いくつか読んでもいない本を、なんとか整理しようと思っていたら、古本屋で買っていた池澤夏樹の「終わりと始まり」が出てきました。その時は、読もうと思っていたのに、すっかり本棚の片隅で眠らせてしまっていました。このエッセイ集は、朝日新聞に連載されていたものを本にしたもので、拾い読みしていて、このタイトルがポーランドの女性詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩から来ていることを知りました。本の最後に載っていたものをここに紹介します。まるで、今のウクライナの戦争そのもののようです。人類は、どうしてこのような惨禍を繰り返してしまうのでしょう。
終わりと始まり
戦争が終わるたびに
誰かが後片付けをしなければならない
物事がひとりでに
片づいてくれるわけではないのだから
誰かが瓦礫を道端に
押しやらなければならない
死体をいっぱい積んだ
荷車が通れるように
誰かがはまりこんで苦労しなければ
泥と灰の中に
長椅子のスプリングに
ガラスのかけらに
血まみれのぼろ布の中に
誰かが梁を運んで来なければならない
壁を支えるために
誰かが窓にガラスをはめ
ドアを戸口に据えつけなければ
それは写真うつりのいいものではないし
何年もの歳月が必要だ
カメラはすべてもう
別の戦争に出払っている
橋を作り直し
駅を新たに建てなければ
袖はまくりあげられて
ずたずたになるだろう
誰かがほうきを持ったまま
いまだに昔のことを思い出す
誰かがもぎ取られなかった首を振り
うなずきながら聞いている
しかし、すぐそばではもう
退屈した人たちが
そわそわし始めるだろう
誰かがときにはさらに
木の根元から
錆ついた論拠を掘り出し
ごみの山に運んでいくだろう
それがどういうことだったのか
知っていた人たちは
少ししか知らない人たちに
場所を譲らなければならない そして
少しよりももっと少ししか知らない人たちに
最後にはほとんど何も知らない人たちに
原因と結果を
覆って茂る草むらに
誰かが寝そべって
穂を噛みながら
雲に見とれなければならない (沼野充義訳)
だから、私は本はなるべく図書館で借りて、どうしても必要と思った本だけ買いますが、それもできるだけアマゾンは使いません。あそこは定価じゃなくて、それこそ足元見て定価以上の値段をふっかけてきますからね。
近所のリサイクルショップは、家電はただなら引き取るという感じでした。古着は重さで決めるようですから、なおさらお金になりませんね。商品は、買った時にその価値のほとんどが消えていくと思った方がいいのかもしれません。買って満足するのは、そういうことなのかも。