たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

だるいね

2018年04月15日 22時02分50秒 | 日記
 休みは少しゆっくりしていると気がつけばあっという間に終わり、明日からまた良識ある一般人の感覚ではとうてい理解できないことに振り回される一週間が始まるのかと思うと夕方から気持ちどんより。かたぎじゃないのでこわい、こわい。わたしなんかが対応しきれることじゃない。一人ではやれないのでそんなことは思っていないのですが担当だから、どうしましょう。こわい、こわい。こわいことだらけ。事務作業はいちいちわからないし、研修に出席しないといけないし、なんかいろいろと気持ちが追いつめられてしまいます。そもそもの人数が足りずに、そもそもの業務量に無理があるわけでいっぱい、いっぱいの行き当たりばったり。ストレスに満ちた空気。きつい仕事。なんとか5カ月がすぎ、あと7カ月あるのに有給休暇はわずかしかありません。勝手に時間外にならざるを得ないのは一円もでないし、かといってその分休む話もどうにかなってしまっていて、7カ月後また失業者となったとき、この水漏れが起きていた、斜め向かいには引きこもりのオッサンが棲みついている部屋にいることはありえません。オッサンはいるんだよ、いるの、朝も昼も夜も平日も土日もずっといるの。ずっといて物音がすっごい聞こえてくるの。ぞっとするよ。12月上旬にやってくる更新期限。どうすればいいのか今は全くわかりません。明日衣装ケース二個、粗大ごみ。お礼をいってお別れしました。まだまだ荷物ありますが力尽きました。休みは終わりです。明日無事に出勤して仕事できるのでしょうか。スパに行く時間と体力はなかったのが心残りな休日は終わっていきます。あと二週間で三連休。和樹ロナンをもう一度みたくて、『1789~』のチケット足してしまいました。お買い得な補助席。5月と6月は、宝塚と『モーツァルト』。観劇が連続します。舞台を心の糧になんとかやり過ごしていけるのかな。なかったらやり過ごせない。苦しいよね。気温あがったり、さがったりでだるい。あと少しの時間で態勢を持ち直して出勤せねば。平日は緊張、自分の部屋でも緊張、ちっそくしそう。舞台があれば、宝塚があれば、残りの人生バラ色。なんとか生き延びていくべし。

 清史郎君のブログには、爽やかなイケメンになっても泣き虫与六のころと顔立ちは変わらない、可愛くてかっこいいお写真が。将来、徹平君みたいな感じになるのかな。清史郎君がいつかロナンになる日がやってくるのかな。そんな時まで生き延びて見届けたいけど無理かなーってふと思った日曜日の夕暮れでした。

2008年8月‐12月『フェルメール展』_光の天才画家とデルフトの巨匠たち(5)

2018年04月15日 18時28分22秒 | 美術館めぐり
会場で購入した公式カタログより

「デルフトの文化と社会

 デルフトで唯一、公認されていた信仰は改革派教会であった。しかし、カトリックの「隠れ教会」は黙認されていたし、イエスズ会さえ制約されていなかった。とはいえ、カトリック教徒、レモンストラント派のみならず、ルター派やメノー派のような非カルヴァン派の宗派も含め、カルヴァン派以外の信仰を奉ずる者は公職から締め出されていた。ただし、オランダの他の地域と同様、同時代の西洋のスタンダードであった価値観に従って、この時代を支配していたのは宗教的寛容だった。1620年には、カルヴァン派は多くの少数派宗教の一つであり、人口のおよそ4分の1を占めるに過ぎなかった。他の多くの市民はいずれの教会にも属していなかった。デルフトは、事実、南部からの移民を阻止したので、レイデンのような都市に比べ、正統のカルヴァン派住民の増加を抑えることになった。改革派教会に加わったことのないフェルメールが、聖ルカ組合の理事、また市民防衛隊の隊員になれたという事実は、デルフトの指導者たちの保守的言動にもかかわらず、実際の社会が寛容であったことを物語っている。

 事実、かつて聖ルカ組合は、フランドルの移住民が入会したために会員数が急激に上昇したことがあった。1570年から1610年にかけて、その数が40人から100人近くまで跳ね上がったのである。しかしながら市議会は、美術市場の統制を決定し、聖ルカ組合の総数と市外からの美術品輸入を制限する法律を制定した。組合員の数は、17世紀中頃を通じておよそ50人とかなり安定していたが、事実上ほとんどの美術市場と同じように、1672年以降は急速に減少し、1680年にはわずか31人となった。聖ルカ組合は画家、彫刻家、陶工、版画制作者、刺繍職人によって構成されていたが、組織の統括に最も影響力を及ぼしたのは画家だった。アムステルダムのような大都市と比較した場合、美術取引を統制する努力はかなり成功したと思われる。活動は制限されていて、デルフト外で制作されたすべての美術品の公的及び私的売り立ては、ごく少数の例外的な競売はあったものの、禁止された。しかし、相対的に閉鎖的だったデルフトの市場にも市外の作品がもたらされることがあった。宝くじや慈善富くじなど、非正規の営みを通じて入ってくる作品である。1631年に市民防衛隊が有名なコンテストを実施するが、そこで配られた賞品もその一例である。」

                           もう少し続きます。

『1789バスティーユの恋人たち』_パネル展

2018年04月15日 11時17分13秒 | ミュージカル・舞台・映画
 昨日の余韻から、なかなか整理できていなかった2016年初演時の『1789バスティーユの恋人たち』、日比谷シャンテ内八重洲ブックセンターで開催されたパネル展の写真をようやくアップ。ゆんロベスピエールの冷やかさにすっかりはまっていました。2年の時がすぎ、日比谷シャンテも日比谷界隈もリニューアル。私自身も役者さんたちも社会も、キャストも半分ぐらいはかわったし、また感じるものも違ってきていると思うので、じっくりと味わいながらおいおい振り返っていきたいと思います。5月にWキャストのもう一方を観劇予定だし。そうそう昨夜の舞台では、最初の登場シーンの最後に、かなめさんアントワネットのドレスの裾が降りてきた幕に引っかかってしまいどうなるのかとひやっとしていたら、すぐにスタッフさんが直しにきたのがわかってホッとしました。こういうところが生の舞台だし、外には現れない力が終結してこその舞台なんだなあと。





















 東宝初演、一路さんシシィの『エリザベート』のCD、今も帝劇の売店で売られているのをみて、祐一郎さんトートバージョンを持っていますがすごく懐かしかったです。

 余談ですが昨日東京宝塚劇場は、大手派遣会社の貸し切り公演だったみたいでびっくり。感謝の集いっていう看板が出ていました。キャトルレーヴは開演前、〇〇プのロゴとキャラクターが入ったビニール袋をもった女性であふれかえっていました。この大会社、わたしが13年も働いた結果使い捨てにされたので大会社に損害賠償を求めて、一年間がんばって、最後わずかな補償金をユニオンが出させた名目上の派遣元会社だったんですよね。4年前の今頃、『レディベス』に助けられながら、この派遣元会社がどでかいビルにかまえるオフィスにも出向いて、大会社の悪代官弁護士と対面していたことをいやでも思い出してしまいました。宝塚を貸切るとは、宣伝やなー、金あるんやなー、わたしのしたことなんか巨大組織にとって痛くもかゆくもなく、なんでもなかったんやなと複雑な気持ちになってしまいました。チケットを全部買い取って希望者に抽選で配ったのか、福利厚生の一環として希望者はチケットを購入できたのか。登録して働いて会社に売り上げをもたらしている派遣スタッフたちにどれぐらい還元されたのか、お得意さまたちへのパフォーマンスなのか。ふだん〇〇プのオフィスに行って仕事をしているわけではないから、どういう仕組みにしたのかと考えてしまいました。わたしはもう二度とかかわることはない。こういうふうに宝塚が使われるのはちょっと哀しい。まあこんなマイナス要素を振り切り上回るだけの幸せオーラが日比谷には満ちているからいいですけどね、ちょっと哀しくなってしまった、『1789~』観劇前のひとときでした。余談のわりには長いね、失礼しました。