たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

通信教育レポート-法学

2023年10月14日 15時31分08秒 | 日記

(1)課題:慣習法と成文法との関係についてー

 我々、人間が社会において共同生活を営むためには、一定の秩序を保つことが必要である。秩序を保つためには、いかなる社会にも、社会規範と呼ばれるルールが存在する。社会規範のなかで、国家の権力により強制されるのが法である。法は、国家を基盤として成り立ち、また、国家によって実現を保障される。しかし、逆にひとたびつくりだされた法は、国家の活動を規制することになる。

 法は、裁判によって具体的に適用される。裁判は、国家の機関である裁判所が、事件の事実を明らかにし、どう処理すべきかを決めるものである。裁判の基準となる法は、制定法、慣習法、判例法、条理の四つの形で存在している。

 制定法は、文字で書かれているので成文法と呼ばれ、慣習法・判例法・条理の不文法と対置する。成文法は、一定の手続きと形式に従って内容が定められ、公布される。したがって、明確な内容をもち、的確に社会を統制することのできる点で、他の法源よりもすぐれている。

 法の機能は、社会の秩序を維持することであるから、その目的は、法的安定性を確保し、正義を実現することにある。そのためには、法は明確でなければならない。したがって、近代において、成文法を主体として、法は構成されている。社会生活が複雑になるにつれて、その制定が進んできた成文法の内容は多様である。そこで、内容が相互に抵触する場合には、どちらの法規が優越するかを定める原則が在する。成文法は、上下の系列につらなった段階的構造をしており、全体として統一されている。形式的効力でみると、憲法-法律-政令-省令となり、憲法が最高法規とされる。統一した法秩序の基本的な部分が憲法である。

 成文法と異なる慣習が、広く行われるようになった場合には、成文法の効力は、自然に消滅するだろうか。慣習とは、人々がある事柄について同じ行為を繰り返し行うことであり、他人の行為を真似しようとする人間の主観的部分と、社会生活の安定のためという客観的な部分とによって成り立っている。この中で、国家の秩序を維持するために必要であるものを、国家によって法として承認されたものが慣習法である。法例二条に、成文法で認めたもの、および成文法に規定のない事項に関するものに限り、法律と同一の効力があるとされている。このように、一定の制限をうけて成り立つ慣習法は、成文法に対して、補充的な効力を認められているにすぎない法源である。したがって、一般的には、成文法の規定と異なる慣習法は、その存立を認められないと考えるべきである。とくに、刑事事件については、罪刑法定主義の原則にもとづき、慣習法は全く認められない。

「法律がなければ刑罰はない」ということばで現わされるように、何が犯罪であるかは刑法の規定によって定まるのが、罪刑法定主義である。ある行為が犯罪として刑罰を科せられるためには、その行為が犯罪であることを定める法律が存在し、またその行為に科せられる刑罰の種類・大きさも、あらかじめ法律によって、明らかにされていなければならない。憲法31条は、この原則をとることを明らかにしたものとされている。憲法で保障されている国民の基本的人権を、国家権力の濫用から守るためである。政府が、規定によらず勝手気ままに処罰したら、国民生活はいつも脅かされることになるから、法が国家の活動を規制している。どんな行為が犯罪であるかを明確に規定し、まだどんな刑罰が科せられるかをはっきりと定められるのは、明文で書き現わされ正確な内容をもつ成文法である。刑事裁判では、成文法である刑法が、裁判の基準となる。

 このように刑法においては、慣習法が否定されているが、成文法と異なる慣習について、特殊な効力が認められる場合もある。

 商事に関して、商法に規定のない場合は、慣習法が民法に優先して適用される。

 また、成文法の中で、任意法規に関しては、それと異なる慣習が法源として、成文法よりも優先される。私法上の規定のうち、公序良俗に関する規定は、契約当事者がこれと異なる契約を定めても効力はなく、強行法規という。これに対して、公序良俗に関しない規定は任意法規と呼ばれ、これと異なる慣習がある場合、当事者がそれによる意思があると認めればそれに従い、任意法規に優先する。ここにいう慣習は、法的確信によって裏づけられていない事実たる慣習で、当事者の意思を解釈する基準となり、法律行為の内容を決定することによって、法律と同一の効力をもつ。


(2)公法と私法の関係についてー

 法は内容的に公法と私法に分類される。この区分の基準については、従来いろいろな考え方があるが、その中で、法律関係説が、今日では最も適当とされる。これによれば、国家統治権の発動に関係したことを規定する法が公法であり、そうでないものが私法である。公法と私法の区分がなされるのは、近代市民社会における国家の権力作用と、社会関係の分離という基本的特性にもとづく、量的・相対的なものである。近代市民社会は、資本主義社会である。資本主義社会は、個人主義、自由主義の社会であり、また、貨幣経済が発達している。労働者は自己の欲するものを手に入れるために、資本家に労働力を提供し、他人の欲するものを生産して賃金を得る。そうして、賃金として得た貨幣を、他人が生産したものと交換する。資本家は、提供された労働力を利用することにより、生産が行われ、利益をあげる。個人が、それぞれ勝手に自己の利益を追求すれば、結果として、社会や国家の富も増大して行く。したがって、国家は個人の経済活動に介入すべきではない。

 このような社会では、封建社会の身分制度をこわし、全ての人間が、平等で自由に働くことができるようにしなければならない。そして、所有権絶対の原則および契約の自由の原則を守ることが要請される。そのために、個人と個人の間の関係を規律する私法が、最初の近代社会の法として確立された。個人は自由・平等・独立な人格として認められ、それぞれが自由に法律関係を形成し、自由な社会活動を展開することによって、幸福が実現し、社会的調和が実現するものと考えられた。国家は、ただ個人の最大限の自由な活動を保障することだけを期待された。これを夜景国家の思想という。

 これに対し、国家や地方公共団体の組織や活動に関する法である公法は、国家権力が直接介入している。

 以上のように、公法と私法の区分がなされるのは、近代社会においてであり、どちらも国家法として実質的になんら異なるものではない。

 さらに、近代社会において、公法と私法のどちらにも属さない社会法が形成されたのはなぜであろうか。

 資本主義社会の高度な成長に伴い、従来の政治社会関係と経済社会関係を区分する考え方は次第に適合しなくなり、矛盾と弊害が現れるようになった。本来、個人は自由・平等・独立な人格であるべきであり、対等な立場でなければならない。しかし、現実には、独立・平等ではないことがほとんどである。

 資本家と労働者の雇用関係は、市民法からみれば、賃金と労働力を自由に、対等な立場で交換する契約である。しかし、実際には、資本家は富の蓄積のため利潤を追求し、労働者に低賃金・長時間労働を課そうとする。ところが生産手段をもたない労働者は、仕事につかなければ生活できないため、雇用契約を結ばざるを得ない。また不利な労働条件を拒否することもできない。このように、資本家である経済的強者によって、経済的弱者である労働者の自由な社会活動は妨げられている。そこで国家は経済的弱者の生存を維持するため、経済的強者の自由な社会活動に対して、規制を加える役割を担わざるを得なくなった。資本主義社会の矛盾と欠陥を解決するため、経済生活関係の規律を個人に委ねた私法の原理を修正し、資本主義体制を維持しなければならない。そこで、公法と私法のいずれにも属さない社会法が出現したのである。

 社会法は、私法の領域に国家が直接介入して、個人の自由・平等を実現しようとするものである。したがって、社会法は最初から、公法的機関と私法的機関とが相交錯している。公法と私法とを、判然と区別することができないように、社会の基盤が変化したということである。

 以上のように、近代市民社会では、公法、私法、そして社会法が三位一体となって、国家法を形成している。

参考

末川博『法学入門』
伊藤正巳=加藤一郎『現代法学入門』

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一度不合格となり昭和62年7月に再提出、昭和63年10月に返却されました。
あまりにおそいので問い合わせの電話をいれました。
評価はBでした。

講師評「全般的に要領よくまとまっています。しかし、「なぜそうなるのか」という視点が欠けています。知識の羅列ではなく、「なぜ?」を問うことによって法的思考力が深められます。そのためのリポートですからもっと積極的な姿勢で取り組んでください。

そのためには数冊の参考文献を熟読し、しっかり理解することが必要です。その上で自分なりの構想(枠組み)の下で具体例を折り込んで述べていってください。なお参考文献は必ず末尾に記して下さい。次回を期待しています。」

 

不合格となったリポートは通信教育を始めてまだ間もない頃に書いたもので、今振り返れば中学生の下手くそな作文レベルでした。

 

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