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主権者国民には、天皇を冒涜する権利もある  文科系

2020年09月29日 09時56分20秒 | 国内政治・経済・社会問題

「表現の不自由展」をめぐって、愛知県・名古屋市がいまだに大もめだ。これを開いた県知事を辞めさせようという運動にまで発展して。主たるその理由が、「日本人の心を逆撫でした政治的行為に公金を使ったから」「公共の福祉に反する」というようなことらしい。以下そういう論理と、そこに潜むある感じ方に対して反論してみたい。

 言うまでもなく天皇とは、国民の象徴とされている。これは、国民にとっては天皇個人というよりも、天皇が憲法上の一つの「政治機関」であることを示している。ところで、どんな日本の政治機関に対しても、日本国とその政治の主人公である国民が自由にものを言えて当然である。いやむしろ、自由にものを言えなければおかしいことになっていく。「私は象徴が大嫌いである」とか、「これを踏み躙りたい」とかも含めて。これを妨げ、自由にものが言えないようにする言動、感じ方こそ、どこかおかしいものなのだ。どう、おかしいのか。

 こういう感じ方の正体にこそ実は、フランス大統領マクロンがシャルリエブド問題で「宗教、マホメットを冒涜する権利もある」と述べた宗教論議の一方のようなものが存在するのではないか。宗教論議でさえ冒涜等と言う批判がありえないとしたら、政治論議にどうして冒涜等という言葉が飛び出してくるのか。「象徴を踏み躙るのは、我々国民を踏み躙るものだ」と言い逃れてさえ、こんなことが言える。そういう政治機関である以上に、天皇を神聖視した感じ方が存在していてそれでもって反論しているのだと。名古屋市長・河村たかしがこの「日本人を逆撫で」に関わって「公共の福祉に反する」とも述べたようだが、この発言にもどこかに憲法問題という以上に天皇の神聖視が加わっていると僕は観てきた。試みに、こう言ってみたい。憲法論議の中では、政治以外のものを持ち込むな。まして、戦前を体現した昭和天皇は、十分に政治問題であらざるを得ないのであるから。ちなみにここで、今の国民の幸せに関わっては、国家の中で憲法より大切なものはないとも、強調しておきたい。

 なお、この問題を巡ってこういう論議があるようだが、それにも一言。『「政治的(に中立でない?)表現(芸術)」に、公金を出してはいけない』。何を「政治的」「政治的中立」と見るかは諸個人の主観によるし、全く政治的でない表現というものが存在するのかどうか。これは大変難しい問題だし、これを正しく厳密に規定していない「表現の自由の制限」に関わる政治言動は、思想統制、焚書坑儒のようなものに拡大されていく必然性が歴史上いつも存在したと思う。こうして日本の場合にはむしろ、「天皇の扱い制限」こそ、逆にこういう焚書坑儒に発展する可能性をはらんでいると考えるべきだろう。

 人間の思考で最も大事だが難しい事の一つが自覚であると言うが、天皇問題に関わっては無自覚な激しい反発が多すぎるように思う。「象徴を踏み躙って日本人の心を踏み躙った」とか「そこに公金を使った」とかよりも、「日本人の『心』を踏み躙った」というその「心」の方がここではむしろ問われているのではないか。天皇といえども1人の国民だし、これが象徴するものもまた国民に「過ぎぬ」と考えるべきなのだ。こうして今は、国を象徴するものに対する国の主人公、主権者の態度への規制こそ、その国が全体主義的か否かを分ける試金石にますますなってきたような気がするのだが、どうだろうか。国家といえども国家の主・国民一個人以上のものではなく、その命を奪う死刑でさえ「他の国民の安全、安心のためにやむを得ずそうさせていただきます」というものだということを忘れてはならないと思う。日本は、先進国では数少ない死刑実施国である上に、安倍長期政権はさらにこれを増やした。そして、死刑とは今や全体主義的な国の特徴であって、主権者国民の上に国家がそびえ立ちやすい制度だということを示している。そこへ持ってきたさらに「象徴不可侵感情」なんかを制度化させれば、行く末どんな国家が出来上がるのか知れたものではない。そんな警戒心が必要になっているのだと考えている。

 

コメント (4)
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