(冒頭写真は、2020.07.26朝日新聞内全面広告より引用したもの。)
5日前にも同じシリーズの広告を紹介した。
その回のテーマは「ジム(ランニング)」だったが、我が現在一番に入れ込んでいる趣味のため筆がスムーズにすらすら進んだ。
今回のテーマは180度転換して、我が一番苦手(というよりも、もっと積極的に“嫌い”)な料理だ。
そんな我が料理嫌いな実態を綴った2008.08.17公開バックナンバー「料理嫌いな女」の一部を、以下に引用させていただこう。
自信を持って言うが、私は料理がとことん嫌いだ。
料理が“苦手”と表現するならばまだしも可愛げもあろうが、“嫌い”と明言する程の真正の料理嫌いである。
なぜ私が長い期間独身を通したのかと言うと、本当のところは人様に料理を作って「どうぞ、召し上がれ。」などという、背中がむず痒くなるような殊勝な心がけを一切持ち合わせていないためと言っても過言ではない。
(男性の皆さん、私を嫁にもらわなくて大正解でしたね!!)
私がなぜ料理が嫌いなのかと言うと、その第一の理由は料理に費やす時間がもったいなくてしょうがないのだ。
独身時代は特に、やるべき事をいつもいつも山ほど抱えている私にとって、基本的に料理に費やす時間はない。私の生活における料理の優先順位は最下位であった。
かと言って食べる方は大好きなのである。自分で料理を作らない分、外で食べ歩いたり出来合いの料理を買い込んだりして食べたものだ。独身貴族の身でグルメ三昧の日々を送り、舌だけは十分に肥えている。
料理が嫌いなもうひとつの理由は、基本的に私は破壊的思考よりも建設的思考を好むためでもあると自己分析している。
私にとっての料理とは、食材を撒き散らし油を飛ばし、周辺をギトギトに汚染し破壊していく行為なのである。この汚染と破壊が耐えられない。 そのため、私が料理を作ると一動作毎に掃除、片付け作業が入る。至って効率が悪いのだが、周囲を汚染したまま次のステップにはどうしても移れないのだ。
私は見合い結婚だが、お見合い時にこの“料理嫌い”については公約事項として名言した。そして、現在の連れ合いはそれを承諾した上で成婚に至っている。
ところが蓋を開けてみれば、この公約はすっかりどこかに吹っ飛んでいて料理をぞっこん依存される日々である。結局は恐るべき“飯炊き女”の日々が待ち構えていたのである。 (中略)
料理が“苦手”と表現するならばまだしも可愛げもあろうが、“嫌い”と明言する程の真正の料理嫌いである。
なぜ私が長い期間独身を通したのかと言うと、本当のところは人様に料理を作って「どうぞ、召し上がれ。」などという、背中がむず痒くなるような殊勝な心がけを一切持ち合わせていないためと言っても過言ではない。
(男性の皆さん、私を嫁にもらわなくて大正解でしたね!!)
私がなぜ料理が嫌いなのかと言うと、その第一の理由は料理に費やす時間がもったいなくてしょうがないのだ。
独身時代は特に、やるべき事をいつもいつも山ほど抱えている私にとって、基本的に料理に費やす時間はない。私の生活における料理の優先順位は最下位であった。
かと言って食べる方は大好きなのである。自分で料理を作らない分、外で食べ歩いたり出来合いの料理を買い込んだりして食べたものだ。独身貴族の身でグルメ三昧の日々を送り、舌だけは十分に肥えている。
料理が嫌いなもうひとつの理由は、基本的に私は破壊的思考よりも建設的思考を好むためでもあると自己分析している。
私にとっての料理とは、食材を撒き散らし油を飛ばし、周辺をギトギトに汚染し破壊していく行為なのである。この汚染と破壊が耐えられない。 そのため、私が料理を作ると一動作毎に掃除、片付け作業が入る。至って効率が悪いのだが、周囲を汚染したまま次のステップにはどうしても移れないのだ。
私は見合い結婚だが、お見合い時にこの“料理嫌い”については公約事項として名言した。そして、現在の連れ合いはそれを承諾した上で成婚に至っている。
ところが蓋を開けてみれば、この公約はすっかりどこかに吹っ飛んでいて料理をぞっこん依存される日々である。結局は恐るべき“飯炊き女”の日々が待ち構えていたのである。 (中略)
特に亭主の長期休暇等で1日3食“飯炊き女”の負荷を課せられ続けると、私の内部に料理ストレスがどんどんと蓄積してくる。そしてこれが許容量を超えると爆発してしまうのだ。 昨夜、ついにこの大爆発を起こしてしまった。子どもも呆れる大バトルを亭主と展開してしまった。
お盆休みも後、今日1日の我慢だ。何とか持ちこたえよう。
料理嫌いの母(私のこと)にとってもっと気に食わないのは、子どもへの愛情を料理(母の手料理)で測ろうとする社会風潮だ。
子どもの保育所入園の際の面談で、「好きな食べ物は何ですか?」との質問が来た。想定内ではあるのだが、私にとっては嫌悪感を抱かされる質問である。子どもが「スモークサーモン」と無邪気に答えたところ、「お母さんの手料理の中から答えてね。」と来た。父子家庭等への配慮にも欠ける発言である。「その言葉、待った!!」と印籠をかざして抗議したいところではあるが、何とか抑えた。結局はこの保育所の旧態依然とした権威主義的体質が我が家の教育方針と相容れず、子どもを入園させなかったのだが。
もちろん、私なりの食教育は子どもに対し日々行なっている。栄養バランスの重要性、摂取カロリーの適正性の維持、そして子どもの体調、体型の管理に関しては厳しい母である。その成果もあり、子どもは今のところ健康で理想的な体型を維持し続けている。
そうは言っても、世間の大多数の人々の理想はやはり“料理好きな”女性であろうなあ。その気持ちはわかるよ。
だって、この私も料理好きな奥様が欲しいくらいだもの。
お盆休みも後、今日1日の我慢だ。何とか持ちこたえよう。
料理嫌いの母(私のこと)にとってもっと気に食わないのは、子どもへの愛情を料理(母の手料理)で測ろうとする社会風潮だ。
子どもの保育所入園の際の面談で、「好きな食べ物は何ですか?」との質問が来た。想定内ではあるのだが、私にとっては嫌悪感を抱かされる質問である。子どもが「スモークサーモン」と無邪気に答えたところ、「お母さんの手料理の中から答えてね。」と来た。父子家庭等への配慮にも欠ける発言である。「その言葉、待った!!」と印籠をかざして抗議したいところではあるが、何とか抑えた。結局はこの保育所の旧態依然とした権威主義的体質が我が家の教育方針と相容れず、子どもを入園させなかったのだが。
もちろん、私なりの食教育は子どもに対し日々行なっている。栄養バランスの重要性、摂取カロリーの適正性の維持、そして子どもの体調、体型の管理に関しては厳しい母である。その成果もあり、子どもは今のところ健康で理想的な体型を維持し続けている。
そうは言っても、世間の大多数の人々の理想はやはり“料理好きな”女性であろうなあ。その気持ちはわかるよ。
だって、この私も料理好きな奥様が欲しいくらいだもの。
(以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)
このエッセイは反響が大きく沢山のコメントを頂戴したが、その中の一つ、某男性より頂いたコメントとそれに対する我が返答の一部を紹介しよう。
料理を相当嫌っておられるご様子ですね。
原さんのお母さんはお料理はどうだったんですか?
私の料理観としては、特に女性がするべき仕事と決める必要は無く、夫婦間でその役割をどちらかが担えばよいと思います。勿論交互でも可。 (以下略)
〇〇さん、理想的な旦那様でいらっしゃいますね! (原左都子)
原さんのお母さんはお料理はどうだったんですか?
私の料理観としては、特に女性がするべき仕事と決める必要は無く、夫婦間でその役割をどちらかが担えばよいと思います。勿論交互でも可。 (以下略)
〇〇さん、理想的な旦那様でいらっしゃいますね! (原左都子)
〇〇さんがおっ察しの通り、これは母の影響力と育て方が大きいのです。
私の母は定年までフルタイムで働いた人間なのですが、家庭での食事の支度は祖母が主に担当していましたので、私は小さい頃に母が台所に立つ姿をほとんど見ずに育っています。
そして、母は娘(私と姉)に対し“奥様”になることよりも職業人として自立することを望んでおりました。結婚など二の次でよいと考えていた人です。まさにそれを実践し、私は独身が長かったのです。
やはり、親の背中や考え方の影響力は大きいですね。
そして、母は娘(私と姉)に対し“奥様”になることよりも職業人として自立することを望んでおりました。結婚など二の次でよいと考えていた人です。まさにそれを実践し、私は独身が長かったのです。
やはり、親の背中や考え方の影響力は大きいですね。
(以上、コメント欄より一部を引用したもの。)
この我が実母に関してだが。
我が中3時に祖父母の家を出て、親子3人暮らしになった。(姉は本人の希望で祖父母宅に残った。) そうなると、自ずと母が3度の飯の支度を担当するようになるのだが。
実母に関して言うとやはり料理嫌いだが、手先が器用なのと味のセンスが良くて出来上がった料理はいつも美味しかった。
ところが、この実母の究極悪い癖とは。
台所で料理を作りながら、私が近くにいるといつも「歯痒い! 歯痒い!」を繰り返しながら料理作りをしたものだ。 要するに、(私は仕事をしているしこんなことしたくもないのに何で私一人がせっせと作らねばならないんだ!!)と無意識に私に訴えて来たのだ! (ならばそれを家族に直に訴え出て、たとえば娘の私にも料理を手伝わせる等の方策が取れたであろうに、そんな改革心が実母には一切無かった。)
その行為は決して父の前ではしなかった。 要するに暗に私に甘えての言動なのだが…
この実母の悪癖は、私が上京した後に帰省した際にも続いた。 やはり台所に立ちながら、私が近くにいると「歯痒い!!」を繰り返しながら料理を作った。 これを聞かされるのが嫌で嫌で、帰省しても娘と二人でホテルにて宿泊し外食する習慣となったとも言える。 (そんな我が心境を、実母は本気で未だに知らない…。酒好きの私が旧友達と会合していたと信じている。)
こんな反面教師の愚かな実母は、同じく料理嫌いな私に「教訓」を残してくれた。
それこそが、表題の「手抜きの中にどうやって“愛”を入れ込むか?」である。
要するに嫌々ながら料理を作っていいが、決してそれを周囲に暴露しない! との鉄則だ。
冒頭の広告は、「本当は自分が笑顔でやれる範囲のことを、ほどほどにやるくらいがちょうどいい」との結論に達しているようだが。
私に言わせてもらうに、「ほどほどにやる」はよしとして。 人間とは、嫌いな事を決して笑顔ではやれないものだ!! それは勘弁して欲しい!
我が結論としては。
「笑顔でやれずとて、手抜きの中にも“嫌い”との気持ちを隠しおおす“思いやり”」こそが肝心要なのではなかろうか?