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南京虐殺史実の決定版   文科系

2019年09月14日 15時30分47秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

【 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。なんせ、上の手記にあるように師団長すら虐殺の全貌は知らないのだから。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍である。もっとも命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが・・・。】
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日本サッカー選手の世界的大成への条件   文科系

2019年09月14日 12時18分08秒 | スポーツ

 11日に「中島翔哉を巡る過去の大論争」をエントリーしました。このエントリーは、4年ほど前にここで行われた中島翔哉の将来性論争で僕が勝ったと、今は分かるという話です。このほかにもこのブログには同種のことがいろいろありました。中田ヒデのこと、岡崎のこと、岡崎に少し遅れて、長谷部が世界的名声を得るまでのこと。さらには、香川の、中村憲剛との代表コラボで日本サッカー史の未来を指し示すような得点を挙げた10年のパラグアイ戦ゴール以降のこと。

 さて、若手選手の将来性って、どこで見るのでしょうか。まずとにかく、サッカー選手を見抜く重要ポイントをいろいろ上げてみなければなりません。
① 止める蹴るなどのプレーの、速さ正確さ。いわゆるアジリティー。これはまず、誰でも強調することですが・・・。
② 広く正確に相手が見えて、それに合わせてその都度、的確な戦術展開ができること。ヒデ、遠藤などで、いつも強調されてきた能力です。これは守備面でも重要なもので、長谷部がドイツで高評価を受け続けている第一の原因にもなっています。
③ 身体の強さ、ダッシュを繰り返せる走力など、身体能力。これもヒデ、岡崎で強調され、逆に①も②も十分すぎるほどあった宇佐美が、大成できない理由に上げられたことです。
④ 以上の世界水準や世界一流チームの戦略などが見えて、これらについて自分の長短を知り、早いうちに修正・強化できる思考力。

 さて、①番は案外大切なものではないと、僕は考えます。若い頃は普通のプロ技術程度で良い。というか、技術全体は下手でも何か一つ特殊な技能があれば良い。そのことは、ヒデと岡崎が教えてくれました。普通の日本人優秀選手としてですが、①よりも、②③の方が遙かに大切なのだと。ヒデ、岡崎、長谷部、遠藤ら世界的な選手に②③がない人はいませんから。

 中島は、エントリーにもあるように、②の点ではかなり晩稲だったと見ています。財前や前園を見ても分かるように、ドリブルがうまい選手はどうしても視野が狭くなる。そこを20歳以降になってどんどん修正できた中島は、非常に賢い選手だと思います。つまり、④が素晴らしい!
 ③ですが、これが日本の評論家などに最も見えていなかったこと。ヒデ、岡崎、長谷部の大成には、このことが必須条件であったにもかかわらず、この点を見る専門家が案外少なかったのが日本の現状だったと思います。さらに付け加えると、ダッシュを繰り返す力は、20歳前になって鍛えようとしても生理学的にもう遅いと言われています。その代わりと言っては何ですが、筋力は高校生以降になってこそ初めて鍛えられ、20歳をかなり過ぎても十分に間に合うと、これも生理学の知見です。


 さて、そんなわけで、日本人の世界的名選手の18歳頃の姿を、以上①~④について改めて振り返ってみるのも一興というわけで・・・。その頃の同年齢の日本代表選手の平均能力を標準として、それと比べてみようという趣向です。

 中田英寿 17歳頃までは①的には彼より上の選手は、多かったということです。財前、前園らのことです。ただ、③はありました。そこから、16歳の時までに④を積むにつれて、18~19歳には非常に優れた②と、①「止める蹴る」やパス力を身につけて行ったと、これは有名な話。俊輔が往時のヒデを語った表現にこんなのがあります。
『ヒデさんがドリブルで走ったとき、止めようとする相手をどんどん蹴散らして、奪われるかと思ってもまた蹴散らして、最後にギリギリの好パス。ぜんぜん全く、日本人っぽくない』

岡崎慎司 20歳過ぎまで平凡な、特に「下手な」選手と言われていました。FWとしては脚も遅く、けっして器用とは言えないような。ただ、ヘディング能力と、走り続けられる力には非凡なものがありました。ちなみに、08年頃ここで彼に目をつけ始めたのは、このヘディングに驚かされたことがきっかけでした。彼が、チームのレギュラーになるとほぼ同時に、フル代表選手から日本代表エースへと駆け上がっていった08年前後にはこんなことがあったと、これは有名な話。400メートルリレーの元オリンピック選手、杉本龍勇に通い詰めて、ダッシュ、走り出しなどの身のこなしを教わったこと。これが、岡崎の選手生活に革命を起こしたと、清水エスパルスでは語り草になっている話です。この杉本氏、今はもう、多くの代表選手らの個人トレーナーをやっています。

中島翔哉 若い頃からのドリブルお化けでした。ただ、視野が狭く、FC東京時代にさえ同僚の大久保からよくこう言われていました。「彼がもう少し周囲を見て、使うことができたら、すごい選手になるのに・・・?」。この時の大久保は、川崎のパスサッカーで再教育されて2年連続得点王になって、30歳過ぎに大成した中山ゴンを思わせる名選手。その大久保から、川崎の高水準のパスサッカーには全く合わないなと中島が批判されたわけでした。当時、スペインサッカーを取り入れようとしていた日本では、致命的な欠陥にも見えます。東京でレギュラーがとれなかったのは、この点と防御ができないと見られていたことが関わっていたのではないでしょうか。公称167センチですが、実は164センチという身体もハンディになっていたはずです(城福監督のチーム戦術に合わなかった?)。今はパスもしますし、十分に防御もできます。ただ、あれだけドリブルで崩せればこれに相手2~3人を引きつけてパスというのが、相手を崩した得点への効果的戦略になるはずです。なお、彼については昔から一つの特技がありました。ゴールに向かって左45度からの中長距離シュート。僕が彼に目をつけ始めたのは、国際大会でのこれを2本見たことがきっかけになりました。


 最後に一言。上のようにいろんな選手の歴史などをすっと思い出して、書けるのは、ここで15年もそれぞれを追いかけ、調べ、学び、思いだし、そして書き続けなどをしてきたから。その意味ではブログというものはとても有り難いものと、感謝しています。何よりも、記録が残り、それがいつでも簡単に取り出して、読めるから。これは、記憶力がなくなった78歳の、この身には、この上なく有り難いものなんです。

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