学童疎開
空襲があった後、学校ごと「疎開」という引っ越しをしました。子どもは邪魔であるということと、食糧が足りないからというのが理由だったようです。
親戚などを頼って個人的に引っ越しする子もいました。こちらを「縁故疎開」、学校ごと「疎開」することを「集団疎開」と呼んでいました。
私の場合は「集団疎開」でした。三重県の一志郡のある村ですが、この村へ分散して生活するわけです。学校は現地の学校に入るのですが、ここではひどい目に遭いました。
四男の兄が入れ替わりに卒業して名古屋に帰ったのですが、これがどうも相当な「いじめっ子」だったらしい。“〇〇の弟がやってきやがった”ということで、今度は私がひどい虐めに遭いました。
惨めだったのは、近くの寺の本堂で一斉に食べる食事です。少ない量なのに、それを上級生が“少しちょうだいね”と言って、入れ替わり立ち替わりに取っていってしまう。しまいには一口分しか残りません。
すぐそばに先生がいたのですが、何も言ってくれません。知っていた筈だと今でも思っています。
もっと惨めだったのは、親たちが時々日用品や食べ物を持って見舞いに来た時のことです。全員の親が来るのではないのです。見舞い品を持ってこられる家だけです。
3間か4間続きの部屋の真ん中に親が車座になり、横に座った自分の子に持ってきたものを食べさせる、食糧難の時代ですからわれわれに呉れるはずがありません。
来てもらえなかった子たちは空腹のまま外へ行くのです。見たくはないからです。
夜は最も悲惨です。彼らは見舞い品の食べ物がなくなるまで、連日のように車座になってパーティーを開きます。
リーダーが“乾杯!!”と叫び、一口ごとにわれわれに見せびらかしながら食べるのです。
われわれは壁を背にして座ったままそれを見ているのです。仲間入りの出来なかった6年生の上級生が“見るな!見るな!”と囁くように怒鳴るので、パーティーが終わるまで、じっと下を向いたまま過ごすのです。
4年生に荻野君という子がいました。いじめられっ子だったのか、よく上級生に殴られていましたが、この子がよく私を庇ってくれました。
先生の居室には「乾パン」の入った箱がいっぱいあったそうです。配ってもらった記憶は全くありません。
彼は先生の部屋へ忍び込んでいくつかを盗んでくるのです。私の手を引いて近くの畑の中に入り、そこで食べさせてくれました。こうやって、少しではありますが、飢えを凌いだものです。
私の様子を知ったのか、母が迎えに来てくれました。
しばらく名古屋にいた後、島根県の母の実家へ姉と疎開しました。ここで終戦を迎えています。ここでもいやな体験をしています。
田舎の分校で1学年1学級編成だったのですが、ある日、学級に「雨合羽」が3着支給されたのです。籤引きの結果、1着が私に当たったのです。雨降りの日にはわらで作った「ミノ」を被って通学していた私にとって、これは天にも昇るような嬉しい気持ちでした。
とたんにクラスの子たちから抗議が出されたのです。曰く“町から来たばかりの者が貰って、前からいたものが貰えないのはおかしい。”ということです。
1着分について直ちにやり直しになりました。私はくじ引きにも参加出来ないのです。【よそ者】という扱いだっのです。このような仕打ちを度々受けました。
戦争は人間の心をこんなふうに歪めてしまうのです。これも思い出したくない出来事のひとつです。
(本土決戦に続く)
空襲があった後、学校ごと「疎開」という引っ越しをしました。子どもは邪魔であるということと、食糧が足りないからというのが理由だったようです。
親戚などを頼って個人的に引っ越しする子もいました。こちらを「縁故疎開」、学校ごと「疎開」することを「集団疎開」と呼んでいました。
私の場合は「集団疎開」でした。三重県の一志郡のある村ですが、この村へ分散して生活するわけです。学校は現地の学校に入るのですが、ここではひどい目に遭いました。
四男の兄が入れ替わりに卒業して名古屋に帰ったのですが、これがどうも相当な「いじめっ子」だったらしい。“〇〇の弟がやってきやがった”ということで、今度は私がひどい虐めに遭いました。
惨めだったのは、近くの寺の本堂で一斉に食べる食事です。少ない量なのに、それを上級生が“少しちょうだいね”と言って、入れ替わり立ち替わりに取っていってしまう。しまいには一口分しか残りません。
すぐそばに先生がいたのですが、何も言ってくれません。知っていた筈だと今でも思っています。
もっと惨めだったのは、親たちが時々日用品や食べ物を持って見舞いに来た時のことです。全員の親が来るのではないのです。見舞い品を持ってこられる家だけです。
3間か4間続きの部屋の真ん中に親が車座になり、横に座った自分の子に持ってきたものを食べさせる、食糧難の時代ですからわれわれに呉れるはずがありません。
来てもらえなかった子たちは空腹のまま外へ行くのです。見たくはないからです。
夜は最も悲惨です。彼らは見舞い品の食べ物がなくなるまで、連日のように車座になってパーティーを開きます。
リーダーが“乾杯!!”と叫び、一口ごとにわれわれに見せびらかしながら食べるのです。
われわれは壁を背にして座ったままそれを見ているのです。仲間入りの出来なかった6年生の上級生が“見るな!見るな!”と囁くように怒鳴るので、パーティーが終わるまで、じっと下を向いたまま過ごすのです。
4年生に荻野君という子がいました。いじめられっ子だったのか、よく上級生に殴られていましたが、この子がよく私を庇ってくれました。
先生の居室には「乾パン」の入った箱がいっぱいあったそうです。配ってもらった記憶は全くありません。
彼は先生の部屋へ忍び込んでいくつかを盗んでくるのです。私の手を引いて近くの畑の中に入り、そこで食べさせてくれました。こうやって、少しではありますが、飢えを凌いだものです。
私の様子を知ったのか、母が迎えに来てくれました。
しばらく名古屋にいた後、島根県の母の実家へ姉と疎開しました。ここで終戦を迎えています。ここでもいやな体験をしています。
田舎の分校で1学年1学級編成だったのですが、ある日、学級に「雨合羽」が3着支給されたのです。籤引きの結果、1着が私に当たったのです。雨降りの日にはわらで作った「ミノ」を被って通学していた私にとって、これは天にも昇るような嬉しい気持ちでした。
とたんにクラスの子たちから抗議が出されたのです。曰く“町から来たばかりの者が貰って、前からいたものが貰えないのはおかしい。”ということです。
1着分について直ちにやり直しになりました。私はくじ引きにも参加出来ないのです。【よそ者】という扱いだっのです。このような仕打ちを度々受けました。
戦争は人間の心をこんなふうに歪めてしまうのです。これも思い出したくない出来事のひとつです。
(本土決戦に続く)