隔週発行のスポーツグラフィック「ナンバー」最新号に、大分トリニータ監督・シャムスカの5ページ読み物があった。その面白いこと!! ここのところ2回ばかりシャムスカに触れてきた僕としては、早速ここに要約紹介したいと思い立った。
43歳とまだ若いのに既に劇画を読んでいるような経歴を持った、実に夢のある興味深い人物なのである。ブラジル時代から始まっていたその成功談は、世界サッカー界の立志伝中の人物への大成功途上にあるような人、そんな風格、エピソードに事欠かない。大分には失礼ながら、このチームの器にはとても納まりきるような監督ではないと見たがどうだろう。それとも、この変わり者はここに居続けて、大分をアジアチャンピオンにまで上らせ、ヨーロッパか南米のチャンピオンの一つも破らせてみせるのかな。日本代表監督という道ももう噂されているようだが、その誘いがあったら、さすがに受けるだろう?
そういう人物が今年、日本サッカー界で最高の話題になっているというのは、まー必然のことだったのだなと、初めてあらたに納得できた。
先ず彼は、プロ選手の経歴を持っていない。地方の下部組織でプレーしただけでプロを諦めて地元の私立大学体育学部に進み、そこを卒業して、以前在籍した地方チーム下部組織監督になった。そして95年に29歳でそこのトップチームの監督になっている。この年齢は、ブラジル1部チーム監督としては、歴代の最年少記録らしい。つまりプロ選手としての将来に早く見切りを付けたのが、彼にとっては大成功だったわけだ。
02年には別のチームで、ブラジルカップ戦準優勝、04年には別のブラジル2部チームでこのカップ戦に優勝してしまう。このときの相手が、ジーコを生み出したあのフラメンゴ、決勝の競技場もブラジルサッカーの聖地、あのマラカニアンである。圧倒されるような敵地で、あの名門チーム相手に、2部のチームがよく勝てたものだと、驚く他はなかった。
そして、その次のチーム、名門ボタフォゴの監督契約期間中に大分の引き抜きに応じたのであった。時に05年秋、シャムスカ40歳。その引き抜き劇が、またすこぶる変わっている。
トリニータ側担当者によれば、こんなやりとりや、シャムスカ自身の大変な移籍努力があったということだ。これが、日本1部の最下位をうろついていた九州の田舎チームへの移籍努力なのだから、驚く。
トリニータ側「地方のクラブでカネがありません」
シャムスカ「それはいい。厳しい所で挑戦するのは、私の望むところです」
トリ「目下、最下位ですが」
シャ「ということは、残留させたら自分の価値を大いに上げられますね」
とはいえ、名門ボタフォゴでの05年度契約途中の出来事であって、違約金なども生ずる。それへのブラジル側仲介者による経過報告に、こんな言葉があったと紹介されていた。
「彼、ボタフォゴの会長を自ら説得してるんです。長年、日本で仕事をしたかったから、チャンスを逃したくないと言って。違約金も自分で支払うと言い張っていますよ」
なんと夢のある、興味深い人物ではないか。阪神の監督をやっていて、パリーグの万年最下位チームに移籍希望を出した若手超有望監督。そんな場面を僕は想像してしまった。巨人中心で、かつ序列ばかりで夢がない日本野球界では考えられないような、夢のある人物、話ではないか。
もっとも日本野球界は、選手としての実績だけが監督の条件、世界のサッカー界とは似ても似つかぬ閉じられた世界だ。日本サッカー協会がこのたび、伊達公子や平尾誠二を理事に選んでその経験的知恵を借りようと決意したのだが、こんなことさえ全く考88えられないような世界なのであるが。
(続く)
43歳とまだ若いのに既に劇画を読んでいるような経歴を持った、実に夢のある興味深い人物なのである。ブラジル時代から始まっていたその成功談は、世界サッカー界の立志伝中の人物への大成功途上にあるような人、そんな風格、エピソードに事欠かない。大分には失礼ながら、このチームの器にはとても納まりきるような監督ではないと見たがどうだろう。それとも、この変わり者はここに居続けて、大分をアジアチャンピオンにまで上らせ、ヨーロッパか南米のチャンピオンの一つも破らせてみせるのかな。日本代表監督という道ももう噂されているようだが、その誘いがあったら、さすがに受けるだろう?
そういう人物が今年、日本サッカー界で最高の話題になっているというのは、まー必然のことだったのだなと、初めてあらたに納得できた。
先ず彼は、プロ選手の経歴を持っていない。地方の下部組織でプレーしただけでプロを諦めて地元の私立大学体育学部に進み、そこを卒業して、以前在籍した地方チーム下部組織監督になった。そして95年に29歳でそこのトップチームの監督になっている。この年齢は、ブラジル1部チーム監督としては、歴代の最年少記録らしい。つまりプロ選手としての将来に早く見切りを付けたのが、彼にとっては大成功だったわけだ。
02年には別のチームで、ブラジルカップ戦準優勝、04年には別のブラジル2部チームでこのカップ戦に優勝してしまう。このときの相手が、ジーコを生み出したあのフラメンゴ、決勝の競技場もブラジルサッカーの聖地、あのマラカニアンである。圧倒されるような敵地で、あの名門チーム相手に、2部のチームがよく勝てたものだと、驚く他はなかった。
そして、その次のチーム、名門ボタフォゴの監督契約期間中に大分の引き抜きに応じたのであった。時に05年秋、シャムスカ40歳。その引き抜き劇が、またすこぶる変わっている。
トリニータ側担当者によれば、こんなやりとりや、シャムスカ自身の大変な移籍努力があったということだ。これが、日本1部の最下位をうろついていた九州の田舎チームへの移籍努力なのだから、驚く。
トリニータ側「地方のクラブでカネがありません」
シャムスカ「それはいい。厳しい所で挑戦するのは、私の望むところです」
トリ「目下、最下位ですが」
シャ「ということは、残留させたら自分の価値を大いに上げられますね」
とはいえ、名門ボタフォゴでの05年度契約途中の出来事であって、違約金なども生ずる。それへのブラジル側仲介者による経過報告に、こんな言葉があったと紹介されていた。
「彼、ボタフォゴの会長を自ら説得してるんです。長年、日本で仕事をしたかったから、チャンスを逃したくないと言って。違約金も自分で支払うと言い張っていますよ」
なんと夢のある、興味深い人物ではないか。阪神の監督をやっていて、パリーグの万年最下位チームに移籍希望を出した若手超有望監督。そんな場面を僕は想像してしまった。巨人中心で、かつ序列ばかりで夢がない日本野球界では考えられないような、夢のある人物、話ではないか。
もっとも日本野球界は、選手としての実績だけが監督の条件、世界のサッカー界とは似ても似つかぬ閉じられた世界だ。日本サッカー協会がこのたび、伊達公子や平尾誠二を理事に選んでその経験的知恵を借りようと決意したのだが、こんなことさえ全く考88えられないような世界なのであるが。
(続く)