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日本史・世界史から、平和への教訓   文科系

2019年09月09日 14時52分59秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 現実と望みと
 
人間の思考には常に二つの要素というか、重要側面というかがある。よく使われてきた言葉で言えば、「理想や望み」と現実と言っても良いし、高踏的な旧制高校生などではドイツ語を使って「ゾルレンとザイン」などと議論しあっていた。
 子どもに近いほど(親に充たして貰うごく身近な)望み、欲求だけ、それがそのまま現実なのだし、大人になるに従って「自分にはこの望みは虚しいもの」という経験を重ねるたびに、現実というものを知らされていく。ここからつまり、現実だけの人間や人生と、夢見がちな人とが生まれ、どんな人も年を取るほどに前者に傾いていくもの。後者は若者か、でなければ学者などに多い。
 政治の論議なども同じことで、現実だけの議論と夢見がちな議論とに分けて考えてみると、少し視野が広がるという意味で、大変興味深いものだ。保守と革新とか、コンサバ(保守派)とリベラル(自由派)とかの区別も、こういう人間思考の違いから生み出されてくると言える。アメリカ政治論壇のこの点について、白井聡が面白いことを言っているので書いてみよう。
『(クリス・)ヘッジスにおいては、リベラルの反対概念は何かというと、コンサバではなくて、ラディカルズなのです。いわく、ラディカルズを、リベラルが牛耳るアメリカのメディアもアカデミズムも許容してこなかった』(詩想社『「日米基軸」幻想』)


 平和を巡る世界史的現実

 さて、世界と日本との平和について、上のような人間思考から見た歴史現実の論議をしてみると、視野と思考とを広げ、深めることができる。
 帝国主義時代以降この両方の平和が不可分になった。のみならず、20世紀世界史には、人類世界の平和に関わってかってないことが起こっている。飛行機・ロケット、(原子力)空母、核兵器などなどから「世界が一つの戦場」のようになってきたのだし、だからこそ「人類平和を巡る世界組織」が生まれたと言える。最初は国際連盟、次いで国際連合。今や、ここを重視して、人類史上初めて世界平和が現実的課題になってきたと言える。以下最後まで、その事を書いてみるが、その本論の前に一言。
 こういう世界平和議論自身に対するに、今世界に流行している単なる愛国主義回帰、いわゆる右翼ポピュリズムは、国連を無視する単独主義行動・アメリカがほぼ意識して世界に創り、ばらまいた傾向、思考と言える。イギリスや東欧諸国などヨーロッパ諸国のそれは、アメリカが中東で作った難民の流入を抜きには語れない。南米の右翼ポピュリズムも、アメリカの歴史的工作が作ってきたものだと言える。

 平和には「そういう人間組織」が不可欠
 
 日本と日本人とは、「徳川300年の平和」をよーく知っている。群雄割拠で長く続いた戦国時代(という国民の不幸)を終わらせて、鎖国も関係していようが国内の需給好循環経済を栄えさせ、西欧以外では唯一、明治維新後近代化の基礎を作ったその平和である。日本人が1日3食になったのは元禄時代だし、この頃の江戸や大坂は、世界有数の文化をも誇る大都市であった。

 他方、最近の世界的ベストセラー「サピエンス全史」には、これと同様のこんな世界史知見が溢れている。
 部族社会では、部族外の人間は総て「敵」、もっと言えば単なる「動物」。ここに、当時主流であった宗教的思考、対立を関与させれば、魔物とさえ見られていただろう。どんな動物よりも大変な悪さを働く動物だったのだから。
 統一国家ができて初めて、その範囲の国民が「対等」に。次いで、近代統一国家が生まれた時、そういう国の基礎として「基本的人権」が据えられるようになった。第二次大戦後にはとうとう、その国家も、世界庶民つまり人類も、初めて名目権利上は対等になった。
 20世紀後半に植民地が否定され、人種の平等が進んだのも、こういう国際民主主義への世界史的流れの一環と言える。第一次大戦後の国際連盟、二次大戦後の国際連合が、世界史上初めて生まれたそういう「望み」を持った人類平和組織である。

 今アメリカがやっていること

 1990年の冷戦終結後新たに、国連に対するように、というよりもこれを無視するようなアメリカだけの単独主義行動が台頭しているが、そのアメリカこそが先頭に立って国連総会決議に従って行動するならば、今はもう地上から戦争は終わるようになっていくはずだ。「大量破壊兵器」という嘘の理由で、国連の制止を振り切っておこなったイラク戦争。さらに今年になっては、このイラク戦争と同じように、イラン戦争有志国を募っている真っ最中だ。本来こんな「制裁」は国連決議によってしかできないはずなのだから、これも完全な国連無視行動とか、自分を国連に替える非合法の暴力にすぎないと見て良い。

 日本の右翼ポピュリズムも

 日米の右ポピュリズムも国連を全く語らないという共通性を持つと、このブログ投稿などで初めて知った時、僕は驚いた。以上のような20世紀の世界平和両組織を全く無視して国際政治を論じているのである。これを簡単に言えば、世界近代史の国際民主主義(組織)の発展を無視する主張、所業と言えるだろう。
 ちなみに、ネトウヨ諸君の太平洋戦争論は、その前の対中国戦争、その前哨戦・満州事変は全く無関係に論じられている。満州事変で当時の国際連盟を抜けた日本は、すでに戦争犯罪、対英米戦争の確信犯になっていたといえるのに。ちなみに、日本の第一仮想敵国は1929年だったかのとっくの昔に、アメリカになっていたのである。こういう日本の流れは、こんな事をこそ示していないか。国連を無視し始める国は、戦争を始める国であり、「戦争は人間の現実」という思想をばらまく国でもある。

 今の世界では、アメリカが何故国連無視を続けるのかを考えてみることこそ、世界庶民の明日の暮らしにとっても最重要なことの一つだと言いたい。


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何度でも、大田光と安倍晋三の珍対談   文科系

2019年09月09日 14時15分23秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 あれあれ、安倍首相がこんな事を叫んでいる。日本国憲法前文の「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、(われらの安全と生存を保持しようと決意した)」を読み上げてこう非難して見せた。「他力本願ですよ。ベトナム戦争、イラク戦争など戦争はいっぱい起こっているのに・・・」。ふと開いたネット記事からの、爆笑問題の二人、特に太田君と安倍首相との質疑応答だ。ここから、こんな討論が始まっていく。

安倍「イラク戦争は、日本は支持した。その判断自身は間違っていなかった」
太田「アメリカは、間違っていたと言っていますよ」

安倍「大量破壊兵器があるというその情報は間違っていたけど、戦争判断自身は間違っていなかった」
太田「間違った情報による判断が正しい? 人がボコボコ死んだんですよ!」
安倍「そりゃ非常に残念ですが・・・」
太田「残念? 間違った情報でボコボコ殺されたんですよ!」
安倍「いや、大量破壊兵器がもしあったら・・・」
太田「なかったんですよ。可能性で戦争してもいーんですか」
安倍「そりゃそうですよ」
太田「あいつ人相危ないからで、殺してもいーんですか?」
安倍「そりゃ、苦しい判断がありますよ」
太田「苦しいのは死ぬ方ですよ」

 どうだろう、どっちが良識的な会話をしているか?「間違った情報で人がぼこぼこ殺された戦争をするという判断も、それを支持した日本も、間違っていなかった」等と、口を滑らせて言い切ってしまったのが不用意に過ぎたということだろう。普通は、こんなおかしな論理は実際にそう思っていても口には出さないものだ。それをあっさりと言い切ってしまったところに、しかも、国会と違って事前質問通告も答弁補助者もなくって一対一を逃げられない生放送場面でこんなことをしたその態度に、彼の思考力の危うさが現れている。そこをつかれて思わず「そりゃそうですよ!」という、意味のないイラク戦争肯定論を叫び続けた、この醜態! 同時に、この首相が、不用意とも思わず日頃をこんなふうに過ごしてきたお人だとも、端無くも示してしまった。これは、日頃イエスマンばかりに囲まれてきた証拠にもなる。

 大変情けない首相を頂いたものである。また、憲法前文への「他力本願」批判も、その根拠が社会ダーウィニズム丸出しの「戦争は現実」論だけなのだとあっては、俗っぽすぎて人間らしい政治理念が毫も感じられないものだ。「戦争はない方がよい」と口では言いながら、「戦争現実論」の例として彼があげたのがベトナムとイラクとあってはいずれもアメリカの戦争であって、そのアメリカをぴったりと支えてきた彼だからこその「戦争現実」は、自らも造り出して来たもの。
 こうして、日本の首相という世界有数の影響力を活用してこういう現実世界をもたらしているその人が、そういう自覚も皆無だと示しているわけだ。つまり、全く無自覚なのだが、「残念」「ない方がよい」も嘘になってしまっている。
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