雑誌「子どものしあわせ」表紙絵
「働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたいと、ねがいつづけてきた私は、自分の絵に、もっと「ドロ臭さ」がなければいけないのではないかーと、ずいぶん悩んできたものでした。
ドロンコになって遊んでる子どもの姿が描けなければ、ほんとうにリアルな絵ではないかも知れない。その点、私の描く子どもは、いつも、夢のようなあまさが、ただようのです。
実際、私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった美しい子どもに、みえてしまうのです。
しかし、この「子どものしあわせ」の表紙は、そうした迷いをすてて、ほんとうにうれしく描けました。私は、工場の勤労者の生活は深く知らないかもしれませんけど、母と子の姿なら知っています。私も、子をもつ母親だからです。
迷うことなく、スッキリした、ある意味では少々モダンなものを、思いきって描こうと決心して、絵筆をとりました。
そして思いましたー。
これからは「ドロ臭さをださなければ」などと苦しむのは、もう、やめようと。
いまの働く人びとは、現代的なセンスを、私たちが考えている以上に、きっと、もっているにちがいないと、おもうのです。
いわさきちひろ(1963年)」
画像は「毛糸を編む少女」(1972年)、ちひろ美術館公式ツィッターより。
「働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたいと、ねがいつづけてきた私は、自分の絵に、もっと「ドロ臭さ」がなければいけないのではないかーと、ずいぶん悩んできたものでした。
ドロンコになって遊んでる子どもの姿が描けなければ、ほんとうにリアルな絵ではないかも知れない。その点、私の描く子どもは、いつも、夢のようなあまさが、ただようのです。
実際、私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった美しい子どもに、みえてしまうのです。
しかし、この「子どものしあわせ」の表紙は、そうした迷いをすてて、ほんとうにうれしく描けました。私は、工場の勤労者の生活は深く知らないかもしれませんけど、母と子の姿なら知っています。私も、子をもつ母親だからです。
迷うことなく、スッキリした、ある意味では少々モダンなものを、思いきって描こうと決心して、絵筆をとりました。
そして思いましたー。
これからは「ドロ臭さをださなければ」などと苦しむのは、もう、やめようと。
いまの働く人びとは、現代的なセンスを、私たちが考えている以上に、きっと、もっているにちがいないと、おもうのです。
いわさきちひろ(1963年)」
画像は「毛糸を編む少女」(1972年)、ちひろ美術館公式ツィッターより。