このエントリーを持って一か月以上続いた日本会議論議を終わりたいと思います。この団体が目指す憲法が出来ればこういうことになるという、締めくくりを以下のようにして。
ある国民を切り捨てる全体主義
天皇敬愛を「同朋感」「国柄」として憲法の柱に明記すること自身が、これを持たぬ国民を切り捨てることになる。これは、国民主権や国民の思想信条の自由を憲法で無視する全体主義である。キリスト教徒、無神論者、まともな仏教徒らはみな無視されたことになる。「日本会議がめざすもの」という文書の以下の文言にそのことが示されている。
『125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう』(「日本会議のめざすもの」全6節の中の「1美しい伝統の国柄を明日の日本へ」から)
『皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』(同上)
『そもそも憲法とは、歴史的に形成された国柄を反映した国の基本法です。私たちは、外国製の憲法ではなく、わが国の歴史、伝統にもとづいた理念に基づき、新しい時代にふさわしい憲法の制定をめざし』(同「2 新しい時代にふさわしい新憲法を」)
民族優位論が排外主義に繋がりうる
このような理念を中心に据えた国家観とは、アーリア人、ゲルマン民族の優位を説いたヒトラー全体主義とどこが変わるというのか。異質国民の統制や、他民族蔑視・制圧やをどれだけ自制するかという程度の差しか残っていないことに気づきもしないこの無意識こそ、今後に向かって実は最も恐ろしいものだ。ここに描かれてある「国柄」への神聖感情、民族優越意識が国家を握ったその程度に応じて、他者への不寛容、排斥がもたらされぬ訳がない。戦前の思い出がある東アジア諸国の神経を逆撫ですることにもなる。
こんな全体主義、排外主義憲法を目指す文書に連判を押した国会議員、地方議員は、その民主主義国家感覚が狂っているのである。そういう人物こそ、今現在既にもうこう叫んでいるのだ。「天皇を冒涜するものは、公序良俗、公共の福祉に反する者である」。憲法に象徴と明記されてある天皇について国の主人公である国民が自由に論議するのを妨げるような神聖視こそ、上記全体主義の顕れそのものである。