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慢性的恐慌世界  文科系

2020年09月13日 16時24分44秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)

 ケインズやマルクスが恐慌を資本主義の最大問題と見て格闘したのは、株価や「景気」などよりも、定期的なように起こる失業者激増問題があったからである。失業者激増ほど、人を不幸にし、犯罪とか人心の荒廃などいろいろに社会を荒らす問題はないからだ。ヒトラーや東條の台頭も、一九二九年の世界大恐慌以来の失業問題が無ければあり得なかったこと。日本の「満蒙開拓」などの社会的機運も同じことだろう。ところが今は、銀行倒産は国が救うが、失業や不安定雇用問題はほぼ放置と言える。スペイン、ギリシャ、ポルトガル、イタリア、アイスランドや、アジア・アフリカ諸国。若者を中心に膨大な失業者を何とも出来ない国があるのだから、リーマンショック以降はもう世界恐慌である。それらの国々に世界の諸問題が特にしわ寄せされてきたわけだ。
 銀行倒産は国家が即座に救うのに、若者の失業者放置って、どういう理屈で続けられるのだろうか。失業者が多い国家が無力だから仕方ない? 否、現代の失業者は、マネーゲームによって生み出される。九七年のアジア通貨危機から、タイ、韓国、インドネシアに大失業者群が生まれ、ギリシャがゴールドマンなどの世界的金融資本に食い物にされたとかも、知る人ぞ知る有名な話だ。
  これらの問題は、どうしようもないことなのだろうか。近年の世界経済について、その転換点以降現代までの推移を振り返ることを通じて、その淵源を探ってみよう。
 
 七一年にいわゆるニクソンショック。金本位体制を崩して、世界的に変動相場制に移って行くことになる措置だ。直後には、対円などでドルが世界的に値下がりし、他方、七三年原油価格暴騰が起こる。さらには、戦後世界経済理論を最も騒がせたスタグフレーション現象が強調され始めた。「景気の停滞下で物価上昇が続く」「物価上昇と失業率の上昇とは併存しない」という当時までの世界的経済理論ケインズ経済学では説明できない現象と言われたものだ。新自由主義として有名なサッチャリズムが七九年に、レーガノミックスは、八一年に始まっている。八十年代は「アジアの時代」とかジャパンマネーの時代というのが定説だ。七九年には経済協力開発機構でアジアが注目され始め、以下十国が「NIES」ともてはやされた。韓国、台湾、香港、シンガポール、ブラジル、メキシコ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ユーゴスラビア。八十年代に入るとこのうち南欧や南米が落ちて、アジアNIESが急成長を遂げていく。以上の八十年代動向は同時に、アジア唯一の先進国・日本が、「アメリカ」をも買いあさった「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代とも重なっている。

 九十年前後に起こった社会主義国崩壊から以降、民間資金が各国に流入して、様々な猛威をふるい始める。それにともなって各国に通貨危機が連続して発生していくことになる。九四年メキシコ、九七年東アジア、九八年ロシア、九九年ブラジル、〇一年にはトルコとアルゼンチンなどだ。いずれの国も、短期資金の突然の流出で資本収支の赤字から困窮しつくすという特徴を示した。ちなみに九八年世界決済銀行の四三カ国調査にこんな数字があった。市場為替取引高は一日平均一・五兆ドルで、年間五百兆ドルと。九五~六年の世界貿易高が五兆ドルであったのを考えると、もの凄い数字ではないか。「カネがモノから離れた」マネーゲームに対して識者たちから警鐘乱打が発されることになる。もちろん、こういうゲームの主人公たち自身からも破綻者が現れた。九八年にロシア通貨危機でロングタームキャピタルマネージメント、〇二年にエンロンの倒産である。いずれもデリバティブ、金融派生商品の失敗によるものだった。
 そして〇六年十二月に兆し始めたサブプライム住宅ローン・バブルの破裂。百年に一度の世界経済危機と言われたものである。

 さて、初めに提起した世界の失業・不安定雇用問題に、この簡単な世界経済史のどこが、どう繋がったか。一言で言えば、先進国のマネーゲームが世界の現物経済を支配し、人件費比率大幅カットによって、これが始まった。さらには世界の余剰資金をかき集めるべくバブルを世界に形成しては破裂させたことによって。現物経済と言っても株式だけではなく、土地、金融派生商品、さらには国債売買や為替から起こる通貨戦争までを含んだものである。この戦争の結末をば、ある学者は国際通貨基金〇八年の調査結果を使ってこう描いている。
『一九七〇年から二〇〇七年までの三八年間に、二〇八カ国で通貨危機が、一二四カ国で銀行危機が、六三カ国で国家債務危機が発生しています。金融危機は、先進国、新興工業国、開発途上国を問わず、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカを問わず起こっていたのです。これに対し、第二次大戦後一九七〇年以前の時期には、国際金融危機や大規模な一国金融危機はほとんど発生していません』(岩波ブックレット一二年刊 伊藤正直・東京大学大学院経済学研究科教授「金融危機は再びやってくる」)

 こうして、日米など人件費が高い先進国は、貿易収支の赤字をばマネーゲームで穴埋めする状況さえ現れた。その陰には、民生に使う社会資本さえ奪われた国々。これでは、世界経済の良い需給循環など起こりようがない。よって、日米の公的累積債務もそれぞれ一千数百兆円、八千兆円。この世界、一体どうなっていくのか。
 ケインズが生きていたら驚嘆して、こう叫ぶだろう。
 「こんな豊かな世界に失業者、不安定雇用者がこんなに居るとは! 私には予想も出来なかった未来である」
 新自由主義経済学では、ケインズを社会主義的と言う向きもあるが、どちらが狂っているのだか。

 

(2016年1月発行の同人誌に初出論文)

コメント (2)
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誤った「戦争信仰」  文科系

2020年09月13日 04時39分08秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 
 あるブログの共同運営を大学時代からの友人に頼まれてかっきり十五年やってきたが、そこでいろんなネット右翼諸氏とやりあってきた。ブログ名称に「憲法九条」が入っているゆえなのだろうが、こういう方々の訪問が絶えなかったからだ。たとえば、
『平和を願い、母国を愛する一未成年から反論させていただきたい。…………以上、反論があれば随時丁重にお返しさせていただく故、フェアに品のある議論を望む』
 これは「平成の侍」と名乗られたお方がこの八月十九日に僕の文章に寄せてきた長文コメントの前後だが、たった一回僕が出した回答に対して、もうお返事が何もなかった。僕の文章内容が彼が考えたこともないようなものだったから再回答のしようがなかったのであろうが、はてこれは「フェアに品のある議論」であったのかどうか、難しいところだ。


 こんなふうに知識も思考力も様々な方々を相手にしたこの十年、実に多領域の勉強をさせられたし、いろいろ考えさせられつつ今日まで来た。慰安婦問題は明治維新以降百年の日朝関係史学習にまで拡がっていったし、南京虐殺や「連合国史観」は「アジア・太平洋戦争史」の復習に繋がった。こちらが学んでいくごとに「これだけ稚拙な知識しかない相手が、どうしてこれだけ自信ありげに頑張れるのだろうか」と気付き始めた。その度に訝り、考え込んで来たのがこのこと。これだけ確信ありげに語るのは、世界も狭いからというだけではなく、自分を納得させ、確信させる信念を何か持っているからだろうが、それって何なんだろうかと。これらすべてにおいて、同じ人間という生き物に、どうしてこれだけ見解の相違が生じるのだろうかと、そんな哲学的問題意識をも温めつつ、相手の言い分を観察してきた。
 そこで最近になってようやく気付いたのが、これだ。

 米国は実体経済がIT産業ぐらいしかない。サービス業ばかりで、相対的貧困者と格差が大問題になっている先進国である。サブプライムバブルや九年にも及ぶ紙幣大増刷・官製バブルなどなどマネーゲームで儲けて、日本やBRICS諸国相手の現物貿易収支大赤字をその分カバーしている。がこの国、戦争が流行ればその苦手な現物経済もなかなかの物なのである。兵器産業でいえば世界ダントツの実力があるからだ。貧乏な国、地域には、本来廃棄すべき多量の中古品などの廃棄料が収入に転化する。日本や石油成金国などには第一級の高価な最新兵器などなど。世界のどこかで戦乱が起こるほどにこの商売はいつも大繁盛だ。
 ところで、戦争は無くならないと語る人は当然、こう語る。「国が滅びないように、国土防衛が国として最大の仕事」。こういう人々が世界に増えるほど、貿易大赤字国の米国は助かる。いや、助かるという地点を越えて、今の米国は「テロとの戦い」とか、以前なら「共産主義との戦い」などなどを世界戦略としているからこそ、地球の裏側まで出かけていったりして、あちこちで戦争を起こしているのである。まるで、人間永遠に闘う存在だという世界観を広める如くに。失礼を承知で言うが、「人間必ず死ぬ。貴方も間もなく死ぬ」と大いに叫べば、葬式屋さんが儲かるようなものではないか。

 さて、戦争違法化が、二十世紀になって世界史上初めてその国際組織と法が生まれたりして着手されたが、地上から戦争はなくせるのだろうか。この問題で極めて簡単な正しい理屈が一つある。戦争はずっとなくならないと語る人は「その方向」で動いていると言えるのだし、なくせると思う人はそういう方向に「参加していく」のである。つまり、戦争が未来になくなるか否かという問題とは、人間にとって何か宿命的に決まっているようなものではなく、今及び将来の人間たちがこれをどうしようと考え、振る舞うだろうかという実践的な問題なのである。世界の政治課題というものは、人間が決めるものだと言い換えても良いだろう。ところが、人間が決めるものだというこの真理を意識せずして否定する以下のような「理論」に最も多く出会えたのだと理解してから、僕の頭はすっきりした。

 社会ダーウィニズムという今は誤りだとされた社会理論があるその現代版亜流の世界観が存在するようだ。「動物は争うもの、人間もその国家も同じだろう。そうやって、生物は己自身を進化させてきたのであるから」。この理論で言えば夫婦ゲンカも国同士の戦争も同じ(本質の)ものになる。そして、夫婦ゲンカは永遠になくならないから、戦争もそうだろうと、大威張りで確信できるわけだ。
『動物の争いは永遠になくならないのだから、人間も永遠に争うものである』
『人間は争うものだから、国家の戦争も無くならない』
 これが、ネット右翼諸氏の世界と政治を観る無意識の出発点なのである。最近、そう気付いた。対案はこれしかない。「二十世紀には人類史上初めて戦争違法化に向けた国際法、国際組織も生まれたではないか」などの歴史的事実と戦争はなくせるという世界観とを広めていくこと。その実を例え少しずつでも、粘り強く作り広げていくこと。


 以上ありふれて見えるようなことを書いたが、正面からは案外批判されてこなかった誤った戦争に関わる信念が巷に溢れていると言いたい。この日本には特に広く。集団主義ムラ社会の中で激しい競争を演じてきた団塊世代以降では、自然に持つ世界観なのかも知れない。
コメント (14)
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