コロナ騒動であぶりだされた、お互いに首を絞め合って30年間衰退の一途をたどって来た日本の姿。
磯野真穂|人類学者(@mahoisono)さん / X (twitter.com)
「「もし何かあったら責任取れるのか病」という病いがこの社会にはある気がする。
この病気の特徴は「もし何か」の中身が過度に極端なこと。
「責任の取り方」の中身が曖昧模糊として不明なままのこと。
でも不明であるゆえに、これを言われると動けなくなってしまうこと。」
2023年10月27日朝日新聞、
「気の緩み」、言ったのは誰? 記事160本、人類学者が分析したら:朝日新聞デジタル (asahi.com)
「連載「コロナ禍と出会い直す 磯野真穂の人類学ノート」(第17回・全文公開記事)
日本は気の力でコロナを抑え込めると思っていたし、気の力で実際にコロナを抑え込んだ。そう言われたら皆さんはどう思うだろう?
そんな馬鹿なことあるはずない。今は21世紀――。
そう感じる人も多いかもしれない。でもそんなことはないのである。政府・自治体や専門家、さらに感染拡大を心配する街の人々は、感染者が増えるたびに原因を「気の緩み」に求め、また緊急事態宣言などの制限が緩和されるたびに、その緩和が「気の緩み」を招いて感染の再拡大につながることを心配してきた。
どうやら日本において、感染の波は、台風や雷のような自然現象ではなかったようだ。この感染症は常に人の手の中にあり、気の力なるものでコントロールできる病気と思われていたのである。
今回のシリーズではこのことを検証するため、朝日新聞の記事に登場する「気の緩み」関連の記事を分析してみたい。
頻繁に使われていた時期は…
朝日新聞のデータベースを用い、2020年1月1日から2023年8月15日までの期間で、「気の緩み」が現れる記事がどのくらいあるかを調査した(cf.「気が緩ん」「気が緩む」「気が緩み」含む)。該当記事は、160件。このうち126件がコロナに関する記事であり、これは全体の約8割に当たる。ほら、気とコロナが結び付けられていた様子が、すでにうかがえるでしょう。
記事を分析していくと、いくつかの興味深い事実が見えてくる。
まず「気の緩み」が使われた時期は、2020年と2021年に集中しており、全体の約9割(88%)がここに入る。対して2023年はたったの5件だ。
これは一見当然のように思えるが、よく考えると奇妙である。なぜなら2020年と2021年は、メディアがコロナ関連の情報で埋め尽くされ、生活のありとあらゆることをストップさせても感染拡大を止めねばという勢いがあったからだ。この意味で、国民が最も「気を引き締めていた」時期ではなかろうか。
それに比すると、2023年はコロナが5類に移行したこともあり、行楽地やイベントは大変なにぎわいを見せている。前3年に比して、国民の気は緩みきっているといえるだろう。
しかし2023年1月から8月までに現れる「気の緩み」関連の記事は、たったの5件。5類になってコロナが消えたわけではないのだから、今こそ本紙は気の緩みを警戒し、読者に呼びかけてはどうだろう。
頻繁に使用した人の「属性」は…
興味深い事象二つ目。それは、「気の緩み」を頻回に掲げる人々の属性である。まず「気の緩み」を最も多く使うのは、会見で気の緩みを連発して批判をされた岸田文雄首相を筆頭に、政府・自治体の関係者だった。これは全記事中の4割強を占める。それに続くのが、医師などの専門家であり、これが2割弱。残りは記者自身による言葉、さらには芸能人など著名人の意見、街の人の声などが続く。
また、「気の緩み」を口にする政府・自治体関係者のうちの3割が都道府県知事であることにも目を向けたい。緊急事態宣言解除後を心配する知事の声を二つ紹介しよう。
緊急事態宣言の解除後は気の緩みが恐ろしいので、国には都道府県をまたぐ移動自粛のメッセージをしっかり出してほしい。(2020年5月16日 徳島県・飯泉嘉門知事、以下日付は掲載日)
経済活動への影響などから、緊急事態宣言をこのまま続けることについては「現実的ではない」とした。ただ「解除」という言葉は気の緩みを生む恐れがあるとの指摘を受け、感染拡大緊急警報への「移行」という言葉を選んだ。(2021年2月6日 宮崎県・河野俊嗣知事)
気の緩みとはかくも恐ろしいものらしい。
政府・自治体関係者の次に「気の緩み」を口にするのが医師であることも興味深い。なぜ興味深いかというと、科学的根拠のある対策の必要性を訴え続けてきた人々こそがかれらだからである。例えば大阪本社版の本紙にはこんな医師の声が掲載される。
私は感染拡大の根底にあるのは気の緩みで、ウィズコロナという表現が適当ではなかったと感じる。(2020年11月27日。記事タイトルは「『コロナと共存』が生んだ緩み」)
多くのコロナ患者を受け入れている昭和大学病院(東京都品川区)の相良博典院長は緊急事態宣言の解除や酒提供の解禁の動きで、感染対策に気の緩みが生まれることを懸念する。「重症患者も多く、医療現場とコロナとの闘いはまだ続いている。『解除』という言葉が一人歩きしてしまうのが怖い」と話す。(2021年9月29日)
また、「気の緩み」は新型コロナ専門家分科会内でも懸念されていたようだ。メンバーの一人であった経済学者の大竹文雄氏が「ワクチンを多くの国民が打ったのだから、規制を緩めたらどうか」と提案をした時のことである。「そんなことをしたら気が緩む」といった発言が他の医療専門家のメンバーからなされたというのだ。大竹氏は筆者によるインタビューの中で、あの発言には驚かされたと振り返る。
加えて気の緩みを警戒する専門家は医師ばかりではなかった。コロナ禍初年には、国民の「気の緩み」をツイッター(現X)の投稿状況から読み取れるとする情報科学者の声も紹介されている。(2020年6月19日)
調査中、私を最も驚かせたのは、海外でも「気の緩み」が見られるという記事であった。中でも釘付けになったのは、世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が人々の「気の緩み」に懸念を示したという記事である。(2021年3月3日。「世界の感染者、7週間ぶり増 テドロス氏、気の緩み指摘 新型コロナ」)
彼の出身国であるエチオピアに「気」という概念はないはずなので調べてみると、「let their guard down」が「気の緩み」と訳出されているようだ。この記事以外にも、ニューヨーク、チリ、インドなどで「気の緩み」が見られ、感染が広がりかねないという記事が掲載されている。
コロナ禍」特有の言い回し
いやいや、いい加減にしてくれ。「気の緩み」というのは単なる言葉のあやであって、ここで指されているのは、手洗いやマスクの着用がおろそかになったり、外出をどんどんするようになったりするといった具体的な行動なのだ。そんなところに拘泥すること自体意味がない。
そう感じている読者もそろそろいるであろう。しかし私は言葉遊びをしているつもりは毛頭ないし、そう言える根拠もある。
その一つは、さまざまな感染症が拡大するたびに、その原因が「気の緩み」に求められてきたわけではないという点だ。
わかりやすいのが毎年流行するインフルエンザである。
例えば、2018年と、2019年にはインフルエンザの大流行が起こった。厚生労働省によると、推計患者数は200万人以上。すさまじい数である。しかもこの数字は、累積ではなく、1週間の推計患者数だ。
それでは、これらインフルエンザの大流行の原因は「気の緩み」とされたのだろうか。あるいは、気を引きしめて流行を抑えるべきといった記事が出されているのだろうか。
コロナ禍の「気の緩み」と全く同じ方法で過去記事を探ってみると、これら流行と気の緩みを結びつける記事はゼロである。また2019年2月1日の記事には、推計患者数が前週から9万6千人増えたという記載があるが、国民の気の緩みがこの増加を招いたという政府・自治体関係者、医療従事者の声の紹介は見当たらない。コロナ禍とまるで違う。
もちろん外出後の手洗いや、マスクの着用、人混みへの外出は控えるといったコロナ禍でも繰り返された注意喚起は出されている。でもだからと言って、それら具体的行為が国民の気の持ちようと結び付けられることはないのである。
加えてコロナ禍では、目に見える具体的行動が国民の気の緩み具合を判断する材料として使われ続けた。最も顕著なのはマスクである。例えば次のように。
マスクをしていない人を時々見かけるなど、気の緩みを感じる。改めて感染防止対策を徹底する。(2020年11月13日 山形県・吉村美栄子知事)
懸念するのは、いま「脱マスク」の議論が進むことに伴う気の緩みだ。(2023年1月21日 医師)
かつて、マスク着用の有無が個々人の気のあり方の判断材料になったことなどあっただろうか? マスクをつけている人はそもそもそんなに気を引き締めているのだろうか。少なくともインフルエンザではそのような認識は見られない。
文化人類学者の波平恵美子氏は、安井眞奈美、ローレンス・マルソー編『想像する身体-身体イメージの変容』(臨川書店)への寄稿の中で、コロナ禍以降、マスクはその人が誰で、どんな人かを表す「衣装コード」になったと述べる。実際マスクはその人の健康状態どころか、「気の持ち方」を表すアイテムにまで昇格したのだ。」