落ち着かない毎日、自分の部屋でも緊張して、通勤でも緊張して職場でも緊張して、緊張で息詰まりそうな毎日、明日から30度越えの真夏日、厳しい一週間が待ち受けていると思うとつらい感じでくたびれちゃっていて、今日も息抜き投稿。
東京宝塚劇場では。雪組のトップコンビの退団公演真っ只中。すごく久しぶりに一路さんの退団特集の映像をみました。一路さんが雪組のトップになったのは1993年、なんと四半世紀が過ぎようとしています。ほんとに早いですね。お披露目作品は、オッフェンバック物語『天国と地獄』、ショー作品が『TAKE OFF』。一路さんの隣には、杜けあきさんの相手役として月組からもどってきてトップ娘となった紫ともちゃん。ともちゃんが舞台全体をがっつりと支えていたので、一路さん安心してトップお披露目公演を迎えられたと思います。物語の中でも支え合う夫婦の役どころで、若手の頃一緒に舞台に立っていた二人の幼馴染感と信頼感あふれる雰囲気にあふれていて大好きでした。ともちゃん、とびっきりの美人さんというわけではないけれど小顔ですごく宝塚らしい雰囲気だし、芝居もダンスも歌も上手くって安心してみていられる娘役さん。二番手には高嶺ふぶきさん、三番手には轟悠さん、花組からきたタータン(香寿たつきさん)は四番手でした。安定の雪組の舞台、大好きでした。ともちゃんが次の作品で退団してしまったのにほんとに惜しい。もう少しトップ娘役としていてほしかったなあと今でも思います。退団作品に恵まれなかったのでなおのこと、惜しい感が今でもあります。一路さん、次の作品の、ともちゃんのサヨナラショーのあとではぼろぼろと大泣きしていたのが思い出されます。『天国と地獄』がカンカンの場面など今でも記憶に残っていてなつかしく思い出される作品。2回か3回観劇したかな。
火曜日と水曜日は特に大変な感じになりそうな一週間。無事に過ぎていきますように・・・。
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オッフェンバックについて(プログラムより)。
ジャック・オッフェンバックは1819年ドイツのケルンで生まれた。父親のイザークは製本業を営むかたわら教会の音楽を担当していた人であったので息子ヤーコブに幼い頃より、ヴァイオリンやチェロ、作曲等の音楽教育を行った。ヤーコブはそのうちチェロに熱中した。そこで1833年14才の時チェロを本格的に学ぶためパリのコンセルヴァトワールに留学することになった。この時、名前のヤーコブをフランス流にジャック、エブレストを家族の出生地マイン河畔の町の名に因んでオッフェンバツクとしたという。ジャック。オッフェンバツクの誕生である。パリに出た彼はコンセルヴァトワールでヴァスランにチェロを学ぶかたわら、学長の作曲家ケルビーニの許可を得てオペラ・コミック座のオーケストラにチェロ奏者として在籍する事になった。こうして、オペラ・コミックの舞台に接する機会を得た彼は次第にオペラ・コミックやオペラ・ブーフの作品そのものに興味を持つようになり、 庶民を主人公とした音楽劇の作曲をする夢を抱くようになった。三年間のコンセルヴァトワールでの勉強の後、色々と彼はその夢を実現させようと努力したがなかなか実らず、チェロ奏者として、チェロ教師をして働き、チェロの練習曲を作曲するために時間を費やすのみであった。しかし、そのうちにオペラの作曲者と知り合い、そのサロンに出入りするようになり、そこで作曲した彼のワルツはフランス中に流行するようになった。 18445年25才の時、音楽マネージャーの娘であるエルミニ・ダンカンと結婚した。しかし、相変らず主にチェロの曲を作るという活動が続いた。
1850年、彼はパリのテアトル・フランセの楽長となり、芝居の舞台の指揮をしながら舞台音楽を書き、次第に作曲家として知られるようになっていった。彼の舞台音楽の作曲家としての転機はパリ万国博覧会の時訪れた。それはマリニー広場のテント小屋の小劇場で上演した道化劇で、貴族から庶民に至るまで万人に受ける大ヒットとなった。この作品の形態は後々までフランス演劇の一つの形となった。 しかし、彼の目指している音楽劇は単に社交の場で上演されるのみとなったオペラや、くだらない笑劇となったオペラ・コミックやオペラ・ブーフではなく、庶民のための楽しく陽気な諷刺やウイットに富んだオペレッタであった。そこで彼は理想的な音楽劇を創るためにパリのシャンゼリゼに自分の劇場ブーフ・パリジャン座を建設した。それから二年の間に彼は一幕物のオペレッタを30も作ったという。その中でも1857年の「街燈の下での結婚」はウィーンでもいち早く上演され、あっという間にオッフェンバツクという名と曲はヨーロッパ中に知れ渡った。 彼はこの頃より、 クレミューやアンヴイ、メイヤックのような優秀なスタッフと共同で仕事をするようになり、遂に1858年 10月21日「地獄のオルフェ(天国と地獄)」を発表した。これこそ、オペレッタの記念的作品となったものである。
「地獄のオルフェ」は、ギリシャ神話のオルフェウスの登場人物オルフェウス、その妻ウーリディス、ジュピター、その妻ユーノーとそれをめぐる人達の姿を借りて当時のフランスの政治と社会情勢を皮肉ったものであった。しかし、この作品は最初は 何の問題にもされなかったが、ジュール・ ジャナンという批評家がジュルナール・デパという新聞で「神を冒漬するものである」として酷評したことから、かえってパリ中の話題を呼び328回ものロングランという大ヒットとなった。なかでも宴会の場面のカンカン踊りは大人気となリ、パリ名物となった。又、オッフェンバツクのオペレッタそのものを観る事が外国人のパリ観光の一つとなったという。 以後、1859年「ブラバントのジュヌ ヴイエーブ」、1860年「ダフニスとクロエ」 、1861 年「フォルトゥニオの歌」「溜息橋」、1862 年「ドニ夫妻」「ジャックリーヌ」等のヒット作を書き、特にこの年 ブーフ・パリジャン座の総監督をやめ作曲に専念する事になってからは更に多くの作品を発表するようになった。
なお、彼は1860 年に、フランスに帰化し、翌年レジオン・ドヌール勲章を受け ている。 そして、 1864年彼は45才となり、最も円熟した時期を迎えた。この年発表したのが「美わしのエレーヌ」で、これは、ギリシャ神話の「トロイのヘレン」の話を借りて 第二帝政を痛烈に皮肉ったもので「地獄のオルフェ」以来の大ヒットとなった。1866年、勢いにのって「青ひげ」を発表。大成功をおさめた。1867年「パリの生活」を発表。これは従来の作品のように神話等に舞台を借りて時代を諷刺するのではなく、現実のパリを見事にカリカチュアして大ヒットした。 この時、あのロッシーニは彼の事を「パリのモーツァルト」と言ったという
1867年、ヴァリエテ座で「ジェロルステイン大公妃」を発表、これが又、大ヒットした。
1868年、南米のペルーを舞台にした「ラ・ペリコール」を発表した。これが彼の最後のヒット作といえるだろう。これは彼自身の才能が失われたのではなく、時代がそうなったのである。フランスは、1830年の七月革命、1848年の二月革命と旧体制と新体制が行きつ 戻りつした。この間に庶民が力を蓄えていき、庶民が選んだナポレオン三世が王となった。これが第二帝政時代であった。 革命も戦争もなく庶民の生活は安定した。そして、いろいろな文化が華ひらいた。それが次第に碩廃的なものになっていった。 そんな時、オッフェンバツクのオペレッタはその社会情勢を巧みにとらえ、おもしろおかしく、楽しく反映してみせたのであった。それに庶民のみならず上流階級の人々 までが拍手を送ったのである。 ところが1870年普仏戦争が勃発し、またたく間にフランスはプロシアに敗れ、 第二帝政が崩壊、フランス共和国が誕生することになった。こうして、彼の作品が光彩を放った時代は終わった。しかし、その後彼はウィンナ・オペレッタを賑わし、彼自身1876年 アメリカに渡り、大歓迎を受け、アメリカンミュージカルを生むきっかけの一つを作った。1880年、彼は最後の力をふりしぼって、彼の理想としている音楽劇「ホフマン物語」(未完成) を書き10月5日に亡くなった。61才であった。
東京宝塚劇場では。雪組のトップコンビの退団公演真っ只中。すごく久しぶりに一路さんの退団特集の映像をみました。一路さんが雪組のトップになったのは1993年、なんと四半世紀が過ぎようとしています。ほんとに早いですね。お披露目作品は、オッフェンバック物語『天国と地獄』、ショー作品が『TAKE OFF』。一路さんの隣には、杜けあきさんの相手役として月組からもどってきてトップ娘となった紫ともちゃん。ともちゃんが舞台全体をがっつりと支えていたので、一路さん安心してトップお披露目公演を迎えられたと思います。物語の中でも支え合う夫婦の役どころで、若手の頃一緒に舞台に立っていた二人の幼馴染感と信頼感あふれる雰囲気にあふれていて大好きでした。ともちゃん、とびっきりの美人さんというわけではないけれど小顔ですごく宝塚らしい雰囲気だし、芝居もダンスも歌も上手くって安心してみていられる娘役さん。二番手には高嶺ふぶきさん、三番手には轟悠さん、花組からきたタータン(香寿たつきさん)は四番手でした。安定の雪組の舞台、大好きでした。ともちゃんが次の作品で退団してしまったのにほんとに惜しい。もう少しトップ娘役としていてほしかったなあと今でも思います。退団作品に恵まれなかったのでなおのこと、惜しい感が今でもあります。一路さん、次の作品の、ともちゃんのサヨナラショーのあとではぼろぼろと大泣きしていたのが思い出されます。『天国と地獄』がカンカンの場面など今でも記憶に残っていてなつかしく思い出される作品。2回か3回観劇したかな。
火曜日と水曜日は特に大変な感じになりそうな一週間。無事に過ぎていきますように・・・。
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オッフェンバックについて(プログラムより)。
ジャック・オッフェンバックは1819年ドイツのケルンで生まれた。父親のイザークは製本業を営むかたわら教会の音楽を担当していた人であったので息子ヤーコブに幼い頃より、ヴァイオリンやチェロ、作曲等の音楽教育を行った。ヤーコブはそのうちチェロに熱中した。そこで1833年14才の時チェロを本格的に学ぶためパリのコンセルヴァトワールに留学することになった。この時、名前のヤーコブをフランス流にジャック、エブレストを家族の出生地マイン河畔の町の名に因んでオッフェンバツクとしたという。ジャック。オッフェンバツクの誕生である。パリに出た彼はコンセルヴァトワールでヴァスランにチェロを学ぶかたわら、学長の作曲家ケルビーニの許可を得てオペラ・コミック座のオーケストラにチェロ奏者として在籍する事になった。こうして、オペラ・コミックの舞台に接する機会を得た彼は次第にオペラ・コミックやオペラ・ブーフの作品そのものに興味を持つようになり、 庶民を主人公とした音楽劇の作曲をする夢を抱くようになった。三年間のコンセルヴァトワールでの勉強の後、色々と彼はその夢を実現させようと努力したがなかなか実らず、チェロ奏者として、チェロ教師をして働き、チェロの練習曲を作曲するために時間を費やすのみであった。しかし、そのうちにオペラの作曲者と知り合い、そのサロンに出入りするようになり、そこで作曲した彼のワルツはフランス中に流行するようになった。 18445年25才の時、音楽マネージャーの娘であるエルミニ・ダンカンと結婚した。しかし、相変らず主にチェロの曲を作るという活動が続いた。
1850年、彼はパリのテアトル・フランセの楽長となり、芝居の舞台の指揮をしながら舞台音楽を書き、次第に作曲家として知られるようになっていった。彼の舞台音楽の作曲家としての転機はパリ万国博覧会の時訪れた。それはマリニー広場のテント小屋の小劇場で上演した道化劇で、貴族から庶民に至るまで万人に受ける大ヒットとなった。この作品の形態は後々までフランス演劇の一つの形となった。 しかし、彼の目指している音楽劇は単に社交の場で上演されるのみとなったオペラや、くだらない笑劇となったオペラ・コミックやオペラ・ブーフではなく、庶民のための楽しく陽気な諷刺やウイットに富んだオペレッタであった。そこで彼は理想的な音楽劇を創るためにパリのシャンゼリゼに自分の劇場ブーフ・パリジャン座を建設した。それから二年の間に彼は一幕物のオペレッタを30も作ったという。その中でも1857年の「街燈の下での結婚」はウィーンでもいち早く上演され、あっという間にオッフェンバツクという名と曲はヨーロッパ中に知れ渡った。 彼はこの頃より、 クレミューやアンヴイ、メイヤックのような優秀なスタッフと共同で仕事をするようになり、遂に1858年 10月21日「地獄のオルフェ(天国と地獄)」を発表した。これこそ、オペレッタの記念的作品となったものである。
「地獄のオルフェ」は、ギリシャ神話のオルフェウスの登場人物オルフェウス、その妻ウーリディス、ジュピター、その妻ユーノーとそれをめぐる人達の姿を借りて当時のフランスの政治と社会情勢を皮肉ったものであった。しかし、この作品は最初は 何の問題にもされなかったが、ジュール・ ジャナンという批評家がジュルナール・デパという新聞で「神を冒漬するものである」として酷評したことから、かえってパリ中の話題を呼び328回ものロングランという大ヒットとなった。なかでも宴会の場面のカンカン踊りは大人気となリ、パリ名物となった。又、オッフェンバツクのオペレッタそのものを観る事が外国人のパリ観光の一つとなったという。 以後、1859年「ブラバントのジュヌ ヴイエーブ」、1860年「ダフニスとクロエ」 、1861 年「フォルトゥニオの歌」「溜息橋」、1862 年「ドニ夫妻」「ジャックリーヌ」等のヒット作を書き、特にこの年 ブーフ・パリジャン座の総監督をやめ作曲に専念する事になってからは更に多くの作品を発表するようになった。
なお、彼は1860 年に、フランスに帰化し、翌年レジオン・ドヌール勲章を受け ている。 そして、 1864年彼は45才となり、最も円熟した時期を迎えた。この年発表したのが「美わしのエレーヌ」で、これは、ギリシャ神話の「トロイのヘレン」の話を借りて 第二帝政を痛烈に皮肉ったもので「地獄のオルフェ」以来の大ヒットとなった。1866年、勢いにのって「青ひげ」を発表。大成功をおさめた。1867年「パリの生活」を発表。これは従来の作品のように神話等に舞台を借りて時代を諷刺するのではなく、現実のパリを見事にカリカチュアして大ヒットした。 この時、あのロッシーニは彼の事を「パリのモーツァルト」と言ったという
1867年、ヴァリエテ座で「ジェロルステイン大公妃」を発表、これが又、大ヒットした。
1868年、南米のペルーを舞台にした「ラ・ペリコール」を発表した。これが彼の最後のヒット作といえるだろう。これは彼自身の才能が失われたのではなく、時代がそうなったのである。フランスは、1830年の七月革命、1848年の二月革命と旧体制と新体制が行きつ 戻りつした。この間に庶民が力を蓄えていき、庶民が選んだナポレオン三世が王となった。これが第二帝政時代であった。 革命も戦争もなく庶民の生活は安定した。そして、いろいろな文化が華ひらいた。それが次第に碩廃的なものになっていった。 そんな時、オッフェンバツクのオペレッタはその社会情勢を巧みにとらえ、おもしろおかしく、楽しく反映してみせたのであった。それに庶民のみならず上流階級の人々 までが拍手を送ったのである。 ところが1870年普仏戦争が勃発し、またたく間にフランスはプロシアに敗れ、 第二帝政が崩壊、フランス共和国が誕生することになった。こうして、彼の作品が光彩を放った時代は終わった。しかし、その後彼はウィンナ・オペレッタを賑わし、彼自身1876年 アメリカに渡り、大歓迎を受け、アメリカンミュージカルを生むきっかけの一つを作った。1880年、彼は最後の力をふりしぼって、彼の理想としている音楽劇「ホフマン物語」(未完成) を書き10月5日に亡くなった。61才であった。