗うがごとき結果となるような方法に依る事は好ましくない、既に戦争責任者の一部については、連合国側に依って逮捕審問を受けつつある、その他の人々の中にも自ら責任を痛感し、自発的に公的の地位ないし社会的の地位より隠退しつつある向きも少なくない事はご承知の通りです、なお政府としてはかくの如き自発的に責任を痛感して隠退を決意せらるる向きに対しては、その方法を容易ならしむべく具体的措置を講ずる」 

戦争処理のための皇族内閣東久邇宮稔彦内閣の国民への戦争終結メッセージ「一億総ざんげ論」の一部を以下に紹介したい。

「……終戦(敗戦)の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日我々が徒に過去に遡って、誰を責め、何を咎める事もないのでありますが、前線銃後国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔をして神の前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の戒めと為し、心を新たにして、戦の日にも増して挙国一家乏しきを分ち、苦しきを労り、温き心に相援け、相携えて、各々其の本分に最善を尽くし、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進運を開くべきであると思います……」

 神聖天皇主権大日本帝国政府官僚は、「天皇制国体の護持」こそが戦後政治に参画する者の重要なる責務と考え、天皇制国体の最大危機を救う最後の切り札として、久邇宮朝彦親王の9男で、明治天皇の娘を夫人とする東久邇宮稔彦に組閣(1945年8月17日~10月5日)させた。内閣制度開始以来初の皇族内閣である。任務は、天皇制国体に対する国民の離反を防止し、占領に先立って支配体制の安定を作り上げておく事であり、占領軍が実施する非軍事化民主化の先回りをして、天皇制国体の完全復活を期するにあった。国民教育に対する期待も「新日本建設の教育方針」(文部省1945年8月15日)には「今後の教育は益々国体の護持に努る事」としていた。

(2018年11月14日投稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の戦争責任追及と下村定陸相の答弁

2024-04-14 19:03:53 | 斎藤隆夫

 1945(昭和20)年11月28日の第89回帝国議会衆議院本会議で、斎藤隆夫氏は下村定陸軍大臣に対し、「満州事変当時から軍人が政治に干渉し、この弊害を停止するところなく、ついに今回の非運を招いた。この際、軍の代表者たる者は、いかにして我が国に軍国主義が生まれたか、又何故にこれを抑圧する事ができなかったか、いかにして今回の戦争を導いたのであるか、について全国民理解を求めるために、一切の事情を説明する必要があると思う。軍部大臣と合い間見ゆる事は今回が最後と思われる故に、あえてこの機会に大臣の所見を聞きたい」と質問した。

 これに対して下村定陸相は、以下のように「申し訳ありませぬ」などの「お詫び」の「言葉」を発するだけで、具体的な説明を伴わないだけでなく狡猾で無責任な答弁であった。

「斎藤君の質問にお答えを致します。いわゆる軍国主義の発生につきましては、軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考え方が誤った事、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かった事、これが根本であると信じます。この事が中外の色々な情勢と複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、ある者は勢いに乗じまして、いわゆる独善的な横暴な処置をとった者があると信じます。殊に許すべからざる事は、軍の不当なる政治干渉であります。かような事が重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を国家にもたらしました事は、何とも申し訳がありませぬ。私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じてこの点につき全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。陸軍は解体を致します。過去の罪責に対しまして、私どもは今後事実を以てお詫びを申し上げる事、事実を以て罪を償う事ができませぬ。誠に残念でありますが、どうか、従来からの国民各位の御同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、ただ今斎藤君の御質問にもありましたように、純忠なる軍人の功績を、抹殺し去らない事、殊に幾多戦没の英霊に対して、深きご同情を賜らん事を、この際切にお願いいたします。軍国主義の発生の経緯、ならびに、それを抑制し得なかった理由などについて、この議会に開陳せよという斎藤君の御希望、誠に御最もであります。これには清朝の検討を要する事でございまして、私ども、もとよりその必要を感じておりますが、今議会中において斎藤君の御満足いきますように、具体的、詳細に申し上げられるかどうかはお約束ができませぬ」

下村定陸相は、初の皇族内閣となった東久邇宮稔彦首相が、1945年9月初めに「戦争終結を国民に知らせる演説(一億総ざんげ論)」を行った際、演説草稿に「敗戦」という言葉を見つけ、「終戦」としてほしいと注文を付けた人物である。

※軍人勅諭では、「……世論に惑わず 政治に拘らず……」と定められていた。

(2024年4月14日投稿)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天声人語」が触れた毛沢東の4害「ネズミ」で思い出した「731部隊」細菌兵器研究と大阪ペスト襲来

2024-04-14 09:24:35 | 新型コロナ感染症

 朝日新聞の2017年10月26日「天声人語」欄に、「1950年代、中国の全土でスズメ撲滅運動が起きた。当時の指導者だった毛沢東の指示により、ネズミ、ハエ、カと並ぶ「四害」とされた」との言葉を見て、ふと最近テレビ番組でも取り上げられたあの悪名高い日本のアウシュビッツともいわれる「731部隊」も「ネズミ」と関りが深かった事を思い出した。

●「731部隊」とは秘匿名で正式には「関東軍防疫給水部本部」(1940年12月2日)といい、ハルピン市の平房に秘密基地がつくられたのである。その部隊長・石井四郎(軍医中将)の名前をとって「石井部隊」とも呼ばれた。言葉通りに受け取れば「伝染病や風土病を予防し、無害の飲み水などを給付する」部隊という事であるが、実際の活動は対ソビエト戦に備えての大規模な細菌戦の研究と開発であった。

 細菌戦とは、人を殺すために様々な「ばい菌」を作ってばら撒く事である。人の命を救う事を使命とする医者でありながら、それを逆に利用したという事である。それも反満抗日運動をしていた中国人や、朝鮮人、ロシア人などを生体実験の材料としていたのである。

 日本敗戦の年には、「731部隊」はペスト菌の乾燥保存(乾燥菌製造)技術を開発し、通常ペスト菌の60倍の毒性を持つ変性菌をも産出していたという。また、ペスト菌霧化技術も進み、陶器爆弾も完成し、特別に生存力の強いネズミや、「最も効果的な吸血能力を持つノミ」の一種族が大量繁殖されていた。

 そして、1945年5月、石井部隊長は部隊幹部に対して「日ソ開戦は必至の情勢……これより731の総力を挙げて、細菌とノミ、ネズミの増産に突入する」という増産訓示をしたのである。

 元隊員の証言によれば「ペスト菌を中心に、井戸水や貯水池に投げ込むチフス菌、コレラ菌、河や牧場を汚染する脾脱疽菌を、向こう2カ月間に大量生産せよ、命令が下りてきたのが5月10日の事だった……細菌製造工場だったロ号棟1階勤務の柄沢班は増員され、24時間体制で生産に入った……その結果、ペスト菌だけで20㎏近く製造したと思う……貯蔵してあるものを含めると、乾燥菌を合わせ100㎏に達したのではないか」という。

 ペスト菌をネズミのノミを媒介にして拡散させるために、ネズミについては「300万匹増産」を目指す命令が下った。ネズミの捕獲のために「特攻隊」が組織され、隊員たちは大量の捕鼠器をトラックに積み込み、ハルピンや新京(長春)の各市街を回り、住民や中学生女学生たちを大々的なネズミ捕りに動員したようだ。731部隊は各支部はもちろん、庁舎、宿舎を問わず、高さ1㍍足らずの板囲いの中で、不寝番までつけてネズミ増産に狂奔したという。平房秘密基地周辺の村人にも1人当たり5匹の「ネズミ捕りの命令」が発せられ、捕まえなければ処罰されたという。

 散布・投下にも使用するペスト・ノミの増産目標は「300㎏」(約10億匹)とされたが、田中班には4500個のノミ飼育器があり、わずか数日間で1億匹のノミを確保できたという。

 元隊員の証言によれば、敗戦直前に使用可能な保存細菌は「もし全部を理想的な方法でばら撒けば地球上の人類はことごとく死んでしまう」ほどの量であったという。

 この増産計画は8月9日のソ連軍の対日参戦により成就できずに終わらざるを得なくなったというが、ナチスと同類の731部隊の一連の極悪非道の所業は二度と行ってはならない事であり、戦後に生まれた我々日本人も先祖の犯したその所業の罪深さを肝に命じ決して忘れてはならない

●大阪にペスト襲来について

 1899年には大阪に襲来しており、府下で161人が発病し、市内では153人のうち138人が死亡しているが、1904年暮れから1910年までの6年間、再び大阪で大流行した。ペスト菌がネズミのノミを媒介にして広まる事は1894年に北里柴三郎により究明されており、感染経路は明らかとなったが、死亡率は89%であった。患者は大阪市立桃山病院に運び込まれ、家族と隣接民家の住民は北区西梅田下島町(現福島区)の通称鼠島の消毒所へ隔離された。患者の出た町も広い範囲でトタン板で交通遮断し石灰のようなもので大消毒がなされた。治療の決め手はなく、リンパ腺を切り取り、衰弱するとブドウ酒に強心剤を混ぜて飲ませたという。

 ペスト菌の感染拡大を防ぐ方法も「ネズミ退治」しかなかったので、1904年11月25日から大阪市は、各交番を窓口にしてネズミ1匹を2銭で買い上げた。連日3000匹以上が持ち込まれ、感染地域が広がると買い上げ値段は値上げ(05年12月には1匹10銭)されていき、持ち込まれるネズミの量も5000匹を大きく上回った。当時1日20銭あれば大人の男は1日生活できた時代であったので、5匹も獲れると「すき焼き」をしたという。また、ネコを飼うのも流行り、どこの家でも最低2匹はいたという。ネコがネズミをくわえていると、人間がそれを横取りし交番へ走ったともいう。

 この大阪でのペスト大流行の時期は、ちょうど日露戦争旅順総攻撃、桂・タフト協定、ポーツマス条約、日比谷焼打ち事件、第2次日韓協約、朝鮮統監府開庁、ハーグ密使事件、第3次日韓協約、安重根による伊藤博文射殺、大逆事件、韓国併合(朝鮮植民地化)条約、朝鮮総督府開庁などの時期に当たる。

(2017年10月29日投稿)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする