夜遅くなったが。
昨日のPopular entries top 10にランクインしていた冒頭標題の我がエッセイ集2012.01.11付バックナンバーを以下に再掲載させて頂こう。
原左都子が 藤原和博氏 の姿をメディア上で見るのは久しぶりの事である。
皆さんは、藤原和博氏という人物が過去に義務教育現場において如何なる“過ち”をしでかして、一時その名を轟かせたのかについてご記憶であろうか?
今を遡ること4年前の「原左都子エッセイ集」2008年1月のバックナンバーに於いて、「杉並区立和田中学の悪あがき」 と題した記事を私は公開している。
当時民間出身者として一公立中学の校長をごく一時のみ務めただけの存在の藤原氏が、何を思い違いしたのか、義務教育現場の教育責任者としてあるまじき“悪あがき行動”を展開したことに許し難い感情を抱いた私は、それを取り上げ厳しくバッシングした。
上記バックナンバー「杉並区立和田中学の悪あがき」を以下に要約しつつ、藤原氏が当時展開した“悪あがき”について振り返ってみることにしよう。
杉並区立和田中学は妙なことで全国的に名を轟かせてしまった。
この“騒動”の詳細をご存知ない方のために復習すると、区立和田中学校はその名の通り公立の中学校であるにもかかわらず、民間の大手進学塾と提携して一部の“成績上位”在校生のみを対象に学校を開放し、「夜スペ」と称する夜間塾を開講したのである。 開講の趣旨は“成績上位者の学力をさらに伸ばす”ところにあるらしい。
一公立中学のこの奇妙な行動に対し、当然ながら東京都教育委員会は「公教育の観点から疑義がある」として「待った」をかけ、いったん実施は延期された。 ところが都教委も意志薄弱で、結局杉並区教育委員会からの「学校教育外の活動」との回答を容認してしまい、名目上主催者を学校ではない「学校支援地域本部」として2008年1月26日の開講と相なった、といういきさつである。
“騒動”の実質的な仕掛け人は、民間企業㈱リクルート出身の和田中学校長の藤原和博氏である。 現在一部の公立学校で流行っているらしい民間企業出身の校長という訳だ。 ははあ、売名行為かな? と勘ぐりたくもなる。 民間出身校長の評判は賛否両論分かれているが、民間出身者にとって公的機関は居心地のよい職場とは言えないのではなかろうか。(私自身も民間企業、公立学校両者を経験しているため、それが多少理解できる。) 事実過去において複数の民間出身学校長の自殺者も出ているくらいだ。 あくまで私見であるが、そんな肩身の狭い立場におかれている中、リクルート出身の藤原校長はご自身の居場所を作るために何とか自己PRを試みようと“悪あがき”したのではなかろうか? あるいは、藤原校長とその大手進学塾との間に何らかの癒着でもあるのかとも勘ぐりたくなる。
この「夜スペ」とやら、一応月謝は取るらしい。ただし、民間の塾の正規の授業料の半額程度であるとのことだが。
和田中学の「夜スペ」賛同派の保護者の言い分を要約すると、「成績不振者には補習等の実施により手厚い保護をしてきているのに対し、成績上位者には何の手立てもしない。そんな成績上位者のために最後の助けとして夜スペを開講したのだ。」とのことである。
ならば、何も大手進学塾と提携せずとて和田中学の教師による「補習」でよかったんじゃないの? あるいはご自身の子どもさんが“成績上位者”であることを自負する保護者の方々、そんなに塾がお好きならば半額などとせせこましい事を言ってないで、正規の授業料を払って個々に子どもさんを民間の塾に入れてあげたらそれで済む話ではないのか? 実際、和田中の生徒の中にもこの「夜スペ」を利用せずとも既に個人的に塾通いしている生徒は少数ではないであろう。その人たちとの公平性はどのように考えているのか? とにもかくにもこの話、外部者が聞くと腑に落ちない点が多い。
反対派からも様々な声が上がっている。「単に塾の宣伝に利用されている。」「地域本部がやることなら何でも許されるなら、区教委は要らないのではないのか」等々…。
朝日新聞夕刊の千葉大教授の論評を紹介しよう。「学校とは本来、格差を是正するところ。学校が進学塾を認めて外部委託するなら公教育の将来はない。学校の役割と家庭や地域のやるべきことは何なのかを考えるよいチャンスだ。」
私論でまとめるが、そもそも“成績上位者”“成績優秀者”って何だろう。 そこから考え直すべきではなかろうか。
私にとってこの議論がどうも腑に落ちないのは、“進学”という概念に社会全体が囚われ過ぎているところに問題があるという考え方からである。 子どもにとって人間にとって“いい学校へ行くこと”がそれ程すばらしいことなのであろうか? 本エッセイ集“教育・学校カテゴリー”バックナンバーをお読みいただければ一目瞭然であるが、私は偏差値偏重教育に感化され過ぎている現状の社会を嘆き続けている。 人間の目的とは決して“いい学校へいくこと”ではなく、心豊かに暮らすことではないのか。 科学、学問、文化等に触れる中で一人ひとりがそれを人生の糧とし、労働に結びつけ、生きることのすばらしさを見出し、心豊かな人生を送ることが人間の目標ではないのか。 そのためには、子どもの頃に“学習”をすることはもちろん不可欠ではある。
小中高における公教育の役割とは決して“優等生”の輩出ではなく、学習する意欲の育成であると私は考える。 学習する意欲が身についていれば、子ども(人間)は一生に渡り自主的に知識を習得していくものである。 指導者とはそんな子どもを見守りつつそのサポートをするのが役割であると私は考える。
子どもに対し、学習に取り組ませる餌として目先にある“進学(とりわけ「いい学校」への)”だけを示すという短絡的で貧弱な発想ではなく、大人側がもっとグローバルな視野で公教育を展開できないものなのか…。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーを引用要約)
引用が長引き恐縮だが、2008年当時は我が子も中学生であり“お抱え家庭教師”の私は、上記のごとくの“我が教育理念”に基づき日々子どもの指導に励んでいた時期であった。
さて、その後まもなく藤原和博氏はわずか5年間の和田中学の校長職を終えて義務教育現場を去った後、橋下大阪府知事の特別顧問職も経験しているようだ。 (原左都子に言わせてもらうと、“世を騒がせた”という事以外の両人の共通項がよう分からんのだが… “世を騒がせ”て売名した人物が政治にかかわるという短絡的な図式も受け入れ難いしねえ…)
加えて、藤原氏は教育関連の著書数冊を世に出している模様である。(題名のみ拝見して論評するのも失礼な話だが、その程度の題名の著書ならば原左都子に任せてもらえた方がほよど面白いものが書けるかも、な~~んて勝手に言っていようね~。)
そして2012年1月8日朝日新聞“求人広告欄”に於いて、「僕は『正解主義』と闘う」 との記事をドでかい写真付(一見 さだまさし かと思ったよ!)で公開しているのを原左都子が見かけたという訳だ。
その記事の内容とは、私に言わせてもらうと特段目新しくもなく今時の教育一般論の範疇を何ら超えていない貧弱なものなのだが、ここでかいつまんで紹介しよう。
これからの教育とは、もう成長社会が終わったことを心せねばならない。 若い世代の人たちに意識して欲しいのは、親や先生に「言われ続けた通り努力すれば人生は安定する」との考えでは成功ができない時代であるという事だ。 かつては小中高そして大学でそれを叩き込まれてきたが、本来皆にとっての正解などある訳はない。 記憶力が良くて頭の回転が速い人が優秀だという「正解主義」が未だに教育界に蔓延しているのを、何とか僕が崩したい。 若者よ、自分の頭と心で物事を考えよう。
藤原氏と原左都子はどうも同年の生まれのようだ。
で、藤原さんて東大卒であられるようだけど、貴方は小中高大学とそんな貧弱な教育をずっと受けて来られたのであろうか???
過疎地の田舎育ちの私とてその種の教育を受けてきた記憶もあるが、元々天邪鬼で“アウトサイダー的資質”が強靭だった私など、そんな馬鹿げた公教育のお陰で、大いなる“反発エネルギー”を自己の内面に育成しつつ成長して大人になったような気がする。
藤原さんは記憶力がよくて頭の回転が速かったのだろうが、私も一応そんな子どもだったと自覚している事は認めるよ。 でも私が藤原さんと違うのは、大人になって自立せねばならない段階に達して以降は、“優等生”へったくれの取るに足りない事を前面に出してこの世を渡って来た訳ではないと自己分析するところだ。
結局、藤原さんとは何だかんだ言いつつもあなた自身の“優等生”気質が未だに抜け去らないからこそ、公立の和田中学で“優等生”を特別扱いするべく“悪あがき”しただけなんじゃないの? その後大阪の橋下さんになびいたのも、その延長線上に過ぎないように私は捉えるのだが…
実に失礼な事は承知の上で、繰り返すが藤原氏の「正解主義と闘う」議論とは今となっては陳腐な一般教育論であるとしか言いようがない。
私など子どもの頃からずっとその発想の下で自ら勉学に励み、社会人として自立して以降もその観点で後進者達と接して来ているつもりなんだけど…。
皆さんは、藤原和博氏という人物が過去に義務教育現場において如何なる“過ち”をしでかして、一時その名を轟かせたのかについてご記憶であろうか?
今を遡ること4年前の「原左都子エッセイ集」2008年1月のバックナンバーに於いて、「杉並区立和田中学の悪あがき」 と題した記事を私は公開している。
当時民間出身者として一公立中学の校長をごく一時のみ務めただけの存在の藤原氏が、何を思い違いしたのか、義務教育現場の教育責任者としてあるまじき“悪あがき行動”を展開したことに許し難い感情を抱いた私は、それを取り上げ厳しくバッシングした。
上記バックナンバー「杉並区立和田中学の悪あがき」を以下に要約しつつ、藤原氏が当時展開した“悪あがき”について振り返ってみることにしよう。
杉並区立和田中学は妙なことで全国的に名を轟かせてしまった。
この“騒動”の詳細をご存知ない方のために復習すると、区立和田中学校はその名の通り公立の中学校であるにもかかわらず、民間の大手進学塾と提携して一部の“成績上位”在校生のみを対象に学校を開放し、「夜スペ」と称する夜間塾を開講したのである。 開講の趣旨は“成績上位者の学力をさらに伸ばす”ところにあるらしい。
一公立中学のこの奇妙な行動に対し、当然ながら東京都教育委員会は「公教育の観点から疑義がある」として「待った」をかけ、いったん実施は延期された。 ところが都教委も意志薄弱で、結局杉並区教育委員会からの「学校教育外の活動」との回答を容認してしまい、名目上主催者を学校ではない「学校支援地域本部」として2008年1月26日の開講と相なった、といういきさつである。
“騒動”の実質的な仕掛け人は、民間企業㈱リクルート出身の和田中学校長の藤原和博氏である。 現在一部の公立学校で流行っているらしい民間企業出身の校長という訳だ。 ははあ、売名行為かな? と勘ぐりたくもなる。 民間出身校長の評判は賛否両論分かれているが、民間出身者にとって公的機関は居心地のよい職場とは言えないのではなかろうか。(私自身も民間企業、公立学校両者を経験しているため、それが多少理解できる。) 事実過去において複数の民間出身学校長の自殺者も出ているくらいだ。 あくまで私見であるが、そんな肩身の狭い立場におかれている中、リクルート出身の藤原校長はご自身の居場所を作るために何とか自己PRを試みようと“悪あがき”したのではなかろうか? あるいは、藤原校長とその大手進学塾との間に何らかの癒着でもあるのかとも勘ぐりたくなる。
この「夜スペ」とやら、一応月謝は取るらしい。ただし、民間の塾の正規の授業料の半額程度であるとのことだが。
和田中学の「夜スペ」賛同派の保護者の言い分を要約すると、「成績不振者には補習等の実施により手厚い保護をしてきているのに対し、成績上位者には何の手立てもしない。そんな成績上位者のために最後の助けとして夜スペを開講したのだ。」とのことである。
ならば、何も大手進学塾と提携せずとて和田中学の教師による「補習」でよかったんじゃないの? あるいはご自身の子どもさんが“成績上位者”であることを自負する保護者の方々、そんなに塾がお好きならば半額などとせせこましい事を言ってないで、正規の授業料を払って個々に子どもさんを民間の塾に入れてあげたらそれで済む話ではないのか? 実際、和田中の生徒の中にもこの「夜スペ」を利用せずとも既に個人的に塾通いしている生徒は少数ではないであろう。その人たちとの公平性はどのように考えているのか? とにもかくにもこの話、外部者が聞くと腑に落ちない点が多い。
反対派からも様々な声が上がっている。「単に塾の宣伝に利用されている。」「地域本部がやることなら何でも許されるなら、区教委は要らないのではないのか」等々…。
朝日新聞夕刊の千葉大教授の論評を紹介しよう。「学校とは本来、格差を是正するところ。学校が進学塾を認めて外部委託するなら公教育の将来はない。学校の役割と家庭や地域のやるべきことは何なのかを考えるよいチャンスだ。」
私論でまとめるが、そもそも“成績上位者”“成績優秀者”って何だろう。 そこから考え直すべきではなかろうか。
私にとってこの議論がどうも腑に落ちないのは、“進学”という概念に社会全体が囚われ過ぎているところに問題があるという考え方からである。 子どもにとって人間にとって“いい学校へ行くこと”がそれ程すばらしいことなのであろうか? 本エッセイ集“教育・学校カテゴリー”バックナンバーをお読みいただければ一目瞭然であるが、私は偏差値偏重教育に感化され過ぎている現状の社会を嘆き続けている。 人間の目的とは決して“いい学校へいくこと”ではなく、心豊かに暮らすことではないのか。 科学、学問、文化等に触れる中で一人ひとりがそれを人生の糧とし、労働に結びつけ、生きることのすばらしさを見出し、心豊かな人生を送ることが人間の目標ではないのか。 そのためには、子どもの頃に“学習”をすることはもちろん不可欠ではある。
小中高における公教育の役割とは決して“優等生”の輩出ではなく、学習する意欲の育成であると私は考える。 学習する意欲が身についていれば、子ども(人間)は一生に渡り自主的に知識を習得していくものである。 指導者とはそんな子どもを見守りつつそのサポートをするのが役割であると私は考える。
子どもに対し、学習に取り組ませる餌として目先にある“進学(とりわけ「いい学校」への)”だけを示すという短絡的で貧弱な発想ではなく、大人側がもっとグローバルな視野で公教育を展開できないものなのか…。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーを引用要約)
引用が長引き恐縮だが、2008年当時は我が子も中学生であり“お抱え家庭教師”の私は、上記のごとくの“我が教育理念”に基づき日々子どもの指導に励んでいた時期であった。
さて、その後まもなく藤原和博氏はわずか5年間の和田中学の校長職を終えて義務教育現場を去った後、橋下大阪府知事の特別顧問職も経験しているようだ。 (原左都子に言わせてもらうと、“世を騒がせた”という事以外の両人の共通項がよう分からんのだが… “世を騒がせ”て売名した人物が政治にかかわるという短絡的な図式も受け入れ難いしねえ…)
加えて、藤原氏は教育関連の著書数冊を世に出している模様である。(題名のみ拝見して論評するのも失礼な話だが、その程度の題名の著書ならば原左都子に任せてもらえた方がほよど面白いものが書けるかも、な~~んて勝手に言っていようね~。)
そして2012年1月8日朝日新聞“求人広告欄”に於いて、「僕は『正解主義』と闘う」 との記事をドでかい写真付(一見 さだまさし かと思ったよ!)で公開しているのを原左都子が見かけたという訳だ。
その記事の内容とは、私に言わせてもらうと特段目新しくもなく今時の教育一般論の範疇を何ら超えていない貧弱なものなのだが、ここでかいつまんで紹介しよう。
これからの教育とは、もう成長社会が終わったことを心せねばならない。 若い世代の人たちに意識して欲しいのは、親や先生に「言われ続けた通り努力すれば人生は安定する」との考えでは成功ができない時代であるという事だ。 かつては小中高そして大学でそれを叩き込まれてきたが、本来皆にとっての正解などある訳はない。 記憶力が良くて頭の回転が速い人が優秀だという「正解主義」が未だに教育界に蔓延しているのを、何とか僕が崩したい。 若者よ、自分の頭と心で物事を考えよう。
藤原氏と原左都子はどうも同年の生まれのようだ。
で、藤原さんて東大卒であられるようだけど、貴方は小中高大学とそんな貧弱な教育をずっと受けて来られたのであろうか???
過疎地の田舎育ちの私とてその種の教育を受けてきた記憶もあるが、元々天邪鬼で“アウトサイダー的資質”が強靭だった私など、そんな馬鹿げた公教育のお陰で、大いなる“反発エネルギー”を自己の内面に育成しつつ成長して大人になったような気がする。
藤原さんは記憶力がよくて頭の回転が速かったのだろうが、私も一応そんな子どもだったと自覚している事は認めるよ。 でも私が藤原さんと違うのは、大人になって自立せねばならない段階に達して以降は、“優等生”へったくれの取るに足りない事を前面に出してこの世を渡って来た訳ではないと自己分析するところだ。
結局、藤原さんとは何だかんだ言いつつもあなた自身の“優等生”気質が未だに抜け去らないからこそ、公立の和田中学で“優等生”を特別扱いするべく“悪あがき”しただけなんじゃないの? その後大阪の橋下さんになびいたのも、その延長線上に過ぎないように私は捉えるのだが…
実に失礼な事は承知の上で、繰り返すが藤原氏の「正解主義と闘う」議論とは今となっては陳腐な一般教育論であるとしか言いようがない。
私など子どもの頃からずっとその発想の下で自ら勉学に励み、社会人として自立して以降もその観点で後進者達と接して来ているつもりなんだけど…。
(以上、本エッセイ集2012.01付バックナンバーを再掲載したもの。)
2021.04 現在。
上記原左都子の持論に、何の異論も変更も無い故に。
追加するべく論述も無し! と結論付けておこう。