「『赤毛のアン』の中で僕がいちばん好きな言葉に、「scope for imagination」つまり「想像の余地」と訳される言葉があります。これはアンの口癖みたいなもので、この小説全体を貫く重要なモティーフとして繰り返し出てくる言葉です。
アンは、よく「ここには、想像力の 広がる余地がある」という表現を使います。では、彼女にとっての「想像の余地」とは、どういうものを指しているのでしょうか。
これは、想像力を広げるに値するほど素晴らしいものに出会ったとき、彼女の口から出てくる言葉です。
それはたとえば、目を奪われるような美しい景色であったり、現実を忘れ去ってしまうくらいロマンチックな小説であったり、あるいはそこから物語がひとつ紡ぎ出せるくらい素敵な名前だったりします。そういうものに出会ったとき、アンは感嘆と共に、「ここには、想像力の 広がる余地がある」と語るのです。
この物語の主人公アン・シャーリーは、『赤毛のアン 』の第二章で初めて登場します。この章は、孤児院育ちのアンが、初めてプリンス・エドワード島にやってきたときのことを描いた章です。マシュー・カスバートとの 出会いを描いた章であり、また、アンにとって、「想像」するということが、どれだけ大切なことなのかを読者に向かって説明している、とても重要な章でもあります。
アンは、馬車で迎えに来たマシューと共にグリーン・ゲーブルズに向けて出発します。馬車は、ブライトリバーの村を出て小高い丘の急坂を下り始める。その急坂では、道が地中にもぐりこむほど低くなり、両側が土手のように数フイートも高くなっているので、ちょうど二人の 頭の上に、満開のサクラの花や、すらりと細身のシラカバが並んでいます。
その光景を見て感激したアンは、「うわ、きれい― 頭の上の、白いレースのような花をいっぱいつけた本を見て、なにを思い浮かべる?」とマシューに聞きます。すると、「その、なんだ、わからんね」という答えが返ってくる。そこで、アン は、「あら、花嫁さんにきまっているわ。真っ白いドレスを着て、すてきな薄いベールをかぶった花嫁さん。まだ一 度も見たことはないけど、想像はできるの」と応えるのです。
しかし、アンが感動したこの景色も、マシューにとっては特別なものではありません。春になったら木々が芽吹き、サクラの花が満開になるのは自然界の法則に則った、ごく当然なこと。毎年繰り返される、見慣れた景色のひとつに過ぎません。サクラを見たからといって特別な感情が湧き上がってくるわけでもない。サクラはサクラであり、そこから何か別のものを連想してイメージを重ね合わせるなどの行為を、マシューは今までしたこともなければ、考えたこともありません。ところが、この少女はそれをする。マシューがどんなに頭をひねってみても搾り出すことができないような連想を、アンは軽々とやってみせる。馬車が通り過ぎていく 景色のひとつひとつに声を上げては、マシューにその「想像」の世界を披露していく。アンにとっては花が満開に咲き零れるサクラの木は、ただのサクラではなく、真っ白いドレスを着た花嫁さんに変身してしまうのです。
しかもそこでアンのおしゃべりは終わりではありません。花嫁さんから始まったアンの連想は、次に自分の花嫁姿に飛ぶ。自分も素敵な花嫁さんになりたいけれど、顔がかわいくないからお嫁にいけないかもしれない。でも外国に行く宣教師さんなら、 あまり選り好みをしなさそうだからもらってくれるかもしれない。でも白いドレスだけはいつかきっと着てみせる。それがこの世でのわたしの最高の望み。だって、孤児院での生活では、いつもこんなひどいおんばろ服を着ていなくちやならないんだから。そしてひとしきり服の話題を続けたと思ったら、今度はプリンス・エドワード島についてしゃべり始める。
アンにとっての最大の謎は、どうしてプリンス・エドワード島の土はこんなに赤いのかとい うこと。その質問を、アンを孤児院からブライトリバーの駅まで 連れてきてくれたスペンサーのおばさんにも、道中投げかけてきたわけですが、彼女からは、そんなことは知らないし、お願いだからそう質問ばかりしないでくれと言われてしまう。もう千くらい質問しただろう、頼むからすこし黙っててくれ、というようなことを言われてしまう。だから今度はマシューに開くわけですが、これもまた、「その、 なんだ、わからんね」で終了してしまう。
ここでアンは、とても重要な台詞を言います。
「それが知りたいこと、その一。知りたいことがいっぱいあるって、素敵だと思わない?生きてることがうれしくなっちゃう—こんなにおもしろい世界に生きているんですもの。なにからなにまですっかりわかっていたら、半分もおもしろくないんじゃないかしら。想像の広がる余地が、全然なくなっちゃうもの」
これがアンにとっての「想像の広がる余地」の定義なのです。
アンにとっては、世界は果てしなく広く、未知なるものに沿れている。新しく耳にすること、目にすること、全てがアンにとっては新しい世界であり、未来なのです。その新しい世界に対する感動や、疑間に思ったことをどんどん吸収していきたいという純粋な好奇心の前では、たとえ、周囲の人に「子どもはあまりしゃべるな」と言われようとも、あるいはスペンサー夫人に、まるで「舌が宙ぶらりん」だと言われようとも、頭に浮かんだ質問を断ち切ることはできません。それこそが、アンにとっては「 生きる」ことであり、「想像する」ということでもあるからです。
「想像の広がる余地」があるということは、それだけまだ見ぬ世界が広いということ。新しい感動や、出会いが自分を待っているということ。この世の中、もし「なにからなにすっかりわかっていたら、半分もおもしろくない」と言う彼女にとっては 、「想像」の翼を広げるこ とができる場所というのは、生きる上での希望に満ち溢れた世界そのものなのではないでしょうか。」
アンは、よく「ここには、想像力の 広がる余地がある」という表現を使います。では、彼女にとっての「想像の余地」とは、どういうものを指しているのでしょうか。
これは、想像力を広げるに値するほど素晴らしいものに出会ったとき、彼女の口から出てくる言葉です。
それはたとえば、目を奪われるような美しい景色であったり、現実を忘れ去ってしまうくらいロマンチックな小説であったり、あるいはそこから物語がひとつ紡ぎ出せるくらい素敵な名前だったりします。そういうものに出会ったとき、アンは感嘆と共に、「ここには、想像力の 広がる余地がある」と語るのです。
この物語の主人公アン・シャーリーは、『赤毛のアン 』の第二章で初めて登場します。この章は、孤児院育ちのアンが、初めてプリンス・エドワード島にやってきたときのことを描いた章です。マシュー・カスバートとの 出会いを描いた章であり、また、アンにとって、「想像」するということが、どれだけ大切なことなのかを読者に向かって説明している、とても重要な章でもあります。
アンは、馬車で迎えに来たマシューと共にグリーン・ゲーブルズに向けて出発します。馬車は、ブライトリバーの村を出て小高い丘の急坂を下り始める。その急坂では、道が地中にもぐりこむほど低くなり、両側が土手のように数フイートも高くなっているので、ちょうど二人の 頭の上に、満開のサクラの花や、すらりと細身のシラカバが並んでいます。
その光景を見て感激したアンは、「うわ、きれい― 頭の上の、白いレースのような花をいっぱいつけた本を見て、なにを思い浮かべる?」とマシューに聞きます。すると、「その、なんだ、わからんね」という答えが返ってくる。そこで、アン は、「あら、花嫁さんにきまっているわ。真っ白いドレスを着て、すてきな薄いベールをかぶった花嫁さん。まだ一 度も見たことはないけど、想像はできるの」と応えるのです。
しかし、アンが感動したこの景色も、マシューにとっては特別なものではありません。春になったら木々が芽吹き、サクラの花が満開になるのは自然界の法則に則った、ごく当然なこと。毎年繰り返される、見慣れた景色のひとつに過ぎません。サクラを見たからといって特別な感情が湧き上がってくるわけでもない。サクラはサクラであり、そこから何か別のものを連想してイメージを重ね合わせるなどの行為を、マシューは今までしたこともなければ、考えたこともありません。ところが、この少女はそれをする。マシューがどんなに頭をひねってみても搾り出すことができないような連想を、アンは軽々とやってみせる。馬車が通り過ぎていく 景色のひとつひとつに声を上げては、マシューにその「想像」の世界を披露していく。アンにとっては花が満開に咲き零れるサクラの木は、ただのサクラではなく、真っ白いドレスを着た花嫁さんに変身してしまうのです。
しかもそこでアンのおしゃべりは終わりではありません。花嫁さんから始まったアンの連想は、次に自分の花嫁姿に飛ぶ。自分も素敵な花嫁さんになりたいけれど、顔がかわいくないからお嫁にいけないかもしれない。でも外国に行く宣教師さんなら、 あまり選り好みをしなさそうだからもらってくれるかもしれない。でも白いドレスだけはいつかきっと着てみせる。それがこの世でのわたしの最高の望み。だって、孤児院での生活では、いつもこんなひどいおんばろ服を着ていなくちやならないんだから。そしてひとしきり服の話題を続けたと思ったら、今度はプリンス・エドワード島についてしゃべり始める。
アンにとっての最大の謎は、どうしてプリンス・エドワード島の土はこんなに赤いのかとい うこと。その質問を、アンを孤児院からブライトリバーの駅まで 連れてきてくれたスペンサーのおばさんにも、道中投げかけてきたわけですが、彼女からは、そんなことは知らないし、お願いだからそう質問ばかりしないでくれと言われてしまう。もう千くらい質問しただろう、頼むからすこし黙っててくれ、というようなことを言われてしまう。だから今度はマシューに開くわけですが、これもまた、「その、 なんだ、わからんね」で終了してしまう。
ここでアンは、とても重要な台詞を言います。
「それが知りたいこと、その一。知りたいことがいっぱいあるって、素敵だと思わない?生きてることがうれしくなっちゃう—こんなにおもしろい世界に生きているんですもの。なにからなにまですっかりわかっていたら、半分もおもしろくないんじゃないかしら。想像の広がる余地が、全然なくなっちゃうもの」
これがアンにとっての「想像の広がる余地」の定義なのです。
アンにとっては、世界は果てしなく広く、未知なるものに沿れている。新しく耳にすること、目にすること、全てがアンにとっては新しい世界であり、未来なのです。その新しい世界に対する感動や、疑間に思ったことをどんどん吸収していきたいという純粋な好奇心の前では、たとえ、周囲の人に「子どもはあまりしゃべるな」と言われようとも、あるいはスペンサー夫人に、まるで「舌が宙ぶらりん」だと言われようとも、頭に浮かんだ質問を断ち切ることはできません。それこそが、アンにとっては「 生きる」ことであり、「想像する」ということでもあるからです。
「想像の広がる余地」があるということは、それだけまだ見ぬ世界が広いということ。新しい感動や、出会いが自分を待っているということ。この世の中、もし「なにからなにすっかりわかっていたら、半分もおもしろくない」と言う彼女にとっては 、「想像」の翼を広げるこ とができる場所というのは、生きる上での希望に満ち溢れた世界そのものなのではないでしょうか。」