会場で購入した公式カタログより
「デルフトの文化と社会
デルフトの贅沢品の輸出産業は、数名の熟練した金銀細工師も擁していたが、その数と収入は、より大規模な地方産業の不況を埋め合わせるほどのものではなかった。17世紀のデルフトでより大きな成長を遂げた産業は陶器であった。最初のうち、陶工たちはイタリアのファイナンスをまねて錫釉(しゃくゆう)をかけた陶器を生産したが、後には、非常な人気を博した近代中国磁器を模倣した。特に1640年代における中国の内乱後、中国磁器の輸入が急激に縮小した1665年から1670年の間、デルフトの陶器製造所の数は倍増した。ちなみに、デルフト陶器は今日もデルフトで製造されている。しかしなが経済の減退という全体的傾向はとどまることを知らなかった。1654年の火薬庫の大爆発はそれを悪化させたに過ぎない。その事故は画家カレル・ファブリティウスの命を奪い、町の大部分を廃墟と化した。
だからといって、デルフトに富裕層や美術のパトロンやコレクターがいなかったと言いたいわけではない。それどころか、実際は全く逆である。デルフトは幾つかの由緒あるけ家系が牛耳る寡頭政治で支配されていたのである。その多くは、いわゆるフルッドスヒャップと呼ばれる40人議会にその起源を求めることができる。40人議会は、1445年には、ホラント伯のブルゴーニュ公フィリップによって市の行政権を認められていた。市長、財務官、州長官、参事会員、団体理事、港長といった市政の権力者たちは、伝統的にその階層から選出された。議会の議員の地位は終身で、より高い公職につくための必須条件であった。新参者が特権グループに近づくには、実際のところ、彼らと婚姻関係を結ぶしかなかった。当然のことながら、親族徴用主義が生まれ、固定化したエリート市民が現れた。これらの家系は、彼ら以外には閉ざされている特別な離職の好機に接することもできた。たとえば、巨万の富をもたらすオランダ東インド会社が1602年に全国会議によって設立され、世界中の広域にわたる交易の独占権が最初の株式公開有限責任会社の一つに与えらえたとき、六つの指名事務所の一つはデルフトに設立された。初代の12人の所長のうち、5人は40人議会のメンバーだった。そして1618年以後、ほとんどすべての所長は40人議会から選ばれた。この特権の価値は莫大だった。1602年に株式を購入し1650年まで保持した者は、平均27%の年収益率を手にした。こうして16世紀に醸造業と織物業で財をなし、その富を17世紀に東インド会社の交易に再投資したデルフトの家系は、あり余るほどの財産を蓄積し、その富で当地の芸術家たちを庇護した。しかしながら、富裕階級が高利回りの外国の投機に従事し、あるいは地方経済への再投資よりむしろ慎重な金利生活を選んだことは、デルフト経済の基盤縮小を促進させた。」
まだまだ続きます。
「デルフトの文化と社会
デルフトの贅沢品の輸出産業は、数名の熟練した金銀細工師も擁していたが、その数と収入は、より大規模な地方産業の不況を埋め合わせるほどのものではなかった。17世紀のデルフトでより大きな成長を遂げた産業は陶器であった。最初のうち、陶工たちはイタリアのファイナンスをまねて錫釉(しゃくゆう)をかけた陶器を生産したが、後には、非常な人気を博した近代中国磁器を模倣した。特に1640年代における中国の内乱後、中国磁器の輸入が急激に縮小した1665年から1670年の間、デルフトの陶器製造所の数は倍増した。ちなみに、デルフト陶器は今日もデルフトで製造されている。しかしなが経済の減退という全体的傾向はとどまることを知らなかった。1654年の火薬庫の大爆発はそれを悪化させたに過ぎない。その事故は画家カレル・ファブリティウスの命を奪い、町の大部分を廃墟と化した。
だからといって、デルフトに富裕層や美術のパトロンやコレクターがいなかったと言いたいわけではない。それどころか、実際は全く逆である。デルフトは幾つかの由緒あるけ家系が牛耳る寡頭政治で支配されていたのである。その多くは、いわゆるフルッドスヒャップと呼ばれる40人議会にその起源を求めることができる。40人議会は、1445年には、ホラント伯のブルゴーニュ公フィリップによって市の行政権を認められていた。市長、財務官、州長官、参事会員、団体理事、港長といった市政の権力者たちは、伝統的にその階層から選出された。議会の議員の地位は終身で、より高い公職につくための必須条件であった。新参者が特権グループに近づくには、実際のところ、彼らと婚姻関係を結ぶしかなかった。当然のことながら、親族徴用主義が生まれ、固定化したエリート市民が現れた。これらの家系は、彼ら以外には閉ざされている特別な離職の好機に接することもできた。たとえば、巨万の富をもたらすオランダ東インド会社が1602年に全国会議によって設立され、世界中の広域にわたる交易の独占権が最初の株式公開有限責任会社の一つに与えらえたとき、六つの指名事務所の一つはデルフトに設立された。初代の12人の所長のうち、5人は40人議会のメンバーだった。そして1618年以後、ほとんどすべての所長は40人議会から選ばれた。この特権の価値は莫大だった。1602年に株式を購入し1650年まで保持した者は、平均27%の年収益率を手にした。こうして16世紀に醸造業と織物業で財をなし、その富を17世紀に東インド会社の交易に再投資したデルフトの家系は、あり余るほどの財産を蓄積し、その富で当地の芸術家たちを庇護した。しかしながら、富裕階級が高利回りの外国の投機に従事し、あるいは地方経済への再投資よりむしろ慎重な金利生活を選んだことは、デルフト経済の基盤縮小を促進させた。」
まだまだ続きます。