九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

奇策・久保建英外しでお見事、FC東京!  文科系

2019年04月20日 12時49分55秒 | スポーツ
 FC東京が奇策・久保外しで、類い希な首位争いを1対0で制した。なんせ7戦して無敗同士の首位対決なのだ。それも、東京にとってはアウェイ、広島ホームでの勝利である。

 それにしても長谷川監督、どうしてこんな奇策を思いつくことができたのだろう。確か、久保建英をベンチにさえ入れなかったようだ。彼が居ると、強力な広島の潰しが彼狙いで襲いかかって来て、攻撃が寸断されやすいと見たのではないか。また、ここで今の彼が壊されることも恐れた。

この17歳の少年を僕は今まで一度もここで褒めたことがないけど、今は凄い選手に育ってきたと言いたい。「繋ぎ時代」のサッカーならぬ「潰しの時代」のサッカーにやっと身体が追いついてきて、とうとう凄い選手になって来た。つまり、技術に身体が付いてきて大化けしたのである。とにかく、サッカー技術の基礎・「止める蹴る」はこの上なく柔らかなビロードのようで、世界のイニエスタにさえ通じるものを持った子どもだった。それがとうとう大人の身体になり始めたのである。
 名監督・長谷川健太の良い指導を得て、久保建英が代表に連なる時代が、とうとう到来したと見る。後ろに柴崎岳が控えていれば、凄いコンビになるだう。


 さて、Jの首位戦線だが、本命川崎も上がってきたし、横浜、名古屋も面白い。鹿島だけが良い顔ができる時代ではなくなったということだ。ちなみに、Jがイングランドのようになっていく基盤ができつつあるのではないか。折しも、ヨーロッパではイングランドの独走状態なのだ。今年のCL決勝もEL決勝も、イングランド勢同士になるというのが、僕の見込みである。Jも速くこのようになって欲しい。そしたら、新聞などスポーツ記事の今の野球偏重が少しは変化していくだろうか。否、これは当面望み薄である。日本のマスコミは野球に利権や縁故を持っているから、今の偏重は半分商売のようなもの。世論調査によれば子どもはもうサッカーファンの数の方が多くなったようだし、これからはもっとそうなることとて、サッカーファンはそんな野球記事など読まないことにしよう! 尚これは野球批判ではありません、野球マスコミ批判ですから。
 
「利権や縁故で紙面作っちゃー、『公器』を名乗る資格無し」
 まー、新自由主義時代の「公」って、どんどん廃れてきたのだけど、新聞がこれをやっちゃあ、大本営発表時代を笑えない。
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日経新聞より  らくせき

2019年04月20日 09時04分25秒 | Weblog
株式市場で日銀の存在感が一段と大きくなっている。
日本経済新聞の推計では、日銀は2020年末にも公的年金を上回り、日本最大の株主となる見通しだ。
機関投資家・外国人が主導して発展してきた日本の資本市場は、中央銀行が主導するこれまでにない段階に入る。

なんか大丈夫かな・・・。戦費を国債でまかなっていた頃と似て来た。
天皇の拝礼する人はテレビが積極的に映すし・・・100年程、昔へ戻っている感じ。
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日韓は仲良しらしい?   らくせき

2019年04月19日 08時57分54秒 | Weblog
日韓関係は急速に悪化していると言われる。
しかし、ソウル・明洞(ミョンドン)をはじめとする観光地では、日本人客を以前より多く目にする。
知人の韓国人には、近々日本に旅行に行くからと、日本での観光スポットやお土産について聞かれる。
日本を昨年訪れた韓国人は750万人を突破し、韓国を訪れた日本人も前年比27.6%増えて300万人に迫った。
両国間の往来はむしろ活発化しているのだ。

日韓関係を巡る政治と街の人々の肌感覚とは違うという毎日新聞の記事です。
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アメリカの小国蹂躙例・ニカラグア   

2019年04月19日 00時44分06秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 過去記事の再掲です。一つ前のエントリーへの補足解説目的で。


【 アメリカの小国蹂躙例・ニカラグア   文科系  2016年07月15日

 ずっと連載のように紹介してきたノーム・チョムスキー「覇権か生存か」のなかから、アメリカのニカラグア内戦工作の下りを紹介してみたい。戦後世界政治史において最も酷い小国への所業の一つと国連内部で語られてきたものだ。中南米ではそれほどに有名な、小国への内乱工作と政権打ち倒しという長く続いた世界史的大事件である。国際司法裁判所(仲裁裁判所ではないことにご留意願いたい)の裁定結果や賠償命令の完全無視が鮮やかすぎるほどである。こんなことをするなら国連を出ていくべきだろう、手前勝手にただ利用したいだけが動機で入っている、などと誰しもが思うのである。つまり、利己的利益からの悪用目的なのだ。米が拒否権を最も多く発動したのがイスラエル問題であるということでも、この事は明らかなのである。アメリカにイスラエルへの介入問題がなければ多分、アフガン戦争、イラク戦争、シリア内乱、イスラム国建国、難民問題、イギリス離脱問題等々は起こらなかったはずだ。では・・・

『1986年に、国際司法裁判所はニカラグアの言い分を認め米国政府の主張を退けた。そして「不当な武力行使」──平たく言えば国際テロ(アメリカがニカラグアに対して 文科系注)──に関してワシントンに有罪判決を下した。判決はニカラグアによる限定された告訴以外にも及んだ。以前に下した判決を、より強い調子で繰り返しながら、同裁判所はいかなる形態の介入も「政治、経済、社会及び文化制度の選択と、政策策定」の主権に干渉するものであれば、それを「禁ずる」と裁定した。(中略)
 この判決には、見るべき効果はほとんどなかった。国際司法裁判所は、ミューヨーク・タイムズ紙の編集者から「敵意ある法廷」と非難され、それゆえに国連と同様、問題外だとされた。(中略)
 その後のコントラ(米国が支援したニカラグア反政府軍 文科系注)への援助は、一様に「人道的」とされ、同裁判所の明確な裁定を侵害した。(アメリカ 文科系注)議会はただちに一億ドルの追加援助を承認し、同裁判所が「不当な武力行使」と非難した行為を助長した。米国政府は「非現実的な法律重視の手段」を阻止し続け、ついには暴力によってそれを終わらせるのに成功したのである(つまり政権を転覆させた 文科系注)。 国際司法裁判所は更にアメリカに賠償金の支払いを命じ、ニカラグアは国際的な監督のもとで、損害額を試算した。見積額は170億ドルから180億ドルの間だった。賠償請求は勿論、論外だと(米国政府に 文科系注)片付けられた。』
(ノーム・チョムスキー「覇権か生存か」集英社新書版144~145ページから)

『国際司法裁判所の命令をアメリカが拒否したことを受け、ニカラグアはーーそれでも暴力的な報復や、テロによる脅しに訴えようとはせず問題を国連安全保障理事会に託した。安保理は国際司法裁判所の判決を支持し、全ての国に国際法の遵守を呼びかけた。ところが、アメリカはこの決議案を拒否した。ニカラグアは国連総会に訴え、そこでも同様の決議が採択された。アメリカとイスラエル、エルサルバドルだけが反対した。翌年には別の決議が通り、この時反対したのはアメリカとイスラエルだけだ。こうしたことはほとんど報道すらされず、この問題は歴史から消えている』(同上書149ページから)

 有罪と判定されても何もしない。賠償命令も無視して、逆に反乱軍支援金を予算化する。国連海洋法条約には入っていない。ご自分は縛られるのが嫌だということなのだ。こんなに悪用だけ目的が明らかならば、何のための国連や国際司法裁判所なのか。むしろ国連を出ていくべきだろう。出て行けと言うよりも「いるなら従うべきだ」と、そう言いたいのである。ただ米国は絶対にでては行かない。イスラエル問題のように、嫌な決定にどこよりもどんどん拒否権を出すために。「国際的大義名分」が欲しいときが常に起こってくるとも知っているからなのでもある。つまり、イラク戦争開戦では国連のお墨付きが欲しくて果たせなかったのだが、このように国連悪用だけはしたい! 】

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間接戦争で大忙しのアメリカ  文科系

2019年04月19日 00時25分04秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 18日朝の新聞にまた、「中米ニカラグアで反政府デモ1年、政情不安続く!」。
 この反政府派デモと政府のデモ禁止令の悪循環は、シリアやベネズエラと全く同じ既視感である。しかも、その国がニカラグアとあらば、この国の歴史から思い出すのはアメリカの内乱工作。新聞記事文中にも、最近はもう隠しもせずにこんな一文も見られた。
『トランプ米政権はベネズエラ、キューバとともに反米3カ国を「圧政トロイカ」(ボルトン大統領補佐官)と呼び、経済制裁を強めている』

 シリア、ベネズエラに続いて、またか、と思う。シリアだけでは失敗に終わった「アラブの春」も、今思えば全てCIA工作がネットで広がって、始まったものと言うのが、世界の有力説になっている。そして、これらの国の今は、どこもぐちゃぐちゃ。16年にはアメリカがやったとはっきりしているトルコ革命未遂事件も起こり、親米国だったトルコが一挙にロシア寄りへと傾いて行った。従来通りアメリカからでなくロシアから最新型ミサイルを輸入して、アメリカの攻撃に備えようという態度にまで転じているという結末だ。エルドアンが得た、「アラブの春」からの教訓なのでもあろう。

 直接間接の世界金融搾取から、貧しい国の食料も高騰して、先進国でさえ多すぎるようになった失業者と、やり場のない不満が世界に充満している。それを良いことに、アメリカはこれに火を付けまわって、貿易制裁によるさらなる窮乏・争乱化と、こんなことばかりやっている。間接戦争の連続ではないか・・・。
 なぜなんだ!

 イラク、リビア、イランにベネズエラ、シリアと絡んでくれば一つには世界石油独占価格が絡む事は確かだ。石油埋蔵量で言えば、手元のちょっと古い2012年の資料だが、それぞれこんな順位国になるのだから。5位、9位、4位、1位、32位。が、他は武器輸出と金融利益狙い? 物貿易ではすっかり大赤字のアメリカが今頼れるのは、原油と兵器と、そしてどこか金融投資が緊急の渇望ということなのだろう。

 世界が、アメリカ商品のボイコットを談合すればよいのだ。F35やボーイング、オスプレイの欠陥を発表し合って、さらには、アメリカによる自国の過去金融搾取を恥ずかしながら語り合って、アメリカ・ボイコット談合・・・、そして、制裁。そうでもしてこの国を大人しくさせなければ、その非親米小国の各個撃破政策から、やがては米中ロ戦争? 国連もすっかり有名無実にされてしまい、これを押しのけた大米帝国による世界統一、とはいかないだろうが・・・。赤信号、みんなで渡れば怖くない。国連でどこかの国がそんなイニシアティブを取らないかな!
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シティ敗退、CL決勝は「イングランド対決」  文科系

2019年04月18日 12時40分41秒 | スポーツ
 マンチェスター・シティが、同じプレミアのトットナムに敗れた。0対1と4対3の、アウエーゲーム差で。この結果は、日本サッカー雀には意外すぎたに違いない。準決勝は、キャプテンが弱冠19歳という途方もないチーム、アヤックス(オランダ)が相手だ。

 一方の準決勝は、リバプールとバルサ。リバプールは、モウリーニョの下でCLを制したことがあるポルト(ポルトガル)を2ゲーム合計6対1で大破させての出場。初戦2対0、次がリバプール・アウェイで4対1だから、CL準決勝としては途方もない圧勝と言えよう。

 さて、優勝はどこか。イングランド同士の決勝対決になり、リバプール優勝と観るのが妥当だろう。今のイングランドとスペインでは、日常の闘いの厳しさに数段の差があると考えるからだ。なんせ、CLベスト8に4チームとも勝ち残り、準決勝に2チームが残っているような国、リーグが、今のイングランドだ。リバプールの猛烈に速いプレス、体当たりに、他人が触れもしないメッシが困惑している姿さえ、目に浮かぶ気がする。
 メッシのバルセロナで何回もCL上位に出場、優勝もしたうえに、ドイツ、イングランドでさらに一段上へと監督実績を積んだグァルディオラでさえ手こずっているのが、今のリバプールである。

 なお、リバプールとバルセロナと言えば、今話題になっているのがこのこと。リバプールの両エースの一方、モハメッド・サラーがリバプールを出たいと言っているようだ。しかもその際の受け入れ相手として真っ先に名が上がっているのが、バルセロナ。こちらは、「嫌われ者」ネイマール(彼に行く先があるだろうか?)と違って、バルサから大歓迎されるだろう。メッシの次のエースという含みになるだろうが、近年世界一の激戦地プレミアの中で55ゲーム・44得点の実績とあっては世界のエースになったも同然だが、このサラーが他のチームに行って彼の良さを果たして出し切ることができるだろうか。リバプールの闘い方がそれだけ特殊だということだが、サラーのシュートの威力と正確さ、そしてその瞬間スピードは非常に評価が高い。ストライドで走るエンバペと違って、ピッチが猛烈に速い選手である。
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サッカーを監督で観る   文科系

2019年04月17日 08時35分04秒 | スポーツ
 サッカーの強さは、というよりも野球などのように攻守が機械的に入れ替わらない集団球技では、強さの保証は何よりも監督。もちろん、相手比較である程度カネがあることもそれに継ぐ条件になるが、その理由はこういうことだ。

 何よりもまずこれ。世界的水準でカネがあるチームならば、メッシかクリロナがそこに行くよりも、グァルディオラかクロップが行く方が、世界一になる可能性が遙かに高いということである。
 次いでこの事。1980年代後半に登場したミランはアリゴ・サッキ監督とか、今のクロップとかのように、突然世界的強豪を生み出すような監督が出て来ることがある。

 ちなみに、この2人とも名選手ではなかったから、選手経験は関係ない。もっとも、名選手から名監督になる人もいる。クライフとか、グァルディオラがこれに当たるが、名選手が名監督になれるというわけでは全くない。

 そして、ここに来てやっと日本も世界水準の監督が育ってきたかと思う。その理由はこういうことだ。
 ヨーロッパで名を上げた監督や世界的名選手を呼んでいる中国チームを、日本が「改めて」負かすようになったことだ。鬼木、大岩、城福、長谷川、風間に、日本で育ったチェキジュ、ユンジョンファンの朝鮮人監督も、この水準に入るだろう。まだまだそれぞれ、偏りというか、アジアという地方性があるのは仕方がないことだが、彼らはヨーロッパに行っても一定観察、分析、対策の時を与えられれば立派にやれるはずだ。それだけの総合的チーム分析力と、対策練習方法を身につけていると確信するのである。

 ちなみに、日本のサッカーファンはJ派と西欧・南米派とに分かれるようだが、これはアホらしいことだと、僕は観てきた。前者は我がチームだけ、後者は「高度なサッカーが観たいから、日本など・・・?」。

 先のロシアW杯ベルギー戦に見えたように、日本は10年もしないうちに西欧に追いつく。選手でこれを示しているのが、このような方々である。
 はじまりがヒデと小野で、最近では、長谷部、長友、内田、岡崎、香川、吉田、中島、酒井宏樹・・・・。ヒデを見習った日本得意の攻撃的中盤、俊輔、遠藤、小笠原、本田、憲剛もこの水準に入るはずだが、それぞれ時と場に恵まれなかった。

 日本選手の世界水準化に、日本人監督の世界水準化がやっと追いついてきたということだろう。
 
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リバプール・チェルシー戦を観た   文科系

2019年04月16日 14時16分25秒 | スポーツ
 昨夜表記のゲームを観た。2対0でリバプールの勝ち。それも、マネとサラー両エースのそろい踏みだ。マネは、後半6分、ゴールに向かって右端からの高いクロス・ボールをファーの左ポスト近くに高々と跳んでヘッド。その2分後には、サラーが右サイドから内側に切れ込み、猛烈なロングをファーサイドに突き刺した。いずれも、GKにはノーチャンスという、激しいシュートだった。

 このゲームでは何よりもまずこのこと、4月5日エントリーのトットナム戦観戦記と比べると、かなり緩いゲームだった。なにしろ、チェルシーがボールを取れず、ほとんどチェルシー陣地奥3分の2で闘っている感じなのだ。なぜか。チェルシーがボールを奪えても、すぐに相手数人に囲まれて、ボールをつつかれたり、あらぬところに転がさせられたりして、そこにリバプール選手が先に駆け寄っていたりが多くて、奪われてしまうからだ。流行用語で言えば、「ポジショナルプレー」、その都度のボールの位置に対するリバプール選手らのポジション取り判断がよいという以外にないだろう。トットナム戦よりもこれが数段上回っていたということか。ということは、トットナムがやはり強いのだ。先日のCL準々決勝第1レグでマンCを負かしたように。

 チェルシーではやはり、アザールが頭抜けていた。リバプール相手に孤軍奮闘という感じで、敵DF陣にも常に挑戦的に、突っかけていた。流石に凋落レアルが、再生の星として渇望して来た選手だけのことはある。がこのレアルのターゲットも、アザールからリバプール・マネに替わってきたかというニュースも入っている。

 それにしても、リバプール選手らのダッシュ力、スプリントは何故あーも続けられるのだろう。あれだけ押し寄せられ、囲まれて、自由が奪われたら、相手は恐怖を感じるだろうなと思ったほどだ。あれを観ると、Jリーグはまだまだ改善の余地があると希望が湧いてくるちなみに、広島の城福浩監督がクロップ信奉者だと最近知ったが、彼はリバプールのゲームをすり切れるほど観ているにちがいない。それが、去年からのサンフレッチェ復活の原動力? 城福監督と広島は、まだまだ伸びていく!

 この勢いを観たら、準々決勝第1レグまで進んでいるCLは、リバプールの優勝ではないか。日本の専門家は皆スペイン好きなせいか、グァルディオラ・シティを押す人が圧倒的に多いように思うけど。それとも、シティが意外にも、当面の相手トットナムに敗れたりして。先日のリバプール戦を観ていると、このチームも今は絶好調! 吉田麻也の師匠でもあったマウリシオ・ポテチーノ(世界サッカー史に残る名監督を出してきたアルゼンチンの人だったか)は今なお、どんどん監督力を高めている感じだ。 
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ますます面白いJリーグ!   文科系

2019年04月16日 10時52分45秒 | スポーツ
 この6日に「Jサッカー、川崎、横浜、広島、名古屋が面白い!」をエントリーしたが、第7節を終えて、Jリーグはさらにますます面白くなって来た。それも、手前味噌ながら、上で僕が予想した通りの展開で。

 まず、広島が首位で、東京が2位だ。大分は例外として、名古屋、横浜が続く。浦和は落ちたままだろうし、東京にあまりなかったような惨敗をしてその長谷川監督に「どうも鹿島は疲れていたようだ」と言われた鹿島も、今後の雲行きがちょっと怪しい。ただ、この鹿島と、特に川崎は、やはり上がってくるだろうと、これはきちんと書いておきたい。何せ、若い選手がどんどん育っていて、チームに溶け込んでくるのだから。

 それにしても、広島のこの強さはどうだろう。失点が少なくて勝って来たチームが、このところ得点を増やし始めている。サッカー特有の攻守の良循環という勢いで、得点まで好調になってきた。得点した時には、多人数かけて敵ゴールに殺到しているのだ。このチーム、やがて去年同様に後半は落ちていくのだろうか? いや、今年はちょっと違うと思う。どうも、城福監督らが特別な努力を重ねてきたらしく、若手が鍛えられて選手層が厚くなっているから、この攻守にわたる走力は去年と違って最後まで続きそうになってきた。なんせ、今節では、Jリーグ走行距離では1位のチームになって、そのベスト10選手のベスト3までを広島勢が締めているという勢いだ。これに若手が育っていることを考えれば、広島恐るべしなのである。

 最後の一言。もう外国人監督にたよる時代でもなくなったようだ。ポステコグルーは例外として、他は弱いままだろうと思う。監督に頭と手腕があるならば、日本人のメンタリティーを押さえられる監督でなければ良い成績は上げられないだろう。ポステコグルーはちょっと違うが、オーストラリアという国は非常な多民族国家とあって、そういうメンタル管理が出来る国、国民性なのかも知れないなどと思ったりしている。
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大田光・安倍晋三の珍問答   文科系

2019年04月15日 14時48分53秒 | 文芸作品
 あれあれ、安倍首相がこんな事を叫んでいる。日本国憲法前文の「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、(われらの安全と生存を保持しようと決意した)」を読み上げてこう非難して見せた。
「他力本願ですよ。ベトナム戦争、イラク戦争など戦争はいっぱい起こっているのに・・・」。ふと開いたネット記事からの、爆笑問題の二人、特に太田君と安倍首相との質疑応答だ。ここから、こんな討論が始まっていく。

安倍「イラク戦争は、日本は支持した。その判断自身は間違っていなかった」
太田「アメリカは、間違っていたと言っていますよ」

安倍「大量破壊兵器があるというその情報は間違っていたけど、戦争判断自身は間違っていなかった」
太田「間違った情報による判断が正しい? 人がボコボコ死んだんですよ!」
安倍「そりゃ非常に残念ですが・・・」
太田「残念? 間違った情報でボコボコ殺されたんですよ!」

安倍「いや、大量破壊兵器がもしあったら・・・」
太田「なかったんですよ。可能性で戦争してもいーんですか」
安倍「そりゃそうですよ」
太田「あいつ人相危ないからで、殺してもいーんですか?」
安倍「そりゃ、苦しい判断がありますよ」

太田「苦しいのは死ぬ方ですよ」

 どうだろう、どっちが良識的な会話をしているか?「間違った情報で人がぼこぼこ殺された戦争をするという判断も、それを支持した日本も、間違っていなかった」等と、口を滑らせて言い切ってしまったのが不用意に過ぎたということだろう。普通は、こんなおかしな論理は実際にそう思っていても口には出さないものだ。それをあっさりと言い切ってしまったところに、しかも、国会と違って事前質問通告も答弁補助者もなくって一対一を逃げられない生放送場面でこんなことをしたその態度に、彼の思考力の危うさが現れている。そこをつかれて思わず「そりゃそうですよ!」という、意味のないイラク戦争肯定論を叫び続けた、この醜態! 同時に、この首相が、不用意とも思わず日頃をこんなふうに過ごしてきたお人だとも、端無くも示してしまった。これは、日頃イエスマンばかりに囲まれてきた証拠にもなる。

 また、憲法前文への「他力本願」批判も、その根拠が社会ダーウィニズム丸出しの「戦争は現実なのだから(備えることこそ、国家肝心の仕事!)」論とあっては、俗っぽすぎて人間らしい政治理念が毫も感じられない。「戦争はない方がよい」と口では言いながら、「戦争現実論」の例として彼があげたのがベトナムとイラクとあってはいずれもアメリカの戦争であって、そのアメリカをぴったりと支えてきた彼だからこその「戦争現実」は、自らも造り出して来たものと言える。こうして、日本の首相という世界有数の影響力を活用してこういう現実世界をもたらしているその人が、そういう自覚も皆無だと示しているわけだ。つまり、「残念」「ない方がよい」も正真正銘の嘘になってしまった。

 大変情けない首相を頂いたものである。それも、選挙5回に勝ったぞと、こんな彼に国会で豪語させているのである。この程度の国民からこそ、この程度の首相が生まれると観るしかないのだろう。トランプ誕生のアメリカと同じで、先進国の選挙結果も実にいい加減なものになった。世界全体がどんどん超格差社会になって、選挙結果も金次第になっているからである。アメリカの大統領選挙は、1兆円かかるようになったと伝えられた。

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中ロに対する米ギャング経済学   文科系

2019年04月15日 10時34分42秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 今回も「マスコミに載らない海外記事」サイトからの転載。「マスコミに載らない」という名前の通りで、本当にこんな記事は日本のマスコミには載らない。アメリカはもはや、自由と民主を踏みにじる外交、国際経済行動をやっているという告発である。ヒトラードイツと、もはやどこが違うというのだろう。戦争し放題、他国の財を掠め取る、そんなことばかりに励んでいる。
僕は、以下の記事に全て賛成するものではないが、ここに書かれたアメリカ外交の姿は、いつも紹介してきたチョムスキー「覇権か生存か アメリカの世界戦略と人類の未来」そのものだと読んだ。だからこそ以下文中末尾にも紹介されてあるように、著者はいわゆるウォール街占拠運動に関与してきたのであろう。


ファーウェイとノルド・ストリーム2に対するギャング経済学
2019年4月4日 Caleb Maupin  New Eastern Outlook

 多くのアメリカ人は、その世界観とアメリカと他の国々との関係を、大学の「経済学入門」課程レベルの内容を基に理解している。彼らは世界市場は、異なる国と国際企業が「競争する」「自由競争」と見なしている。彼らは、消費者や共同体や国が、最も良い製品やサービスに「ドルで購入して投票して」報酬を与えると信じているのだ。

 ジョージ・ソロスやアン・マリー・スローターのような連中が理想的な「開かれた国際市場」と擁護する妄想的おとぎ話では、彼らが最も良いというだけの理由で、アメリカと西側諸国が優位な地位を占める。欧米金融機関と国際企業に提供される製品やサービスは他のどこで見つかるものより全く優れているのだ。この妄想的おとぎ話は、欧米金融エリートが何らかの方法で、世界の「発展」を応援すべく指導、支援し、いつの日か、より優れた西のようになるようにするとまで言うのだ。

「エネルギー支配」計画

 この西の物語が偽りであると主張する人々にとって、アメリカ政府の最近の行動ほど優れた証明はあるまい。ノルド・ストリーム2パイプラインへの対応と、ファーウェイ・テクノロジーズに対する最近の弾圧は、アメリカ政府が国際企業間の自由競争に全く興味がないことを証明している。

 ノルド・ストリーム2は現在建設中で、今年遅くに完成する予定の天然ガスパイプラインだ。それはロシアの国営エネルギー企業が、欧州連合の国々に天然ガスを売るのを可能にする。ロシアの天然ガスの利用が拡大し、便利になるので、様々なEU加盟国の人々はノルド・ストリーム2の建設に賛成だ。

 だがアメリカでは、ロシアからドイツや他のヨーロッパ諸国の人々がガスを購入しないよう要求することに関しては、トランプ政権に民主党の「抵抗」指導部も加わっている。彼らは愚かにもヨーロッパ社会に、アメリカからガスを購入し、大西洋を越えて輸入するよう要求しているのだ。

 中央ヨーロッパにとって、地球の反対側から天然ガスを輸入するのは、ロシアから国境を越えて、ただポンプで汲み出すより遥かに費用がかかると理解するのは単純な常識だ。だがヒステリーの雰囲気で、ロシア政府に対し、あらゆる種類の無関係な問題と主張を発動し、アメリカの政治支配体制は、ヨーロッパ大衆に彼らのガソリンを買うよう強要する制裁や他の手段を話し合っている。

 アメリカ指導部が、ロシア政府を人権を理由に批判しているが、偽善は明白だ。斬首し、拷問する残忍な独裁国サウジアラビア王国が、エネルギーと武器両方でアメリカ第一の共同パートナーのままだ。ジャーナリストのジャマル・カショギの残忍な殺人はこの関係を変えず、トランプは、もっぱら金銭ずくで公然と弁護した。

 アメリカのエネルギー企業のために金をもうけ、彼らの競合ロシアエネルギー企業を弱めるという狙いを慎重に隠すことさえしない。ホワイトハウスは政策基盤として、公然と「エネルギー支配」を語り、アメリカを本拠とする石油やガス企業の利益を守ることが、あからさまな意図であるかを語っている。

 反中国スマートフォン戦争

 どこで彼らの石油とガスを購入するべきか自由に決められないドイツ人やベルギー人や他のヨーロッパの人々は「彼らのドルで投票する」のだろうか? どうやらウォール街独占企業の地政学ライバルが関係している場合「開かれた国際体制」は、それほど開かれていないのだ。

 同じ論理と手法は世界中で、強要するのに使われ、中国からファーウェイの通信技術を購入しないよう要求している。ファーウェイは世界最大の通信製造業者だ。それは鄧小平が開始し、今習近平が調整し、展開している市場社会主義モデルの不可欠な部分だ。

 ファーウェイ電話は、バッテリー寿命より長く、より良いカメラがついていて、アメリカ製より耐久性があり、より長く使えるハードウェアだ。世界中、インド、中南米や様々なアフリカ諸国のような場所で、大衆はこれらのより安く、より品質が高い電話を買う選択をした。ファーウェイ製品が地球全体や中国内の益々多くの消費者の選択になるたにつれて、アップルの利益は最近下落している。

 だが、かつて世界中の人々が「彼らのドルで投票する」よう要求していたアメリカ指導部は、より良い電話を選ばないよう要求している。もし自由市場論理が適用されていれば、アメリカ指導部は、アメリカ製造業者に、より競合力をもつよう強く促すはずだ。ところが、アメリカ指導部は、ポーランドとブルガリアのような国がファーウェイ技術と事業をするのをやめるよう要求し続けている。

 アメリカ国内で、アメリカ人は「彼らのドルで投票して」中国製造業者に発表された最先端技術の新電話P20の購入を阻止されている。国家安全保障の危険とされるもののかどで、中国のあらゆるスマートフォンが禁止リストに載っている。

 アメリカ指導部は、これら組織が中国軍と政府と結びつきがあるから、中国企業が生産するスマートフォンは国家安全保障に対する脅威だと主張していする。アップルやAT&Tやベライゾンや他のアメリカ通信企業がアメリカ諜報機関と彼らの関係をあえて隠そうとさえしないのだから、この主張はむしろ偽善だ。

 アメリカの電話が「軍事的」あるいは「諜報」上のリスクでないのは、中国の電話と同じだ。実質的にファーウェイ・テクノロジーを作った中国共産党が、この巨大電気通信会社と関係ないと主張するよう期待するのは奇妙な要求だ。

 紳士的なビジネスではなくギャング行為

 彼らが提唱する「自由競争」や「開かれた国際体制」よりも、アメリカ指導部は、マフィア・ギャングの経済哲学をより多く受け入れているように思える。みかじめ料徴収を操作する犯罪者とほとんど同様、アメリカ指導部は世界中のある特定の国々が自分の「縄張り」だと主張する。彼らは自分たちの競争相手を締め出すよう要求し、彼らの邪魔をするだろう人々に、急いで「しわ寄せ」を押し付けようとする。

 アメリカ指導部は、まさしく自ら世界中に広めたイデオロギーをくつがえしている。彼らは実は「自由競争」が妄想で、政府は、裕福なご主人たちのために、物事を不正操作し、ご主人の命令を実行しがちなことを暴露しているのだ。発展途上国や潜在的な競合相手を抑止するために「自由競争」の呪文を使うが、アメリカ指導部はそれを進んで無視し、ウォール街やシリコンバレー独占企業の世界の「縄張り」を守るのだ。

 アメリカの最も裕福な連中は個人的な犠牲と聡明さだけで富を得たわけではなく、欧米世界は紳士的な商習慣で世界における地位を得したわけではないというのが真実だ。

 21世紀、世界中の国は、これら自由市場妄想を拒絶し、貧困を排除し、生活水準を上げるべく国家統制経済を作るために彼ら自身の政府を利用した。ファーウェイは、ロシアのガスプロムやロスネフチのように、冷戦後の政府が、国民のために経済を支配すべく行動した経済革新の結果なのだ。

 欧米諸国の労働階級の多くの人々と異なり、ロシアと中国の国民は、これら超企業を築き上げる過程で取り残されることはなかった。ユーラシアの2つの超大国が20世紀に出現するにつれ、自由市場のおかげではなく、社会主義の中央計画組織のおかげで、何百万もの人々が貧困から引き上げられたのだ。

 Caleb Maupinは政治評論家で、ニューヨークに本拠を置く活動家。彼はボールドウィン-ウォレス大学で政治学を学び、ウォール街占拠運動に触発され、関与した。オンライン誌New Eastern Outlook独占記事。
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小説紹介  重い家族    文科系

2019年04月14日 13時36分46秒 | 文芸作品
   小説 重い家族   S・Yさんの作品です


 黄昏とは、人生の遥か先のこと、ノスタルジーなイメージが漠然とあった。
 例えれば、色とりどりの枯葉舞う公園のベンチで、晩秋の仄かで柔らかな日差しを浴びながら特に話すこともなく座っている老夫婦のようなもの。いろいろなことがあっただろう夫婦の歴史は、乗り越えたのか、水に流したのか、諦めたのか、もはや過去のことはどうでもいいといったような穏やかさだ。杉本信子はいずれ訪れるだろうそんな老後をぼんやりと想像していた。

 ところが突然といった感じにそんな時は来た。正確には歳月が流れ、いつの間にか来たのだろうが、信子にはあっという間に人生の晩年に差し掛かってきた気がする。そんな現実に、今、信子は戸惑うばかりだ。そして、現実は想像とはかけ離れている。なんでも往々にしてそうであるように、そうそう思い通りにはなにごともいかないものだ。共に七十代の信子と夫の良夫は表立ってはごくごく普通の夫婦である。波風が立っているようには
見えない。それは世間体というものがあるからだが、逆にそういったしがらみに縛られていたから、夫婦の形態がとれていたのかもしれない。今となっては、信子は自分を納得させるためにもそう思ったりもする。まあ、良夫との夫婦関係にも致命的な問題が生じなかったということもある。
 それでも日がな一日中、定年退職した良夫と顔を突き合わせていると、奥歯が浮くような言いようのない苛立ちに襲われる。日によっては彼のやることなすことが気に障る。良夫の信子に対しての物言いもどこか上から目線なのも気に入らない。幸い、信子は友人やスポーツクラブの仲間と出かけることが多く、彼女たちと愚痴を言いあったりして、うっぷんを晴らせる場があり、そんな状況に満足している。しかし良夫はほとんど出かけない。彼はどこで憂さ晴らしをしているのだろうか、と時々思うが、信子の知ったことじゃない。第一、彼は信子ほどストレスを感じていないような気もする。現役時代、会社の人間関係や仕事上のストレスに比べれば、わが家はこの上ない安泰な居心地のいい場だとも感じているような。
「私たち夫婦は黄昏の時期に入ったのか…」ぼんやりと考え込む。庭の草本や季節の花々を眺めながら、様々な思いにとらわれることが多くなった。意識して人生を振り返っているわけでもないのに、なぜか過去のことが思い出されてくる。
「仕方ないか。これから先よりも、過ぎた時間のほうが遥かに長くなったんだもんね」信子の独り言も増えた。

 信子と良夫は夫婦になって五十年近い。性格は合っているほうではないと互いに認め合っている。結婚なんてしてみなければわからないことばかり。二男一女の三人の子どもを育てるのと、結婚当初は気難しい姑に小姑もいて、良夫の性格まで深く考える余裕もなかった。酒、女、賭け事、それらの悪癖と、暴力を振るわなければ良しとする、が当時の結婚の判断基準だった。
 -だから、何なのよ。今さら何をどう思おうと、どう考えようと、それがどうしたっていうの? すでに孫が何人もいるお婆さんなのよ、あなたは。そうやって誰もが人生を終えていくのよ。確かに少し寂しいわね。でも、あなたは老いることにちょっと往生際が悪いわよ─
 そう自分の中で繰り返される自問自答。そして、信子白身が一番わかっていることは、誰と結婚しても似たような思いを抱くだろうということだ。

 この地へ嫁いできて半世紀近い。下町の古い習性が色濃く残っているような土地柄だった。
 信子とほぼ時を同じくして隣家にも嫁いできた女性がいた。名を月子さんといった。大柄で色白、器量は人並みだったが、はきはきした働き者のお嫁さんというイメージだった。月子さんは直に男児ばかり三人の子どもに恵まれた。当時は互いに嫁という立場から、家に縛られて、今のように自由な自分の時間はほとんどなかった。
 たまにスーパーや学校行事で会った時に立ち話をするぐらいで、ランチやお茶をすることもなく、互いの生活に立ち入った話もしたことがない。とはいえ、信子の二階の部屋からは隣家のベランダや広い庭がよく見えるので、月子さんが大所帯の洗濯をしたり、布団を干したり、草むしりをしたりと、くるくるとよく働いているのを何十年も見るともなしに見てきた。

 月子さんの住む隣家は、現在は七十歳ぐらいの且那さんに、九十代の舅、姑と、四十歳前後の三人の息子が暮らしている。つい最近まで、旦那さんの弟で六十代の障害のある人も同居していたが、どうやら施設に入った様子で見かけなくなった。それでも今も大人七人の衣食住の世話で月子さんは毎日忙しそうだ。隣家はこの辺りでは土地持ちの資産家で車も数台あるが、月子さんは運転ができないらしく、買い出しはいつも自転車である。不思議なのは旦那さんの車に月子さんが同乗していたのを一度も見たことがないことだ。
 隣家の九十代の爺さん、婆さんはイケズな老人たちで信子は昔から好きではなかった。
 十数年前のことだが、信子が回覧板を隣家に届けに行った折、偶然通りがかった見知らぬ老人が隣家の真ん前で仰向けに転んだまま動けなくなったことがあった。信子と月子さんは慌てて、頭からの出血にタオルを当てたり「大丈夫ですか?」と声掛けをしていたりしていたが、隣家の爺さん婆さんは玄関で突っ立って眺めているだけ。信子は急ぎ自宅へ引き返して救急車の手配をした。救急車が来るまで倒れた老人に付き添おうと近づくと、月子さんが爺さん婆さんに何か言われている。
「タオルなんか持っていくな。余計なことをするんじゃない。関わるな」と聞こえた。信子は耳を疑った。こんな身勝手な人って、ほんとにいるんだ。
 そういえば以前にも老いた迷い猫が隣家の軒下でうずくまっていたら、婆さんが
「こんなところで死なれたらかなわん。しっしっ!」と言いながらホースで水を掛けた。それでも動かないとみると、猫に新聞紙を被せ車の往来のある道路へ放り出したことがあった。偶然、窓から目撃した信子は車に轢かれる直前に猫を保護して病院へ運んだことがある。年の瀬の木枯らしの吹く寒い日だった。老猫はその後一週間ほどで亡くなった。
 月子さんの旦那さんもイケズな親に似て変わり者だ。厚かましい禿オヤジ、と信子は胸の内でそう呼んでいる。今でも町内の行事には一切参加をしない。信子たちにも挨拶もしない。
 小学生だったころの隣家の三人の男の子たちは元気で活発な子たちであったが、信子の家の前の道路でサッカーやドッチボールをするので、信子の家にボールが飛んできて花壇の花や植木鉢が壊れたり、干してあった傘が折れたりしたことは幾度もあった。彼らと一緒になってサッカーをしていた禿オヤジはボールが信子のうちの花壇に入ったりすると子どもを置き去りにしてさっさと自分だけ帰ってしまう。「お父さん、ボールは? どうするの?」という子どもたちの呼びかける声も無視。一度だけ、たまたま庭でその場に居合わせた夫の良夫が 「他人の家のものを壊して謝罪もなしか?」と大声で言うと、「弁償すればいいんだろ! いくらだ?」家の中から顔も出さず、禿オヤジの声だけが返ってきた。
 こちらの常識が通じない人たちだとは今までの様々なことから信子は学んでいた。だから大半のことには目をつぶってきた。というより、信子も根が小心者なので、近所で面倒な諍いを起こしたくなかったのだ。それと一番の大きな理由は子どもたちのことだった。信子の子どもたちは押し並べてスポーツが苦手でおとなしい。どちらかというと引っ込み思案だ。それに比べて隣家の三人の男の子たちはスポーツ万能で活発であった。
 朝の集団での登校時、彼らにいじめられないかと信子は不安で隣家には文句は一切言わないできた。子どもは時に残酷で、嫌がらせをしても相手がおとなしいと反応を楽しんでエスカレートする場合がある。信子はそれらしいと感じると、下校時に校門前まで犬の散歩のふりをしてわが子を迎えに行ったりもした。

 しかし、それもこれも昔のことで、今では信子の子どもたちも人並みに大学を出て社会人となり、それぞれに家庭を持った。
 隣家の月子さんは相変わらず買いだしで、大量の食材や日用雑貨を自転車の前後に積み込み走り回っている。月子さんは信子よりは少し若いがそれでも未だに大勢の家族の世話はきついのではと、人ごとながら気にかかってしまう。
 イケズな爺さん婆さんは九十半ばになってもしっかりしていて、これも相変わらず口やかましく、文句が多い。さすがに足腰は弱ってきて、爺さんも車の運転は止めさせられたようだが、代わりに、あれが食べたい、これが欲しいと月子さんへの注文が増えたと、月子さんがときおり信子にぼやく。
 先日偶然、買い物途中に月子さんと会ったときだった。いつもバタバタと忙しそうな月子さんが珍しく彼女から話しかけてきた。
「障害のある義弟も施設に入り、義父母も高齢になり、うちの人も古希なのね。それでうちの人も先々のことを考え始めたみたいでね。私に、『お前に遺産分割はしない。他人だから当然のことだ。お前もそれを承知でこのうちに嫁いで来た筈だ』って言うのよ」月子さんは少し興奮気味に顔を赤らめながら言った。
「まあ! よくもそんなことを。半世紀近くも連れ添った奥さんにそんなことを言えたものね。でも大丈夫よ。妻にも相続の権利はあるし、ちゃんと守られている筈だから」そう慰めてはみたものの果たしてそうだろうか、と信子は不安になった。遺産相続の詳しいことはわからないし、あのイケズな爺婆と禿オヤジなら、血縁のある子どもや孫に相続させるように取り図るかも知れない。月子さんの実家はあまり恵まれた環境ではなかったらしく、隣家の爺婆たちは嫁にもらってやったと言っていたという。月子さんは家政婦代わりのようなもんだよ、と近隣の噂で聞いたこともある。
「家政婦のほうがまだましよ…」信子は思わず知らず誰に言うというわけでもなく言葉が出てしまう。家政婦は給金が貰えるし、休日だってある。月子さんのような嫁はタダ働きのうえ、跡継ぎの子どもを産まされる。おそらく今までにも彼女の自由な時間などないに等しいのではないだろうか。夫婦関係もまるで一昔前の主従のような関係にみえる。女性の人格が尊重される時代になって久しいが、未だに月子さんのような立場の人もいるのだ。
「私だったら、とっととあんな家、逃げ出していただろうな…」信子は月子さんをみていてよくそう思ったものだ。

 ところが月子さんには家を出られない事情がある。それは月子さんの重い悩みなのだ。
 元気で活発であった三人の息子たちが引き寵もりなのである。うち一人は数年前になんとかアルバイトができるようになったが、残る二人は全く部屋から出ない二十年来の引き寵もりだそうだ。人の一生とはわからない、信子はつくづくそう思う。
 うちの子だちとは対照的にあんなに元気だった男の子たちが「どうして? 引き籠もりなんかに」まったく理解できない。母親である月子さんにも皆目わからないのだ。子どもの成長を励みに一牛懸命生きてきた月子さんが哀れだ。息子たちはそれぞれに二十歳近くになって外出しなくなり、ついには自分の部屋から一歩も出なくなってしまったという。よりによって兄弟揃ってだ。
 信子の部屋からは隣家の息子たちのそれぞれの部屋がよく見えるが、二十年以上窓の扉も分厚いカーテンも開かれたことがない。そして夜は一晩中灯りが点いている。
「四十歳にもなるいい歳をした大の男の世話をするなんておかしいでしよ? でも、放り出せないのよ。無理に追い出したら、巷でよくあるような犯罪や、事件でも起こし兼ねないかもと… つい余計な不安が先に立ってしまったりしてね」
 だからこの先も息子たちの面倒を見続けなければならないと、月子さんは重いため息をつく。彼女の眉間の皺も深くなっていくようだ。
 信子は彼らのカーテンの閉まった部屋を眺めながら考えてしまう。いいお天気の日は窓を開けて陽ざしを浴びると気持ちいいのに。窓の際で小鳥がさえずっているのが聞こえないのかなあ。若いのに体を動かしたくならないのかなあ。月子さんが自転車の前と後ろに食材を山積みして帰ってくるのを見ると、若者の胃袋サイズの量だから、彼らは引き龍もりでも食欲旺盛で元気に生きているのだ。もう二十年以上も会ったことがないが、彼らが心を病んでいるとしたら可哀そうだとも思えたりもする。

 いつだったか近隣のアパートで人知れず亡くなった老人がいた。発見時、死後十日ほどが経っていた。「孤独死らしい、気の毒に身寄りがないそうだ」そんな噂が飛び交った。そのころ月子さんが「独りで自由に亡くなるだなんて、ほんとに羨ましい」そう呟いたことがある。
あらぬ方向を見つめ、放心したような顔つきをしていた
彼女に信子はドキリとして声を掛けられなかった。我が儘な舅に姑、ワンマンな夫、働きもせずにいつまでも家に居続ける息子たちの世話に明け暮れ、月子さんは明らかに疲れていた。
 たとえ月子さんの体調が悪くても誰も家事を助けてくれない。この先、たとえ死ぬような病気になっても、寝込むことさえできず、家事をできないことを家族に詫びながら、許しを請いながら最期を迎えることになる。一生、死ぬまで気を遣い続ける人生は辛過ぎる。
「もし、月子さんがいなくなったら隣の家の人たちは、きっと路頭に迷うぞ。禿オヤジの慌てふためく顔が目に浮かぶ」夫の良夫も面白そうに言う。
 ―自分のことは棚に上げて─ 信子は呟く。
「月子さん! 孤独死っていいよね。自由に死にたいよね」
 信子は声には出さず、胸の内で月子さんに呼び掛けた。

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「攻め合い」が見逃せぬ横浜・名古屋戦   文科系

2019年04月13日 12時45分16秒 | スポーツ
 今夜、僕にとって興味が尽きない「サッカー醍醐味」のゲームがある。横浜・名古屋戦だ。二つとも、攻めに徹した激しすぎるゲームをするが、今期はその攻めの形がやっと板に付いてきたかして、いずれも好調、上位に付けている。

 名古屋の風間が「受けに回るな、攻め倒せ!」と号砲を鳴らせば、横浜のポステコグルーもまた、こんなゲームをしてきた。フィールドの身方側半分をがら空きにして全員が攻め上がった上に、キーパーまでが高く上がって相手の長いカウンター狙いボールを掠め取るDFへと変身する。そのGK姿は、W杯ブラジル大会のドイツGKノイアーさながら、フィールドの半分を守っている時も多い。今日もそんなゲームをするのだろうかと、いつも不思議に思えるような大胆に闘う。

 ただ、僕が思うに横浜が勝つ。名古屋が走り合いで負けるだろうと観ているがどうだろうか? 横浜は、よく走る守備型のチームには弱いが、攻撃型のチームにはめっぽう強いと見るからだ。そういう闘い方では、名古屋よりも年季も入っている。 
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日本では見られぬ「タイ情勢」   文科系

2019年04月11日 20時07分53秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 これも「マスコミに載らない海外ニュース」から取ったもの。以下に見られるタイについての見解は僕も仮説を立てていたものの一つであって、それなりに検討する価値があるものと愚考する。現在まで30年ほど世界を席巻してきた世界金融による他国家支配という観点からのことである。こういう見方も頭に置いてタイのことを今後さらに見ていこうと改めて心に決めたものだ。僕の目にはタイのタクシンと、ベネズエラのグアイドがダブるのである。いずれも世界金融の傀儡だと。


タイ選挙後、新たな反中国傀儡を見いだした欧米 2019年4月8日
Tony Cartalucci New Eastern Outlook

 欧米の政治的介入はまた一つの深刻な敗北を喫した。今回は東南アジアのタイで。

 人口7000万人、東南アジアで2番目に大きい経済で、北京と一帯一路構想の重要な地域パートナーになっている国を、アメリカとそのパートナーは、3月に行われた選挙で、野党を権力の座につけようと努めた。
 だが軍とつながるバラン・プラチャラート党(PPRP)は、アメリカに後援される野党に、2001年に権力を握って以来の世論調査で最初の重大な敗北を与え、一般投票で勝利した。

 アメリカに後援されているタイ野党は、逃亡中の億万長者、前首相タクシン・チナワットが率いている。彼は一連の汚職事件や人権侵害や不法に権力を強固にする試みの後、2006年に権力の座から追放された。
 以来チナワットは、同様に、司法と軍の介入によって追い出されるまで、2011年-2014年首相として勤めた彼の妹インラック・チナワットを含め、一連の親族代理を通して権力の座に戻ろうと試みている。
 タクシン・チナワットはタイ貢献党の政党の他に「赤シャツ」として知られる強暴な街頭活動団体を維持しており、アメリカが資金供給する非政府組織(NGO)や「学生活動家」集団や欧米商業マスコミ全体による大規模な支持に補強されている。

 最近の選挙で、逃亡者の代理人として違法活動のかどで解散させられるのに対し、少なくとも一つの党を保持する戦略で、チナワットはその政治勢力を複数党に分けた。
 チナワットは、タイ貢献党の他、タイ国家維持党(タイ・ラクサーチャート党)、Pheu Tham党、Pheu Chart党と新未来党も立候補させている。
 アメリカは「新未来党」に「新」代理を見出した。タイ貢献党や、他の党は、代理として公然とチナワットに運営されていたが、新未来党は彼に指名された党ではないと主張しようと試みている。しかしながら、これは真実からほど遠い。

 (通常タナトーンと呼ばれる)億万長者タナトーン・ジュンルンルアンキットが率いる党は、それで舗装チナワットが権力に戻るお膳立てをすることになる、タイ軍の政治からの排除という同じ方針を推進するのみならず、文字通りチナワットのタイ貢献党の隣に党本部を設立した。党にはTRCが選挙に先行して解散した後、被指名者としてチナワットのタイ国家維持党(タイ・ラクサーチャート党)(TRC)が売り込んだ様々なチナワット支持派政治家がいるのだ。
 タナトーン自身亡くなった父親が蓄え、彼の母親が引き継いだジュンルンルアンキット財産の共同継承者だ。ジュンルンルアンキット家は長年チナワットと同盟していた。
 この家族が支配するマスコミが、何年にもわたり、チナワットと彼の政策の確固たる支援者役をつとめた。この支持を、今度は権力の座に戻ろうとするチナワットの試みを支援し、同じ欧米権益の政策を推進し、それから利益を得ようと拡張しているのだ。

 カナダのジャスティン・トルドー首相訪問や、しつこい政権転覆の張本人で戦争論者のジョン・ネグロポンテやデイビッド・ぺトレイアスや、証明済みの独裁国サウジアラビアの代表アル=ワリード・ビン・タラール・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード王子のような連中が議長を務めるコンコーディア・サミット会場での講演を含め、選挙に先だち、タナトーン自身、外国権益と外国の支援を得ようと懸命に努力した。
 タナトーンは、タイ-中国共同インフラ計画を巻きもどし、外国の干渉をかわす能力を損なうことになるタイ軍予算を削減するつもりだと繰り返し宣言している。いずれも長年ワシントンが探求してきた外交政策の夢だ。

 長年の大規模な欧米ロビー活動にもかかわらず、信頼性と人気が衰えているチナワットの支援に代わる選択肢として、タナトーンと彼の新未来党に対する欧米商業マスコミの一致団結した支持を見ても驚くべきではない。
 タナトーンの新未来党は、軍とつながるPPRPとチナワットのタイ貢献党に続く第3党だ。それにもかかわらず、この党は、不可解にも、不釣り合いな想像上の権限を欧米マスコミから与えられている。タナトーンは選挙後、扇動を含め少なくとも3つの告訴を受けて、法的な困難に直面している。彼がタイ警察に召喚された際には、アメリカ、イギリスとカナダの代表を含む外国大使館の人員が同行した。
 欧米メディアはこれを「民主主義派」候補者に対する「国際支援」と描いているが、ざっと見るだけでも「民主主義」でなく、利己的な関心が明白なアメリカ-イギリス-カナダの外交政策が、この「支援」を支える共通因子なのだ。

 中央アジアのアフガニスタン、中東で北アフリカのリビアから、イラクとシリアまで広がる複数の違法な戦争におけるアメリカ-イギリス-カナダの役割を読者は想起すべきだ。サウジアラビアやカタールやウクライナのキエフを支配するネオ・ナチ政権のような本物の独裁制に対する、彼らによる共同の継続中の支持を。
 タナトーンと新未来党に対する欧米の支持は、だから、民主主義を守るというより、民主主義という隠れみのを使ったタイ内政への干渉以上の何ものでもない。

 チナワットやタナトーンのような代理人を通して、欧米は裁判所や軍や立憲君主政体を含めタイ独自の制度を弱体化するか、完全に排除して、反対者のいない経済「自由化」と、タイ外交政策を取り込んで、北京との結びつきを元に戻し、東南アジアのこの国を、中国に対し自費で活動する防波堤に変えるお膳立てをしようとしているのだ。

 ワシントンの負ける賭け

 タクシン・チナワットの権力の絶頂時、彼はタイで4番目に金持ちの男だった。彼の政治的、金融上の権力は実に強大だったので、十分に減少するには二度のクーデターを含め、ほぼ20年の集中的な努力が必要だった。これが最近、ようやく選挙の一般投票で、チナワットのタイ貢献党が敗北する事態に至ったのだ。
 2010年から今までの間に、チナワットは4番目の金持ちから19番目になった。タナトーンを含め、彼の代理人が、彼とのいかなるつながりも否定しなくてはならないほどに、彼の信頼性と影響力は衰えている。
 それにもかかわらず、欧米の「新」代理タナトーンはチナワットの代役だ。彼は資産上では28番目の家族出身だが、彼自身の個人的な政治的、金融的背景は汚職とスキャンダルで既に傷ついている。
 これまで以上にタイ主権を擁護するべく、組織的に準備を整えているタイ組織に挑戦しながら、欧米は、2001年のチナワットより何倍も、財政的に弱く、政治的により妥協した代理を起用しているのだ。

 タイの政治危機を、自分たちの利害関係を満たすように形成しようと「こころみる」欧米マスコミの企ては、タクシン・チナワットの権力絶頂期にもうまくゆかなかったが、最近の選挙に先行してうまくいかなかったが、2001年のチナワットより何倍も弱いチナワット代役にも、うまく機能するまい。
 タイでの欧米の敗北は、無様なベネズエラ政権転覆の取り組みから、シリアでの屈辱的敗北や、アフガニスタンで低迷している20年にわたる戦争に至るまで、地球全体に広がるアメリカ-ヨーロッパ外交政策失敗の広範なパターンの一部に過ぎない。地域的に、タイでの敗北は、アジアにおけるアメリカ優位性が、中国や他の地域大国の勃興に取って代わられる、より広範な傾向の一部だ。
 彼らの政策が逃亡者タクシン・チナワットや彼の欧米スポンサーによって海外から命令され、タイ国内ではバンコクの欧米大使館代表に守られているのに、タナトーンのような人物や、新未来党のような党が「民主主義」だという考えは、持続不可能なパラドックスだ。民主主義は、定義上、国の運命を自決するプロセスであって、外国から規定されるものではない。このパラドックスの現実が、それを永続させるのに使われる偽善者の言説に追いつくのは時間の問題に過ぎない。


 チナワットや、彼が指名したタナトーンや彼の新未来党、あるいはアジアにおけるアメリカの優位にさえ賭けている連中は、来年、あるいは次の10年で、この持続不可能な狙いに最終的に弾みがつくのか、それとも失敗を繰り返して、一層深く泥沼にはまりこむことになるのか自問すべきだ。

 Tony Cartalucciはバンコクを本拠とする地政学研究者、著者。オンライン誌New Eastern Outlook独占記事。
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小説 俺のスポーツ賛歌(3)    文科系

2019年04月10日 18時22分25秒 | 文芸作品
 定年近くのこんな俺を、同居生活という近くで見続けてきた母が度々口に出していた言葉がある。
『若い頃順調に一直線で来た男性は老後に苦労する。何らか意味がある寄り道をした人の方が豊かな老後になる。人生プラスマイナスゼロにできてるということなんだろうねー』
これは、老後が即余生になってしまった父や、当時既にそうなりそうだった弟を見ていて、母なりに出した人生訓なのだ。ちなみに、先にも見た同窓会誌「桜陰」寄稿にもこんな一節がある。
『同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです』。 俺が五〇歳の頃から俺らは同居を始めて、その二年後に父が亡くなったその後の家庭風景を母なりに描写したものである。なお、この夕食時間は俺にとっても忘れられないものになっている。食卓に、母と連れ合いと二人それぞれの二品ずつほどが並んで、華やかな、楽しい食卓だった。なお、四人の兄弟姉妹の中で、両親が最も望まない青春時代を送った俺が晩年の両親と同居したというのは、皮肉というよりはむしろ当然の結果と今の俺は捉えている。博士号を持った外科医である兄は同じ名古屋市の同じ区内に住んで、八十歳を超えた今もなおパート勤務医として働いているが、父母共に兄夫婦とはいろいろあってむしろ疎遠といって良かったからだ。「一直線」の青春を過ごした息子やその配偶者とは、その親もなかなか親しく付き合えるものではないらしい。まして、全国区の大学を出た妹、弟は、それぞれ東京練馬区と横浜高台の自邸に住みついて、名古屋には帰ってこない。全国有数の大学卒業という優秀な子を持つということは、そんな覚悟も要るということである。なお、妹は母と同じ大学の大学院を出ている。


 五九歳の時に職場がスポーツジムの法人会員になったのを機会に、ランニングを始めた。その時に分かったことなのだが、入門して間もなくなんの苦もなく走れるようになって行ったのは、それまでのスポーツ好き、自転車人生があったからだった。自分の最高心拍数の七割程度で走りつづけると最も効率よく心肺機能を伸ばすことができるというランニング上達理論があると後で知ったのだが、素人が継続できる高速サイクリング心拍数がちょうどその辺りに来るものなのだ。つまり、俺はそれまでの自転車人生によってランニングに最適な心肺機能訓練を続けてきたわけだ。走り始めて一年ちょうどほど、六十歳で出た十キロレースで四九分台という記録を持っている。そして今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近いランニングをしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする度に連れ合いがよく口に出す言葉がこれだ。
「全部、自転車のおかげだよね」。
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミア・ドスキンとやらの特上物である。なんせ、俺の人生初にして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に愛着を感じる質としてはこの上ない幸せである。よほど生地が良かったらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じる二重の幸せだ。弟の結婚式から父母の葬式までを見続け、「自分の大人時代を今日までほぼ共に歩んできた礼服」。それも今できる品質なんだろうかとか、今作ったらいくらするんだろうとか思わせるような五十年物なのである。こんな幸せさえもたらしてくれる一六九センチ・五八キロ、体脂肪率十二%内外の「生涯一体形」も、「生涯スポーツ」、特に有酸素運動と相携えあって歩んで来られたということである。もちろん俺は、若い頃に医者に教えてもらったポリフェノールのことも忘れてはいない。酸素を多く取り入れ過ぎてきたその手当をしていないスポーツマンは早死にするとは、医者なら皆が語ること。それは酸素とともに空気から取り入れてしまう活性酸素が細胞を最も激しく老化させる有害物質だからである。これを中和してくれるのが、ポリフェノール。かくして俺の食生活は、晩酌が赤ワイン、野菜は馬みたいに食ってきたし、最も多くする間食は、チョコレートに煎茶だ。つまり、こういう食生活習慣がいつの間にか楽しいものになっているというわけである。

 ランニングとサイクリングの楽しさは、俺の場合兄弟みたいなもの。その日のフォーム、リズム、気候諸条件などが身体各部の体力にぴったり合っているらしい時には、各部最小限の力によって気持ちよくどこまでも進んで行けるという感じの兄弟。そして、そんな時には身体各部自身が協調しあえていることを喜び合っているとでもいうような。
 自転車が五九歳にしてランを生み、退職後はランが自転車を支えて、まだまだ長く続いていきそうな七十七歳の俺の活動年齢。パソコンにぶっ通し五時間座っていても腰背痛にも縁がないし、目も大丈夫と、これらすべて有酸素運動能力のおかげ。「パソコン五時間」というのは、現役時代から仕入れて今も続いている同人誌の編集活動に必須の、現に日夜重宝している能力である。文章創作というこの頭脳労働にまた、有酸素運動が威力を発揮している。走った日の後二日ほどは、老人になって特に感じる朝の脳の冴えと同じものを感じ、走らない日が三日も続くとたちまちどんよりとしてくるのである。人間の身体で酸素を最も多く消費するのが頭脳であるという知識を思い出せば、誰にでも分かる理屈だろう。ちなみに、人間個体が窒息死する時、この死が最も早く起こるのも脳細胞であるらしい。

 週に複数回以上走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズ・ハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。
 こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタヒデなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要がある時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは日本では希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚。それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。自分の視覚や聴覚の芸術ならぬ、自分の身体感覚が感じ導く自作自演プラス鑑賞付きの、誰にでも出来る身体芸術である。
 勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、すっかり体型がくずれてしまった体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」の楽しみはどこか遠い昔に置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても何の説得力もなく、「言行不一致」を免れることはできない。

 さて、こんな俺のロードレーサーが、先日初めての体験をした。直線距離三〇〇メートルとすぐ近くに住んで、今は週三日も我が家に泊まっていく仲良しの女の孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのサイクル・ツーリングに出かけた。その日に乗り換えたばかりの大きめの自転車やそのサドル調整がよほど彼女の身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十四キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいちゃんはゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」
「それはね、(かくかくしかじか)」という説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか。
「私もいつか、そういう自転車買ってもらう!」
 そんなことから二回目には、片道二十キロほどの「芋掘り行」サイクリングをやることになった。農業をやっている俺の友人のご厚意で宿泊までお世話になる企画だった。
 人間の子どもの力って凄い。初めての長距離ツーリングなのに、行きも帰りも俺の速度メーターはおおむね二〇~一五キロ、二時間ほどで乗り切った。名古屋市を、北部から南へ縦断して隣の豊明市までというコースだから歩道を走ったのだし、信号は多いし、海に近い天白川の橋の真ん中から水鳥や魚を探すなどの長い休憩時間も二回ほどとったのだけれど。帰りなどはその上、途中にある大高緑地公園遊園地を二時間以上も飛び回ったうえで、さらに一〇キロ近くを文句も言わずに走り通した。けろっとして本人曰く、「私は身体が強いからね!」。初めは半径三キロ以内はこれまでにすべて征服したと豪語できる公園遊びから始まって、自転車から、正しい走り方までも俺が教えて来たこの小学二年生は、五〇メートルを九秒切って走り、二重跳び三十回とかの縄跳びも大好きなのである。俺のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子と、まだまだ一緒に遊べる体力を持ち続けていたい。そして今は、やがて青春を迎えるだろうこの子との一日百キロサイクリング、これが俺の夢だ。俺の経験からいって、今のように週二~三日、一回十キロ近いランニングが出来ているならば、一日百キロのサイクリングは容易だと目論んでいる。ちなみに、そういう高齢者は、サイクリングが盛んな英仏などにはうじゃうじゃいる。そして、彼女がその年齢までサイクリングを熱烈な趣味と出来るか否かは、俺が我が父母の教育力をどれだけ換骨奪胎して受け継ぎ得たかに掛かっていると考えている。
 ハーちゃんは二〇一〇年九月生まれ、今はもういない父母はともに一九一〇年九月生まれ、きっかり百歳の歳の差だ。


(終わりです)

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