原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

子ども達って、学校が好きなんだね…

2020年03月26日 | 教育・学校
 新型コロナウィルス騒動感染拡大を防ぐ目的で、一部を除き全国津々浦々の学校が「休校」措置を余儀なくされているが。


 朝日新聞2020.03.22内に、「休校中 どうしてる?」と題する記事があった。

 それを読んで、私がつくづく思ったのは。
 表題の通り、「子ども達って、学校が好きなんだね…」である。

 上記朝日新聞記事より、ごく一部を引用しよう。

  〇 「どこにも行く所ない」と来校
 東京都内公立中学校の3年生担任の男子教諭は、休校後も毎日学校に出て、休校延長時の対応、卒業式のやり方等々、いくつもの準備に追われた。
 仕事をしていると、生徒達が「どこも行くとこない」とちょこちょこ学校に顔を出す。 「こんなに居場所がないんだと思った」と教諭は言う。 同時に、学校が居場所の子が予想以上に多いこととも感じたようだ。
 球技大会等の学校行事が次々と中止になった。 卒業したら高校もバラバラになるから、集まりたいという子どももいる。 校長が「校庭でなら遊んでいい」と解放してくれて、ぽつぽつと来た生徒達と教諭も一緒にスポーツを楽しんだ。
 「本当は家庭に居場所があるのが子どもには一番だとは思う」と教諭。
 「でも、大人も日々頑張り過ぎているから、余裕が持てない。 この休校で日本社会のあり方を考え直したら、子どもの居場所も出来るのでは。」と話した。

  〇 「眠れなくなった」
 片道30分の徒歩通学や体育がなくなり、エネルギーの使い所がなく、夜中に何度も目が覚めてきつい。 自宅でちょこちょこ動くくらいでは足りない。 友人とは面倒なので連絡をとっていない。 (中三 女子)


 私事に入ろう。

 バックナンバーにて再三記載しているが、とにかく徹底して「学校嫌い」の原左都子だ! (いえいえ「学問の府」である大学・大学院は好きだった。 特に2度目の大学・大学院では積極的に自分でカリキュラムを組み、専攻外の学問分野までにも視野を広げ、学び倒したものだ。)

 もしもこの私が未だ子どもで、今回の“新型コロナウィルス措置”に遭遇し学校休校に直面していたならば、如何に転んだだろう??

 何分、幼稚園時代から「集団嫌い」だった。 幼稚園も義務感で通った記憶がある私(幼い頃より真面目で律儀な性分であるため、とにかく嫌でも通った。)にして、もしも休園になったとしても何ら困惑しなかったような気もする。
 その当時から父母が共働きだったため、帰宅後は一人で過ごしたのだろうか? 今となっては記憶が定かではないが、家にはしっかり者で頼りになる“おばあちゃん”が居てくれたため、何不自由なく安心して日々を送ったことしか思い出せない。 
 (参考だが私には姉がいるのだが、その当時から仲が良かった記憶も無い。 おそらく別々に過ごしたのだろう。)

 小学生になっても、似たようなものだ。
 とにかく帰宅後は誰に指示されるでもなく、一番に学校の“宿題”を片付けた。 そんなの“お茶の子さいさい”ですぐに出来上がってしまい、その後は近くの子達と遊んだり、近所の駄菓子屋へ一人で行って小遣いから好きなものを買った記憶がある。 (その小遣いを“貯める”ということを子どもの頃から志向し、実行していた事実もバックナンバーにて披露している。)
 加えて、私は子どもの頃より“一人遊び”(と言うよりも、“一人創作”“一人思考”)を愛好していた記憶もある。  例えば、当時「紙で作る“着せ替え人形”」が流行っていた。 学習机の引出しの一つをその“着せ替え人形部屋”にして、洋服やバッグ等の小物類はもちろんのこと、ベッドや机等の家具まで手作りして楽しんでいた。  あるいは、小学校3,4年頃には“家屋の部屋のレイアウト”に凝ったこともあり、一人で間取りを考えてはある程度正確に作図して遊んだりもした。 さすがにいつも子どもを放ったらかしの我が親どもも、その作図を見て「この子、将来建築士にでも成りたいのだろうか??」と思ったようだ。 

 中学生時代は、様相が大きく変化した。
 部活動としてブラスバンド部(過去に全国優勝を果たしている程歴史ある部活だった)を選択した私は、放課後は毎日、土日にもその活動を頑張ったため、平日は親どもよりも帰宅が遅かったし、ほとんど家を留守にしていた。  もしもその頃に学校が休校措置を執ったとしても、おそらく高校受験に向けて頑張っていた時期のため、さほどの弊害は無かった事だろう。

 高校も遠距離通学だったのに加え、大学受験のためたとえ休校措置が執られても、何ら変わらぬ日々だったことだろう。


 その後時が流れ大きく時代が変遷し、底辺高校(失礼な表現をお詫びします)に高校教諭として勤務した私だが。 幸いな事に、学校好き・教員好きな子ども達と十分に接する事が叶ったため、そんな子ども達の思いも重々理解可能だ。😪 


 時代が核家族化へと急激に移りゆき、過去の私のように傍らで見守ってくれる祖母の存在すら珍しい時代へと成り果てているのだろう。
 
 学校に救いを求める子ども達…
 何とも“不憫な”思いもあるが。
 どうかこんな健気な子ども達のために、学校現場は最大限尽力して欲しいものだ。

本日から東京都のコロナ感染者数が急激に増えた事実に関する我が憶測

2020年03月25日 | 時事論評
 本エッセイ集バックナンバーに於いて、何故大都市東京の“新型コロナウィルス肺炎感染者数”が有意に少ないのかに関して幾度か述べている。


 要するに、「安倍政権による隠蔽工作」と私はずっと憶測していた。

 何故、安倍首相を筆頭として安倍政権は隠蔽工作を執っていたのか?
 それは、特に2020東京五輪開催首謀者であった安倍首相が、つい最近まで何が何でも予定通り東京五輪を今夏の開催とせんと企んでいたからに他ならないだろう。

 ところが昨夜安倍氏とIOCとの会合により、東京五輪開催は「1年後の夏」とほぼ決定した。 (あくまでも現時点での話であり、それまでに尚コロナウィルスが猛威を振るっている場合は、また見直しが行われるであろうが…)


 以下に今朝見たネット情報より、東京都の感染者数が急激に増えた事実に関する情報を引用しよう。

 国内では24日、新たに71人の新型コロナウイルス感染が確認され、感染者はクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客乗員を含め1920人になった。クルーズ船を除いて1日に確認された感染者数としては最も多い。都は70代男性が死亡したと発表、死者は53人となった。 
 各自治体によると、都道府県別の新たな感染者は東京17人、大阪8人、埼玉7人、神奈川6人、茨城、兵庫各5人、岐阜、愛知、福岡各3人、栃木、群馬、山梨、京都各2人、北海道、千葉、新潟、長野、大分、沖縄各1人。 
 都道府県別ではこれまで北海道が最多だったが、東京都が171人に増えて最も多くなった。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 更に、先程みたネット情報を要約して引用しよう。

  【ベルリン時事】 日本の新型コロナウイルスの感染者数が統計上は先進国中で圧倒的に少ないことをめぐり、感染が急増中の欧米のメディアは、日本は検査不足で実態が反映されていないのか、それとも感染抑止で「健闘」しているのか注視し始めた。 一方、世界保健機関(WHO)は単純に検査数で是非を判定するのには慎重な姿勢だ。
 独誌ウィルトシャフツウォッヘ(電子版)は21日、「日本のコロナの謎」という記事を掲載。 欧州と違い多くの店舗が開いているのに、日本の感染者数は少ないと指摘。 検査数の少なさへの批判と、疑いが強い例に絞り効率的に検査をしているとの両論を併記した。
 米通信社ブルームバーグも、検査数の少なさを指摘しつつ、検査数が多いイタリアより致死率が低いことも紹介。 握手やハグの少なさ、手洗い習慣などを肯定的な要素として挙げた。
 英オックスフォード大研究者らのデータベース「アワー・ワールド・イン・データ」が不完全としつつ公開している統計によると、英時間20日までの集計では、日本のPCR検査件数は約1万5000件と、韓国の31万件超、イタリアの20万件超と比べて大幅に少ない。
 ただ、WHO幹部のマリア・ファンケルクホーフェ氏は23日の記者会見で、日本の検査数の少なさを問われ、「インフルエンザなど既存の疾患発見の仕組み」が機能しており、新型ウイルス検査の前に別の疾患が判明する場合もあると回答。 検査徹底が最重要とする一方、検査数に表れない対策もあるとの認識を示した。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 私見だが。

 我が国に於いて、新型コロナウィルス感染に際するPCR検査が未だに進展しないのは、(安倍政権による隠蔽工作と並行して)医療現場での患者受け入れ容量が大幅に不足している事が大きな理由、ともメディア情報にて見聞している。
 確かにイタリアのごとく、早期より国民にPCR検査を徹底したのは良かったものの、多数の陽性患者がその直後から医療機関へ押し寄せたがばかりに“医療崩壊”が起こり、多数の死者を出さざるを得ない、との不幸な結末にならんとも限らないであろう。

 新型コロナウィルスの場合、発症者が死に至るのが高齢者や持病がある患者に有意に高い確率である事実に関しては、既に世界規模で証明されているとも考えられる。

 ただ、やはり「正確な情報」公開こそが新型コロナウィルス早期収束への正当な道程ではなかろうか?
 ここは、東京五輪もほぼ1年後の夏開催にとりあえず決定したことを受けて。
 とにかく今後しばらくは、安倍政権も新型コロナウィルス収束を主たる政権の課題と位置づけ、「正確な情報」を国民に公開しつつ、本気で国民の命を守らんと尽力することに期待したい。      

森友問題自殺職員妻氏メモ 「安倍・麻生さんは調査される側」 おっしゃる通り!

2020年03月24日 | 時事論評
 冒頭より、表題の件に関するネット情報を引用しよう。


 学校法人「森友学園」の国有地売却問題を担当し20218年3月に自殺した財務省近畿財務局職員赤木俊夫さん=当時(54)=の妻は23日、決裁文書の改ざんは佐川宣寿元国税庁長官(62)の指示だったとする夫の手記を公表し提訴したのに、安倍晋三首相や麻生太郎財務相が再調査をしない意向を示したことに抗議する自筆メモなどを、代理人弁護士を通じて公表した。
 メモでは「安倍首相は17年2月17日の国会発言で改ざんが始まる原因をつくりました」と指摘し、麻生氏については墓参りに来てほしいと伝えたのに「国会で私の言葉をねじ曲げました」と批判。 「この二人は調査される側で、再調査しないと発言する立場ではないと思います」とした。
 さらにこの日、安倍首相と麻生氏が参院予算委員会で、改めて再調査を拒否する答弁をしたことに対し「夫が生きていたら悔しくて泣いている」と抗議するメッセージも公表。 再調査については「何を言われても何度も実施を訴えたい」とし、第三者委員会の立ち上げを要求した。
 弁護士は二十三日、大阪市内で記者会見し、赤木さんの自殺はパワーハラスメントの側面があると指摘。パワハラ自殺が起きた企業では第三者委を立ち上げて検証することが標準になっているとし「国が(再調査を)やらないのは非常に問題だ」と訴えた。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 その後昨日3月23日午後になり、午前中行われた安倍氏及び麻生氏の誠意の欠片も無い国会答弁を受け、今一度妻氏がコメントを発表している。
 以下に、一部を要約引用させていただこう。

 安倍氏、麻生氏は、調査報告書と遺書も齟齬が無いと言うが、齟齬はある。 齟齬が無いと言う理由を明確にして頂きたい。
 再調査をしないとのことだが、何を言われても何度も再調査の実施を訴えたい。 財務省の中の人が再調査をしても同じ結論になる。 是非、第三者委員会を立ち上げて欲しい。 このままうやむやにされるとすれば、夫の遺志が全く果たされない。
 弔問に関しては、麻生氏が裁判を理由に弔問を断るのはおかしい。 夫の墓参りはいつでも出来るはず。 もし麻生氏が私と会って頂けるならば、是非ともお話を伺いたい。
 (以上、妻氏により昨日午後再び提出されたコメントより一部を引用。)

 
 私見に入ろう。

 私も昨日午前中に、この件で国会答弁の質問に立った社民党・福島氏と麻生氏・安倍氏のやり取りの一部をテレビ中継にて見た。

 いつものことだが安倍氏も麻生氏も、何故あれ程までに誠意無く頑なまでに当該事案を一貫して否定してかかるのだろう?
 「最強の第三者委員会と言われる検察が捜査をした結果が、佐川局長の不起訴処分として既に出ている。」
 「首相(自分の事)を守るために指示をした事実は財務省調査報告書に全く認められていない。」
 「財務省が報告書をまとめている。 佐川氏の国会答弁との整合性を合わせる上で改ざんされたと承知している。」
 (以上、安倍氏及び麻生氏の質問への答弁を朝日新聞記事より一部抜粋したもの。)

 私も昨日これらの答弁を聞いていて、実に腹立たしかった。 😡 
 安倍氏や麻生氏は、その回答こそが返って不自然さがあることに気付かないのだろうか??

 今回の自殺職員妻氏よりの「森友文書改ざん再検証訴訟」の真の目的とは。
 原左都子が簡単に説明するならば、真犯人は安倍首相でありその側近達であることが、既に国民達の間でバレバレなのよ。
 佐川氏に関しては、あなたたちに無理矢理犯人に仕立てらたか、あるいは“忖度”したかは私が知るところではないが、要するにあなたたちの圧力により犯人に仕立てられるのに素直に(あるいは圧力に耐えきれず)従っただけなのだ。

 それを一番の被害者である自殺職員の妻氏が、勇気を振り絞って訴訟に持ち込み、今一度国民皆の前で「真実」を突き止めようと志しておられるのだ!
 その気持ちまでも平然と踏みにじろうとするあなたたちが、国家トップの立場で今後一体何を目指したいのか私には理解不能だ…。 


 それにしても安倍氏も麻生氏も、冷静に考えて欲しい。
 そうやって自らの権力を死守したところで、あなたたちは必ずや近い将来政権から消え失せていく立場だ。 消え去った後、清々して生きられるのならば相当の悪党だが。 
 意思高き国民からは皆後ろ指を指し続けられるであろう。 あるいは、誰でもいいから選挙であなたたちに投票していた国民からも、あなたたちの事などとっとと忘れ去られるものだよ。

 どうせそうであるならば、ここは思い切って今こそ真摯に訴訟を受けて立ち素直に“調査される側”に回った方が、あなたたちの後々の余生が少しでも有意義なものとなりそうにも思うのだが…。

 老婆心ながらのアドバイスだ。

素人の立場からの意見・コメントも貴重だと思うが…

2020年03月23日 | 時事論評
 今朝方、以下のネット情報を発見した。 冒頭より当該情報の一部を引用しよう。


 「林修氏が新型コロナ問題でワイドショーを批判 TV報道はどうあるべきか」
  2020年03月22日 17時40分 

 新型コロナウイルス関連の報道が続く中、10日放送の『林修の今でしょ! 講座』(テレビ朝日系)では、林修氏によるワイドショー批判が行われた。 今回、TV報道はどのような役割を担ったのだろうか。
 ■林氏のTV報道批判
林氏は「テレビ観てるとねぇ、素人がネットで聞きかじった情報であーだこーだ言って、あの時間みんなムダなんですよ。感染症の専門の方の意見だけが聞きたい」と言っている。
新型コロナ報道で一部から批判も寄せられている、同じテレビ朝日系列の『モーニングショー』への批判ではないかとも言われるのだ。
 ■比較に基づく冷静なやり取り
林氏は感染症の専門家である堀賢教授に「昨年のインフルエンザの死者数と比較したとき、新型コロナウイルスはそれほど恐ろしいのか?」と質問。
さらに、「ここまでいろんな経済活動を止めてまで恐れなければならない病気なのか」との問いに、堀教授は「日本においてはそれほど怖くないというのは正しい」と回答した。
つまり「致死率がそれほど高くないので、世界的に流行してきている風邪のようなもの」であると。
 ■足を引っ張るワイドショー
林氏はインフルと比較しており、なおかつ経済的リスクにも視野が及んでいるのだ。新型コロナそのものにおける最大の危機は「医療崩壊」にあることがイタリアなどの事例で明らかになっている。
PCR検査を促すことはまさしく医療崩壊につながりかねない。経済的リスクも含めあらゆる観点からして、冷静さを促すのがマスメディアの使命だろう。
それを「正しく恐れる」という有名なフレーズが表すのであり、連日のワイドショーによって不安を煽るTV報道は最も足を引っ張ったといえる。
 ■TV報道のあり方
林氏は、まさしくその点においてワイドショーを批判しているのだ。Twitter黎明期で情報が凝縮されていた3.11時と比べても、トイレットペーパー騒動に見られるように、SNSも今となっては弱点の一部。パニックを抑えることこそが肝要だ。
冷静さを保とうとしている1つのワイドショーをとりあげれば、 TBS系列の『ゴゴスマ』は、PCR検査を煽っていた医療ジャーナリストの森田豊氏の登板を3月9日以来ほとんどなくし、代わりに冷静な解説をする医師の後藤礼司氏の登板を増やしているようである。
 ■よい専門家とは何か
森田豊氏も医者なのではあるが、ジャーナリストの肩書きが政治的発言を促すのかもしれない。一方で、医者の肩書きのみの場合は専門の範囲を超えない冷静なコメントになりがちだ。
しかし後藤医師のコメントは経済や政治にも考えが及んでいるようにみえる。林氏もそうであるように、経済への深い知見を持ちながらのコメントが重要だ。
ジャーナリストでは広く浅い知見での不安を煽るコメントになりがちだが、ある程度広く深い知見でのコメントこそが重要なのである。
 ■リードするSNSメディア
TV報道が足を引っ張ったならば、今回活躍したのはなんだろうか。有益な情報はWeb上で多く発信された。
SNSは弱点でもあるが同時に強力なツールでもあったのだ。世界的な困難にはさまざまな深い知見を融合しなければならない。福祉政策論の分野では、このようにアイディアが力を持つ政策過程を言説政治という。
同様にSNSから発信される知見は大いに新型コロナ問題の展望を示していた。ワイドショーが信頼されるには広く深い知見を持つ専門家をSNSからいっそうに積極的にとり入れる必要があるだろう。

 (以上、今朝方見たネット情報の一部を引用したもの。)


 私は本エッセイ集に於いて、2018.11.20付で 「『プロ』と『素人』をそれ程“線引き・区別”せねばならないか?」 と題するバックナンバーを公開している。

 その一部を、以下に再掲載させていただこう。

 今回のエッセイは、決して上記フリージャーナリスト安田氏の言動に関する議論を提示しようとするものではなく、あくまでも表題の通り「プロと素人間の線引き」に対する私論を述べる趣旨である。
 何故本日、その私論を述べようと志したのかと言うと。
 2,3日前に、某プロのジャーナリストによるフリージャーナリスト安田氏の行動に関して、「素人がつべこべいうのは間違っている、云々…」の趣旨文面を発見したからに他ならない。
 そのコピーを取り忘れた、と言うよりも。 その後日数が経過するにつれ、その文面を思い出しては何だか“腹立たしさ”が煽られるのだ。
 と言うのも当「原左都子エッセイ集」など、まさに一ド素人がド素人の立場で私論オピニオンを羅列した文集に過ぎない。(いえいえ、中には自分の専門に基づき念入りに内容を検証・監修した上で公開しているエッセイも少なくないのだが。)
 上記ネット文面は、あくまでも“ツイッター”等々ネット上のSNS類に記載されている“素人文面”をやり玉に挙げていたのではあるが。
 そうだとしても今のネット時代に於いては、米国のトランプ大統領とてツイッターで好き放題暴言を吐いている。 日本の国会議員とてFacebook登録したり、やはりツイッター等で安易な見解を述べたりしているじゃないか!?
 そんな現代の時代背景下に於いて、何故素人(要するに“一般人”という事なのだろう)がそれを真似ることを、プロの立場から全面否定されねばならないんだ!?!

 事のついでに、現在“フリージャーナリスト安田氏問題”が“素人間で”如何に議論されているかを紹介すると。 (以下に、本日朝ネット上でたまたま発見した文章の一部を引用する。
 安田純平氏開放を自己責任論で叩くのは賛否両論ありますが、ジャーナリストの評価は真実を如何に正確に報道しているか、虚偽の情報は含まれていないのかを常に疑われる訳であって、安田氏の取材は欧米のジャーナリストであれば当然の事だと、どんな評価されるべき作業であるそうです( ̄▽ ̄)b
 (以上、ネット上より一素人氏が公開したと思しき文面より引用したもの。)
 エッセイの本題からズレるが、ここで原左都子自身の安田氏に関する“感覚”(あくまでも“感覚”範疇であり、私見と言えるまでの意思を含有していないことを断っておく)を少しだけ述べさせて頂こう。
 安田氏が開放されて帰国した直後に安田氏の実父母がメディア会見に応じた現場での発言に、大いなる違和感を抱かされた。 未だ何らの開放背景も把握されていない状況下に於いて、私が安田氏の親ならばまずは「国民の皆さん、息子が迷惑をお掛けしたことをお詫びします。」と開口一番に謝罪したであろう。
 ところが、安田氏実父母氏達のインタビュー内容は大いに違った。 特に母親氏は「今まで本当に辛かった…」と言うなりメディア報道の目前で目頭を押さえたのだ。
 片や安田氏ご本人は、帰国直後の長~~い記者会見の中で明瞭に自己の責任論を述べた。 要するに、今回の事件は“自己責任範疇だ”と認めた、と私は解釈している。
 その後、安田氏がすっかりメディアに姿を見せなくなっている。 今現在安田氏ご本人が何を考え、プロのジャーナリストとして如何なる将来像を描いているのか、残念ながら測り知れない。
 などとド素人の立場で自分の“感覚”を無責任に述べたりしたものならば、上記のプロジャーナリスト氏より再び「素人は黙れ!」なるバッシングを受けるのかなあ。

 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を再掲載したもの。)


 最後に、私見だが。

 林修氏と言えば過去に大学受験予備校にて、予備校生相手に受験対策授業を行っていた人物と認識している。
 受験予備校講師の使命とは、予備校生を大学に合格させるに尽きるであろう。
 その業を全うするに当たり、両者間に於いて「議論」や「話し合い」へったくれなど何ら必要なかった事であろう。

 上記テレビ内での林氏の発言とは、要するに「素人は出しゃばるな! 黙れ”」と要約出来そうだが…
 上記予備校講師を経験した人物として、“素人(生徒)にものを言わせない!” 業務経験が身に染み入っている立場からの発言なのだろうか??? 


 私も日頃テレビ番組ワイドショーにて、林氏がおっしゃるところの“素人が聞きかじりのくだらない発言”をしている場面を見る機会がある。
 あれ、番組側の方針として、敢えてそうしていると私は捉えているのだが。
 特に“新型コロナウイルス感染”等対象事象の“専門性”が高い場合、いきなり専門家がその分野のうんちくを述べるよりも、その場面を入れた方が素人視聴者も理解し易いのではないか、と私は判断している。

 林氏がおっしゃるところの、「ある程度広く深い知見でのコメントこそが重要」に関しては、もちろんその通りであろう。
 ただテレビ視聴者のレベルを勘案した場合、まずそのレベルに合わせた番組作りをすることも肝要ではなかろうか?

 特に、現在世界を席巻している“新型コロナウィルス事案”のような場合、その専門家である医学者とて初めて体験する事態だ。 
 そんな医学者にとって「広く深い知見」を得るには、素人の疑問こそが大きな問題提起になり得るとも考えられないだろうか。

 林修さん、どうでしょうか??              

日本人の平均身長の伸びは40年前から止まっている!

2020年03月22日 | 医学・医療・介護
 (冒頭写真は、原左都子小5時の学芸会にて撮影したもの。 右端の白いスカートが私。 幼稚園時よりこの頃までずっとクラス女子内で一番高身長だった。)


 バックナンバーにても幾度が記述しているが、私は産まれながらに身長が高い。

 身長の伸び方も人それぞれだ。
 例えば私のように一生に渡ってほぼずっと高い人間もいれば。  第二次成長期以降頃にぐ~~~~~~~ん!! と伸びた人もいるだろう。

 後者に関しては羨望の存在だったものだ。
 中学校2年生頃から急激に伸びた女子にはどうしても叶わなかった。  当時“奥手”と呼ばれている彼女達にどれだけ追越されたことか。
 我が身長は最盛期より少し縮んで現在165㎝程だが、“奥手”の彼女達は当時優に170㎝を超えたことだろう。


 この身長だが、それを決定づけるのは遺伝子が8割だと言われている。  要するに、身長は遺伝するものと考えてよいだろう。
 実に面白いことに、我が父系の従姉妹女子4名(我が姉も含めて)が165㎝と同身長だ。 付け加えると、美人で名高いのも我が父系従姉妹女子の特徴でもある。
 (参考のため、父系従姉妹女子の中で一番美人度が低いのはこの私だと自覚している…😭   私以外は若かりし頃にミスコン優勝したり、長身美女を活かした職業に就いていた時代がある。 まあただ、一番頭がいいのはやっぱりこの私かな??? 一人で言ってよう、っと。😝 ) 
 
 ところが、我が父は決して身長が高くなかった。 父の話によれば、父系の曾祖父が明治生まれ世代にして身長が180㎝を超えていたらしい。 その遺伝かもしれない、との父生前の談話だ。


 さて、朝日新聞2020.03.21付別刷「be」 “サザエさんを探して”の今回のテーマが「日本人の身長 伸びが止まってはや40年」 だった。

 そんなに早い時期に我が国の平均身長の伸びが止まったのか??  と少し意外な気もするが。
 40年前と言えば、私が20代半ばの頃だ。

 確かに40年前までの我が国に於いて、“もはや戦後ではない”と言われた昭和30年生まれの我が年代も含め、それ以降の子ども達の身長が破竹の勢いで伸びていた記憶がある。

 私が新卒で東京本社の医学関連企業に新卒就職した際の記憶によれば。
 就職直後期に、労働組合系団体か何処かの大規模組織主催の新卒歓迎行事(おそらく“東京体育館”か何処かで催された)に招待されたことがある。
 その大会場内で、小学生団体が出場しブラスバンド演奏やそれに合わせたバトントワラー女子達の演技を観賞させていただいた。
 その時の小学生女子達の体型の素晴らしさを見て、私は唸った記憶があるのだ。  
 我が時代にも、確かに子ども達の体型が急成長しているとの情報はあった。
 ただ、あれ程皆が揃ってバツグンの体型を目指せるべく時代には程遠かった記憶がある。 

 何故、あの時代背景下に於いて、我が国の子ども達の高身長化がもたらされたのか?
 朝日新聞記事の分析によれば、日本の食料事情が劇的に改善した時期と重なるとのことだ。 その原点となるのが、小児期、中でも成長速度が速い2歳ぐらいまでの栄養状態など環境要因が大きい。 と専門家は語っているようだが。

 そうだとして、その環境要因はその後更に進化しているかに思えるにもかかわらず、何故我が国に於ける平均身長の伸びが止まってしまっているのだろう?

 サザエさん筆者の朝日新聞女性記者氏の分析によれば。 
 その背景に、現在の女性の「やせ願望」があるとみているようだが…


 最後に、原左都子の私見に入ろう。

 そうではない気もする。
 身長の伸びが40年間止まっているのは、やはり“黄色人種”が元々持って生まれているDNA素質によるものではなかろうか??
 我が分析によれば、放っておいたらぶくぶくと肥満体質へ移行し不健全なメタボ人生を歩むよりは。  ジムへ通いストレッチをして、ランニングに励む方がよほど健全であることには間違いなかろう。 (もちろん、極度に誤りのある「やせ願望」は補正するべきだが。)


 DNAとは“揺るぎない存在”であろうと私は捉えている。
 そんなバックグラウンドがあるにもかかわらず、我々日本人が40年前の時代に、劇的に身長を伸ばした快挙こそを喜ぶべきではなかろうか。

 この私など、諸外国を旅する都度…
 特に欧米を訪れた際に私よりも身長が低い女性達に遭遇すると、心密かに“優越感”を感じてしまうのだが… 😷