イギリスへの旅の思い出 _ 小説『嵐が丘』の舞台ハワース(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/f925f0450a82ca4bf6fda4090792f352
ブロンテ博物館の日本語案内リーフレット、
入口-
このジョージ王朝の家は、1778年にヨークシャー地方の石を使って建てられた。1世紀の後、ブロンテ師の後任のジョン・ウェイド師は、切り妻部分を増築した。この部分は、現在図書館と展示室になっている。家の、元々ブロンテ家であった部分には、一家の家具や個人の所有品が置かれてある。建物は、ハワース在住のジェームズ・ロバート卿により、1928年にブロンテ協会に寄贈された。シャーロットは、ホールと子供部屋をなくして、食堂と二階のベッドルームを広げる等、家に様々な修復を施した。家具のほとんどは、ブロンテ家のもので、装飾は当時のものである。
ブロンテ師の書斎-
右側の部屋はブロンテ師の書斎で、主に教区に関する仕事に使われた。彼は、よくここで一人で食事をしたので、彼の食卓がサイドテーブルに設けられている。詩篇集と拡大鏡が、暖炉の前の机の上にある。小さい堅型ピアノは、子供達のもので、主にエミリーが弾いていた。
食堂-
この部屋は、姉妹がいろいろなことをして過ごした部屋である。アンが、暖炉の囲いに足を乗せて座ったロッキングチェアーや、エミリーがその上で亡くなったというソファもある。シャーロットの伝記を書いたギャスケル夫人は、部屋の主な色調は深紅色だったと書いている。シャーロットは次のように書いている。
「食堂のカーテンができてきました。私は工場で深紅色に染めてくれるよう注文したのですが、ひどい染めで、ちっとも気に入りません。」マントルピースの上には、リッチモンドが描いたシャーロットの肖像の複製画が掛けられており、ソファの上には、レイランドによるパトリック・ブランウェル・ブロンテの円形浮き彫りの石膏像が掛かっている。他の壁には、シャーロットのの敬愛するウェリントン公爵とウィリアム・サッカレーの版画が掛かっている。部屋は、彼女が作家として成功した時に拡張された。
台所-
この部屋は、1878年に大幅に改装され通路となった。窓はふさがれ、新しい出入口が造られ、古いかまどは取り除かれた。台所は可能な限り改造され、元々あった家具が、再び入れられた。エミリーは毎週このテーブルでドイツ語の書物を読みながらパンを作った。台所用品やここに展示されている食器類は、全てブロンテ家所有のものである。
「ブロンテ姉妹の生涯
作者エミリ・ブロンテは、荒野に囲まれた村ハワースで育った。『嵐が丘』は彼女が残した唯一の小説で、まだ若い29歳(1847)のときに出版されたものだった。
父親はアイルランドの貧しい農家の息子だったが、上昇志向と世渡りのうまい一面を持ちあわせていて、ケンブリッジ大学へ入学する機会をつかみ、イングランド国教会の牧師となった。結婚して6人の子供をもうけたが、上の娘二人は夭逝し、成人したのは息子のパトリック(1817-48)、三人の娘シャーロット(1816-55)、エミリ(1820-49)、アン(1820-49)だった。母親は末娘のアンを産んだ一年後に亡くなり、伯母が一家の面倒を見た。
つまりエミリは母をほとんど覚えていない。さらに子どものころは、息子パトリックだけを手元に残そうとした父の考えで、姉たちとともに寄宿学校に入れられた。
寄宿学校は劣悪な環境で、上の姉二人が結核で死亡した。姉の者―ロッテが『ジェーン・エア』に描いた非道な寄宿学校は、ここがモデルだ。それからエミリは、ベルギーへフランス語を学ぶために留学したが、ハワースを恋しがり、ふるさとへ戻ってきた。
兄妹は文学を志し、シャーロッテ、エミリ、アンは1846年に男三人の共著として詩集を自費出版した。女の詩人というだけで正当な評価を得られないことを恐れて、男の筆名にしたのだ。しかし、たった二部しか売れなかった。
そこで彼女たちは詩をあきらめ、今度は競って小説を書いた。姉のシャーロッテが『ジェーン・エア』を、エミリが『嵐が丘』を、アンが『アグネス・グレイ』を書いた。
しかし姉の『ジェーン・エア』だけが絶賛され、英米で大流行した。シャーロッテは、一躍、ジェーン・オースティンやジョージ・エリオットに並ぶ女流作家としてロンドンの文壇で大人気を博した。一方、『嵐が丘』は、あまりにも激情的で非常識だと黙殺された。
エミリは深く傷つき、失望した。そこへ一家の期待を背負っていた兄が、家庭教師先の夫人と不倫騒動を起こしたあげく自暴自棄になり、酒とアヘンに逃避して自殺同然の死をとげた。
二重のショックから、エミリは、兄の葬儀で引いた風邪の治療を拒み続け、休養もとらず、ついに肺炎にかかった。それでも安静を守らず、家事をしたり荒野を歩きまわったりして衰弱し、ついに居間の長椅子で亡くなった。生きる気力をなくした末の緩慢な自殺と言えるのではないだろうか。
牧師館の居間には、エミリが30歳で息をひきとった長椅子が、そのままに置かれていた。私はそこに立ち止まり、しばらく椅子を見つめていた。キャサリンの亡霊ではないが、エミリの無念な想いに満ちた何かがそこに横たわっているような気がしたからだ。『嵐が丘』は、作者エミリの没後、高く評価されるようになり、今では世界的な名作となっている。しかし作家は、やはり生前に理解者をえることこそが無情の喜びなのではないだろうか。
牧師館には、一家の食器、シャーロッテの執筆台、ペンのほか、服や靴も残されていた。ドレスは、今どきの中学生でも着られないくらい小さかった。当時の貧しい食事がしのばれた。
四人の兄妹は二十代から三十代にかけて次々と世を去り、最後に、頑固だった牧師の父が、ただ一人残された。
牧師館に隣接して、墓地があった。歩いてみると、墓石は昔風の大きなものばかりで、歳月に傾いたり苔むしていたりして、いんうつな墓場だ。墓碑を一つ一つ見ていくうちに、ブロンテ姉妹が生きた19世紀初めは、早死にした若者が多かったことがわかった。1817生〰39没などという男性や女性の墓が、朽ちたり欠けたりして並んでいる。エミリの墓は、教会の中にあった。観光客がたむけたのだろうか、ヒースのささやかな花束が捧げられていた。
ハワースは、荒野の丘にできた小さな村だった。石畳の通りを五分も歩けば、家並みは途絶えてしまう。特産の毛織物を売る店などもあったが、人影はまばらだった。秋が始まろうとしていて、ひんやりした空気には、乾いた草の匂いがした。冬になれば、さぞかし殺風景で寂しいところだろう。
だが、エミリは『嵐が丘』に次のように書いている。
「このあたりの人たちは、都会の人間なんかよりもっと真剣に自己に忠実に生きているし、見かけや変化や、移り気な外面的な物事に動かされることが少ない」と。
独身で恋人もいなかったエミリ、無口で神秘を好んだ彼女にも、同じことが言えるかもしれない。」
(松本侑子著『イギリス物語紀行』平成16年2月10日、幻冬舎発行より引用しています。)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/f925f0450a82ca4bf6fda4090792f352
ブロンテ博物館の日本語案内リーフレット、
入口-
このジョージ王朝の家は、1778年にヨークシャー地方の石を使って建てられた。1世紀の後、ブロンテ師の後任のジョン・ウェイド師は、切り妻部分を増築した。この部分は、現在図書館と展示室になっている。家の、元々ブロンテ家であった部分には、一家の家具や個人の所有品が置かれてある。建物は、ハワース在住のジェームズ・ロバート卿により、1928年にブロンテ協会に寄贈された。シャーロットは、ホールと子供部屋をなくして、食堂と二階のベッドルームを広げる等、家に様々な修復を施した。家具のほとんどは、ブロンテ家のもので、装飾は当時のものである。
ブロンテ師の書斎-
右側の部屋はブロンテ師の書斎で、主に教区に関する仕事に使われた。彼は、よくここで一人で食事をしたので、彼の食卓がサイドテーブルに設けられている。詩篇集と拡大鏡が、暖炉の前の机の上にある。小さい堅型ピアノは、子供達のもので、主にエミリーが弾いていた。
食堂-
この部屋は、姉妹がいろいろなことをして過ごした部屋である。アンが、暖炉の囲いに足を乗せて座ったロッキングチェアーや、エミリーがその上で亡くなったというソファもある。シャーロットの伝記を書いたギャスケル夫人は、部屋の主な色調は深紅色だったと書いている。シャーロットは次のように書いている。
「食堂のカーテンができてきました。私は工場で深紅色に染めてくれるよう注文したのですが、ひどい染めで、ちっとも気に入りません。」マントルピースの上には、リッチモンドが描いたシャーロットの肖像の複製画が掛けられており、ソファの上には、レイランドによるパトリック・ブランウェル・ブロンテの円形浮き彫りの石膏像が掛かっている。他の壁には、シャーロットのの敬愛するウェリントン公爵とウィリアム・サッカレーの版画が掛かっている。部屋は、彼女が作家として成功した時に拡張された。
台所-
この部屋は、1878年に大幅に改装され通路となった。窓はふさがれ、新しい出入口が造られ、古いかまどは取り除かれた。台所は可能な限り改造され、元々あった家具が、再び入れられた。エミリーは毎週このテーブルでドイツ語の書物を読みながらパンを作った。台所用品やここに展示されている食器類は、全てブロンテ家所有のものである。
「ブロンテ姉妹の生涯
作者エミリ・ブロンテは、荒野に囲まれた村ハワースで育った。『嵐が丘』は彼女が残した唯一の小説で、まだ若い29歳(1847)のときに出版されたものだった。
父親はアイルランドの貧しい農家の息子だったが、上昇志向と世渡りのうまい一面を持ちあわせていて、ケンブリッジ大学へ入学する機会をつかみ、イングランド国教会の牧師となった。結婚して6人の子供をもうけたが、上の娘二人は夭逝し、成人したのは息子のパトリック(1817-48)、三人の娘シャーロット(1816-55)、エミリ(1820-49)、アン(1820-49)だった。母親は末娘のアンを産んだ一年後に亡くなり、伯母が一家の面倒を見た。
つまりエミリは母をほとんど覚えていない。さらに子どものころは、息子パトリックだけを手元に残そうとした父の考えで、姉たちとともに寄宿学校に入れられた。
寄宿学校は劣悪な環境で、上の姉二人が結核で死亡した。姉の者―ロッテが『ジェーン・エア』に描いた非道な寄宿学校は、ここがモデルだ。それからエミリは、ベルギーへフランス語を学ぶために留学したが、ハワースを恋しがり、ふるさとへ戻ってきた。
兄妹は文学を志し、シャーロッテ、エミリ、アンは1846年に男三人の共著として詩集を自費出版した。女の詩人というだけで正当な評価を得られないことを恐れて、男の筆名にしたのだ。しかし、たった二部しか売れなかった。
そこで彼女たちは詩をあきらめ、今度は競って小説を書いた。姉のシャーロッテが『ジェーン・エア』を、エミリが『嵐が丘』を、アンが『アグネス・グレイ』を書いた。
しかし姉の『ジェーン・エア』だけが絶賛され、英米で大流行した。シャーロッテは、一躍、ジェーン・オースティンやジョージ・エリオットに並ぶ女流作家としてロンドンの文壇で大人気を博した。一方、『嵐が丘』は、あまりにも激情的で非常識だと黙殺された。
エミリは深く傷つき、失望した。そこへ一家の期待を背負っていた兄が、家庭教師先の夫人と不倫騒動を起こしたあげく自暴自棄になり、酒とアヘンに逃避して自殺同然の死をとげた。
二重のショックから、エミリは、兄の葬儀で引いた風邪の治療を拒み続け、休養もとらず、ついに肺炎にかかった。それでも安静を守らず、家事をしたり荒野を歩きまわったりして衰弱し、ついに居間の長椅子で亡くなった。生きる気力をなくした末の緩慢な自殺と言えるのではないだろうか。
牧師館の居間には、エミリが30歳で息をひきとった長椅子が、そのままに置かれていた。私はそこに立ち止まり、しばらく椅子を見つめていた。キャサリンの亡霊ではないが、エミリの無念な想いに満ちた何かがそこに横たわっているような気がしたからだ。『嵐が丘』は、作者エミリの没後、高く評価されるようになり、今では世界的な名作となっている。しかし作家は、やはり生前に理解者をえることこそが無情の喜びなのではないだろうか。
牧師館には、一家の食器、シャーロッテの執筆台、ペンのほか、服や靴も残されていた。ドレスは、今どきの中学生でも着られないくらい小さかった。当時の貧しい食事がしのばれた。
四人の兄妹は二十代から三十代にかけて次々と世を去り、最後に、頑固だった牧師の父が、ただ一人残された。
牧師館に隣接して、墓地があった。歩いてみると、墓石は昔風の大きなものばかりで、歳月に傾いたり苔むしていたりして、いんうつな墓場だ。墓碑を一つ一つ見ていくうちに、ブロンテ姉妹が生きた19世紀初めは、早死にした若者が多かったことがわかった。1817生〰39没などという男性や女性の墓が、朽ちたり欠けたりして並んでいる。エミリの墓は、教会の中にあった。観光客がたむけたのだろうか、ヒースのささやかな花束が捧げられていた。
ハワースは、荒野の丘にできた小さな村だった。石畳の通りを五分も歩けば、家並みは途絶えてしまう。特産の毛織物を売る店などもあったが、人影はまばらだった。秋が始まろうとしていて、ひんやりした空気には、乾いた草の匂いがした。冬になれば、さぞかし殺風景で寂しいところだろう。
だが、エミリは『嵐が丘』に次のように書いている。
「このあたりの人たちは、都会の人間なんかよりもっと真剣に自己に忠実に生きているし、見かけや変化や、移り気な外面的な物事に動かされることが少ない」と。
独身で恋人もいなかったエミリ、無口で神秘を好んだ彼女にも、同じことが言えるかもしれない。」
(松本侑子著『イギリス物語紀行』平成16年2月10日、幻冬舎発行より引用しています。)