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私の戦争体験 13 へそ曲がり

2007年11月24日 13時02分42秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
もし、「本土決戦」が行われていたら

 この部分は以前に単独に投稿したものですが、必要上ここに再録しました。理由は後から述べます。

「本土決戦」とはどういうものであったか?国民の前にはどんな運命が待っていただろうか。戦争があと半年・1年続いていたらどうなっていたかということです。それは「狂気」の時代でした。
 
 1945年6月、連合軍には「沖縄戦」以後の作戦計画が出来上がっていました。「ダウン・フォール」作戦と呼ばれています。
 作戦は2つに分かれていました。1つは45年11月に九州へ上陸するという「オリンピック作戦」、もう1つは46年3月に関東平野に上陸して日本を分断するという「コロネット作戦」です。

 一方、日本側はこのことを知っていました。対抗する作戦を「決号作戦」と名付けていました。国民には「本土決戦」・「一億総特攻」・「一億玉砕」というスローガンが呼び掛けられました。

 具体的にはどんな対策だったか。その一部を紹介します。
 
 45年6月に「義勇兵役法」が制定されました。「国民皆兵」です。終戦の2か月前でした。中を見ると「勅令」という言葉がやたら目立ちます天皇の命令ということです。
 何しろ《人間の姿をした神様》の命令ですから、拒否すれば罰則が付きます。

“七条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ処ス
 2 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ処ス”
現実性が全くない。1年も2年も続くと思ったのでしょうか?しかも全土が戦場です。。どこへ収容するのか?
 全員が「軍人」であるから、「陸軍刑法」を適用されて「死刑」判決を受け、その場で「銃殺」されたのではないかと思います。

 大本営陸軍部は「国民抗戦必携」という小冊子を配布していました。そこでは国民が用意すべき武器が書かれています。
「刀剣、槍、竹槍、鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口」などなど。
 出刃包丁を手に、槍ぶすまのように並んだ機関銃や火炎放射器、さらには戦車に向かって突撃していく姿を想像してください。地獄です。 
 
  司馬遼太郎という作家がいます。彼は当時戦車隊長として連合軍の上陸に備えていました。ある時、彼は上司に尋ねました。“戦車が進んで行けば、道路で避難してくる人にぶつかって前へ進めなくなるが、そんな時、どうすればよいか?”。返事は“轢き殺して構わない”とのことでした。これが[軍隊が国民を守る]という現実です。
 
 特攻攻撃機としては「剣」甲型(キー115)や「タ号特別攻撃機」の生産を急がせていました。主翼以外の材料は鋼管、ブリキ、ベニヤ板などの簡単に手に入るもので作られました。1回使えばよいのです。離陸したら車輪が脱落してしまうようになっていました。着陸など必要が無かったからです。操縦性は最悪で、とても扱い切れるものではなく、実用化のための改修中に終戦となりました。
 
 海軍も考えました。潜水服を着用した兵士を海中に忍ばせ、棒の先に爆薬を装備し、進攻してきた敵の上陸用舟艇を下から突き、自分もろとも爆破させようとする作戦です。爆雷の数発も投下されたら全滅です。
 
 なお、作戦決行の前に、足手纏いになる赤子・幼児・老人などは「殺害」する計画もありました。45年4月に大本営陸軍部が出した「国土決戦教令」に明記されています。
“「敵ハ住民,婦女,老幼ヲ先頭二立テテ前進シ我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ 斯カル場合我ガ同胞ハ己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ敵兵撃滅二楕拷スベカラズ”
「青酸カリ」を飲ませるのです。私の町内ではそれが配られるのを見ています。その時は分からなかったのですが、大人になってから分りました。

 こんな作戦が真面目に検討されました。「一億玉砕」だから、国民の命はどうでもいいのです。「民族抹殺作戦」です。

 一方、どうしても守らなくてはならないものがいました。「神」です。
「神」とその家族は長野県の「松代」に移すことになっていました。大本営の高級将校もそこへ移ることになっていました。「松代大本営」と呼ばれていました。
 完成のために多くの朝鮮人などが酷使された。もし、完成していたら彼らの運命はどうなっていただろうか?秘密を守るために殺されていたでしょう。

 
 これは決して架空の話ではありません。戦争があと半年・1年と続いていたらこうなった筈です。私など、1946年以前に生まれていた人は今日、全員生きてはいませんね。それ以後に生まれた人は・・・・生まれている筈がありません。

 ところで、それより以前に戦争を終わらせることは出来なかっただろうか?出来たという主張もあります。
 
 44年6月、「マリアナ沖海戦」がありました。この戦いで連合艦隊は壊滅的な敗北を受けました。戦闘能力を失ったのです。
 兵器の差だけではなく、技量の差も大きかったのです。戦闘機の操縦についても、空母からの発艦は出来ても着艦が出来ないというような低下した技量になっていました。
 米軍機の撃墜3機に対し、撃墜された数は200機以上でした。「マリアナ沖の七面鳥狩り」と言われたほどの惨敗でした。
  一方、中国戦線は泥沼状態でした。見通しはまったくなかったのです。

 直後に、「近衛文麿」が「昭和天皇」に「降伏の上奏」をしたと言われています。但し、国民のことを思ってではなく、内乱(革命)が起こって「天皇制」が崩壊することを怖れたということです。しかし、天皇はこれを拒絶したのです。
 もし、この時降伏していたらその後の「沖縄戦」はなかったし、「東京大空襲」もなかったし、「広島・長崎への原爆投下」もなかったのです。太平洋戦争での死者のうち、大部分はこの海戦以後です。終戦の時は自分の力で終わらせたと言っていた「昭和天皇」です。としたら、この時なぜ命令しなかったのか?
 よく言われる話しです。これでも、戦前・戦中の時代が良かったと言う人ちがいるのです。事実を知らない人が多いのです。こんな国に絶対に戻してはなりません!。


「本土決戦」・・・「ポツダム宣言受諾」・・・「東京裁判」・・・「日本国憲法」・・・「サンフランシスコ条約」、これらはすべて一本の太い糸で結ばれているものであって、どれひとつを切り離しても戦前・戦後史を理解することは出来ません。
 この「本土決戦」を国民に命令した上級士官たちはどういう責任をとるもりだったのか。「東京裁判」にはいくつかの問題があるとはいえ、国民には「死ね!!」と命じながら、自分は敵に逮捕されるという無様な姿をさらけ出しました。さらには、隠された日本軍の野蛮な行為が暴露されたことを見ただけでも、この「東京裁判」は良かったと評価されるのです。
 ここで明らかにされた日本軍の数々の残虐行為を知らずにいたら、日本人は世界の物笑いにされたことでしょう。それでも隠しておいた方がよかったのでしょうか。
 
 ところが、このブログに登場する「改憲論者」は「東京裁判」・「日本国憲法」には悪罵を投げかけ、相手がそれに応えようともしないと罵ります。応えていてもです。そのくせ、「本土決戦」については一言も述べようとはしません。こちらが何度尋ねても態度をハッキリさせない沈黙を続けているだけです。
 そのくせ、歴史は連続性のあるものだと主張してきます。くどいようですが、だったら、これも連続してみたらどうでしょう。連続性とは時間の長さだけではなく、内容についても言えることです。「本土決戦」を切り離したら、全てが歪んで見えてしまうことになります。
 彼は、自分や自分の家族だけが助かりたい、またそれが出来ると思い込んでいるのでしょう。これこそ「自虐」ではなく「他虐」という、彼らしいもっとも卑劣な態度であると断言します。
 答えるつもりなら一言だけで十分です。“あなたは「本土決戦」を受け入れますか?”他の余計な言い訳は一切いりません。(これで何度目になるやら)
 
 
  
コメント (8)
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