図書館が予定では今月末まで閉館なので、借りっぱなしになっている俳句の本、少しずつ読んでいますが、ちょっとひっかかってしまいました。先に進めません。
それは、短夜の季語のところで、歳時記に「短夜」のところで載っていた俳句が、竹下しづの女の
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎
という俳句で、下句が「すてつちまをか」と読むのだそうです。読めるか!古文書でも、そんな風に読めるわけないじゃないですか、それをいとも簡単に疑問もなく、こう書いてしまっていては、納得できやしません。それは意訳をふりがなにしたってことですよね。
本を読むのって、こういうことされると、イライラしますが、どうなんでしょうか?ことに焉という字、部首もわからず、探すのに苦労しました。音読みでは「エン」、訓読みだと「いずくんぞ」、まあ漢文に出てくる漢字だとはわかります。それと、乎ですが、これも音読みはコ、オで、訓読みが、か、や。この下句「須可捨焉乎」は、「すべからく捨つるべきか」と読むそうです。それなら、まだわかります。
まあ、戦前なら、こういう文語的な文章は当たり前にあったのでしょう。それにしても、意訳をふりがなにできるとは、俳句の世界も、なんでもありってことなんですね。ただ、本来ならこういう読みをするということはすっ飛ばして、これだけを載せるのって、どうよと思いました!
もひとつ、乳ぜり、「ちぜり」と読むのですって。乳飲み子を「ちのみご」と読むのと同じことですね。