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「終わった国」米が、怖い   文科系

2019年09月29日 13時28分49秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)

 20世紀世界第一の強大国としてのアメリカはもう終わったと、そのことを「証明」してみたい。そして、だからこの国の今は怖い、とも。

① 2015年に元会計検査委員長のデイブ・ウォーカーがこんな発表をした。国家累積赤字はGDPの4倍であると。これは、当時の正式発表の数字の3倍を上回るもので、年金、医療などの国の未払い分などを加算したものということであった。大変な自転車操業をやっているのだろう。

② 8月20日新聞夕刊にこんな記事が載った。『株主最優先を米経済界転換』。書き出しはこうだ。
『米主要企業の経営者団体「ビジネス・ラウンドテーブル」は19日、株主の利益を最優先する従来の方針を見直し、従業員や顧客、地域社会など全ての利害関係者の利益を尊重する新たな行動指針を発表した。これまで米経済界は「株主利益の最大化」を標榜してきたが、大きな転換点となる』

 この団体表明が本心か否か、守られるのか否か、つまり単なる見せかけ、嘘ではないかという問題は今は置いておいて、これの歴史的重要性は分かる人には分かるという、世界史的な出来事である。

③ ①と②の背後にある原因は同一「株主」たちだ。株主資本主義がアメリカの物作りを壊して、大量の白人失業者や超格差を創ったことを通して税収は減っているのに、イラク戦争、アフガン戦争を実質継続中などと、軍事費の政府支出に占める割合などはほとんど減らしていないからだ。ちなみに、イラク戦争の期間には爆発的に増えたから、もうあんな戦争は、自暴自棄にもならない限りできないだろう。「戦争はしない」と公約していたトランプが今はベネズエラ、イランなどにやってきたように「戦争」と口で脅す、とかだけ?

④ この「株主資本主義」は偽の好景気、サブプライム・バブルを創り、リーマン・ショックでこれが弾け飛び、イタリア、スペインなど西欧も含めて世界を「100年に一度」のどん底に落とし込んだ。今また懲りずにGAFAバブルを創っているのも、そういう「株主」たちではないのか彼らが喧伝している「求人率向上」は日本安倍政権の宣伝と同じで、パート、臨時など、不安定雇用を増やしたというだけの話であって、何の職業的展望も開けない社会であり続けている。これこそ、株主資本主義が創った世界なのだ。生産力は爆発的に伸びたこんなに豊かな社会なのに、なぜなのか?

⑤ 以下のアメリカが進行させてきた諸行動も、こういうアメリカの困窮からこそ出てきたものと考える。ずっと標榜してきた「自由主義」経済を投げ捨てて、ブロック経済に走ったこと(ブロック経済とは、知る人ぞ知る、二つの世界大戦への反省から人類に生まれた世界史的禁じ手だったはずだ)。シリア、ベネズエラ、イランなどに対する「戦争外交」。これらすべてを通じて、一貫して見られる、国連無視、つまり多国間主義外交を放棄した単独主義行動を、他の何よりも僕は批判的に強調したい。今は、アメリカが国連を尊重しさえすれば「人類に戦争があるという現実」(これが、9条改訂の理由になっている)さえ変えられる時代が来たと、僕は思う。だからこそ、20世紀人類に初めて生まれたこの国連が大切なのだとも。

 

 

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国語科は学問ではない?  文科系

2019年09月29日 12時00分36秒 | 文芸作品

 学校教育の国語科について文科省が大改革を試みつつあるそのことを、本日の中日新聞社説が批判的に扱っている。論理国語とかの実用言語という点を強調する改革らしい。大学改革でもどんどん進んでいる文系学部の縮小と軌を一にする動きとも書いてあった。それで、この問題にこそ関わってここに書いた旧稿を改めて再掲し、末尾に若干のコメントを付けてみたい。この問題は哲学の歴史などから見ても本質的に根が深い問題だと考えてきたが、そういう深い問題を文科省があまりにも単純に扱いすぎているように思うから。

 

【 随筆 「国語(科)は学問ではない!」?  2015年01月29日 

 子ども、青年期などにおいて、標記のことを唱える人は多い。僕自身も中学2年だったかの国語の時間に、若い女の先生にそんな質問をして、1時間の授業を潰してしまった覚えがある。この事件の詳細は覚えていないが、数人の級友と一緒に発した質問だったので、そうなったようだ。

 では、よくあるようにこう言い逃れるやり方は正しいのかどうか。国語で書かれた内容の方が学問か否かは置いておくとしても、国語という言語とその使用法は学問としてきわめて重要なものである。こういう語学に限定した国語(科)の定義は誰もが認めるはずだが、この「書かれた内容」を横に置いた半分の定義だけでは、国語(科)の意味、重要述語の抑えとしては3分の1の価値もないと、これが僕のこの随筆の趣旨だ。

 さて、少なくとも20世紀以降の人文科学は、以下のことを明らかにした。
 言語能力、特に抽象的言語能力が不足した子どもは、学力一般が劣るのである。思考力一般と言語能力とがほぼ同じものと言っても良いほどに。これが言いすぎであるとしても、少なくともこうは言えるというように。両者の一方が欠ければ、他方もそんなに発達はできないと。このことはまた、以下のことをも示しているのだと思う。
 言語能力が文字通りの言語能力という狭い範囲に留められるものではないということを。次いで、このことに、20世紀の発達心理学などから発見された次の事実もおおいに関わっていく。
 この言語能力・思考力一般という意味での言語能力が劣った青年、成人には、社会性も欠けるという事実である。もっと言うならば、こんなことが言えるようだ。言語能力と思考力と社会性(さしあたっては、他人の言動が見え、分かり、共感するということなどなど)は、人間においては相互に影響・発達させ合う同じ一つのことの別の側面であって、その同じ一つのこととはその人間の内面のすべてとさえ言えるのではないかと。自分なり他人なりの人間の内面のことを出来るだけ正確に現し、他人に伝えようとしたら言語に頼るしかないという一事をとっても、このことはご理解願えるはずだ。心の中のことは、目に見え、手で触るなどということが出来ないからである。ここでまた、この事は言っておきたい。東大理科を受かるような言語能力があっても社会性が欠ければ営業が出来ないというような例はごろごろあると。社会性が欠ければ、その言語能力、一見高度な「思考力」、内面は偏ったものだということだろう。

「国語科は学問ではない」という子どもが目の前に現われたら、今の僕なら以上のことをしっかり語ってあげたい。きちんと答えないと「必ず、発達が歪む」と考えているからである。最近賢い女の子二人が、相次いで残忍な殺人事件を起こしたが、以上書いてきた問題が本質的に関わってくると解説する専門家も多いのである。

 最後に、付け加えることがある。以上のようなこと全てを40年高校国語教師をやってきた連れあいに話してみた。その間に愛知県の最難関高校(の進路指導係)を含めていわゆる受験校三つを渡ってきた人である。どんな返事が返ってきたか。
『今は、そんな質問をする子はいない。国語が、受験の主要3科目に入っているからだ』
 いや、驚いたのなんの。

 が、こんな現状も大問題であると、又別の問題性を感じたものだ。こんなに大事な学問を受験手段中心で扱っている。道理で、文科省が大学の人文、社会系の学問分野を減らそうとしている訳だ。国語を思考能力とだけで扱って、社会性、人間の内面一般との関係で見ていないからこんなことができるのだろう。怖ろしくなる。
 なお、国語科を軽視して道徳科を重視しても、虐めも賢い子の悲劇的事件も一向に減らないはずだ。安倍首相には特に、そう言いたい。人の心こそ実は、究極の思考力、真理の最大問題なのだと強調したい。道徳を決まり(の集積)か安っぽい「善悪」のように扱うのでなければ、国語科、人文・社会系学問を軽視はできないはずなのである。】
 
 

 以下は、今回付ける文章だが、「国語は数学のように答えが明確に出ないときがあるから学問ではない」という命題をもう一歩突っ込んでみたい。当然この場合の国語とは、言語学的な、あるいは、論理言語的な側面ではなく、書かれた内容の、あえて言えば文学的側面についてのものだ。人間の心は言語でしか現せないし伝えられないのだから、実際に人と接して学ぶほかには、言語に書いたものを通して、あるいは言語で整理しつつ学ぶしかない。そして、実生活上の心の問題は確かに、数学のように明確な答えが出ないときが多い。ところが、答えがいくつもあるから考えても仕方ないどころか、こういう問題こそあらゆる人間、人生においておそらく最大問題なのである。そのことは例えば、職場の悩みの最大のものが人間関係であるとか、「現代の男女、夫婦の問題は難しい」などという例を取っても分かることだし、この素養がなければ例えば営業などできないだろう。ちなみに、宗教は常に人間の心が抱える根源的悩みと結びついてきたものだけに、言語抜きにはどんな表現も不可能だと思う。つまり、他人にこれを伝えられない。

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