たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『あめのひのおるすばん』

2022年09月17日 00時11分28秒 | いわさきちひろさん


「おかあさん どこまで いったか みてきて

 だあれも いない おへやなの

 すぐって いったのに まだかしら

 ど・れ・み・ふぁ・そ・ら・し・ど
 ど・し・ら・そ・ふぁ・み・れ・ど

 あまだれも うたってる
 そうだ ゆび なめちゃ いけないって

 おはなが ぬれて なんだか ふしぎ
 なんだか

 ぴりりん ぴりりん かくれても だめ きこえちゃう

 こどもの おさかな
 おかあさんの おさかな
 いまの でんわ おかあさんかしら

 だんだん くらく なってきた
 おかあさん は・や・く

 わたしの おねがい おまどに かいた

 あっ おかあさん あのね あのね

 でんわ なってよ もう いちど
 おるすばんだって できたんですもの」




「絵本づくりには熱海ホテルが仕事場になった。ホテルの窓から雨にけぶる海を見ていた武市八十雄の頭に、突然、雨の日というイメージがうかび、ちひろがすかさず「それ、それにする。おるすばんっていうのどうかしら」といって、『あめのひのおするばん』は一瞬にして決まってしまった。たいていはこの調子で、仕事場にむかう車のなかなどでテーマがきまってしまうのだった。

 ホテルの仕事部屋では、あまてていわゆる物語絵本のようなストーリーを組みたてないようにしようと気持ちをおちつけるのだが、話しあって制作にかかっても、想っていることと描かれて出てくるものがちがうのである。

 ゆき詰って重苦しい沈黙がつづき、しばらく休もうということになって、それぞれの部屋で一時間ばかり昼寝をすることにした。武市は眠れないのでテレビをひねってみると、ちょうど「しのび泣き」というフランス映画をやっていた。古いテレビで、画面はいわゆる雨の降る状態になっていて、そのうるんだ感じが、この絵本づくるのなかで探っていた心の感じにピッタリなのであった。一時間たってちひろの部屋にいくと、なんと彼女も同じ映画を観ていて、同じような啓示をうけていた。

「あの感じなんだ、あれでいこう」

 気持ちとイメージがピッタリ一致したあとのは仕事は一気にすすめることができた。しかし、絵の制作にあたっては、ちひろにも思いがけないほどの大胆な方法がとられ、ともどいとおそれのたいへんな冒険の連続であったようだ。

 ひちろは器用な人で微妙なところを細かく描くのが上手だったが、武市は今度から太い筆で大きく描くことをすすめた。

「こんな太い筆で描けるかしら、描いたことないけど大丈夫かしら」とちひろは不安がったが、彼は力づよくいった。「あなたほどの技術のある人なら、大丈夫です。技術に走らないで心で描きましょう」

 そのときちひろは「武市さんのいうことをよくきくふしぎな心境の絵かき」になっていたのである。彼女はいわれるままに太い筆を握り、立ったまま低い台にむかって前かがみに腕をのばして描いた。このはじめての経験に彼女は驚き臆病にもなっていた。技術的な大胆な冒険もした。ぼかしやいにじみはそれ以前からの技術だったが、太い筆を使うようになってから絵に勢いがのってずいぶんちがう感じが出るようになった。先に紙に水をぬっておいてそのうえに絵の具を落としてそのにじみを生かす、「たらしこみ」の方法も使った。自然乾燥は時間がかかるのでドライヤーを使ってみた。するとすぐ乾くからそのうえにまたすぐ次の色を流し込んでいく。何回でも洗っては流し込む。紙はボロボロにふやけてくるが、だんだん複雑ないい色があらわれてくる。ちひろはひじょうに喜んで、熱心に意欲的に種々の実験をくり返した。

 例によって二人は雑談をはじめ野球の話や子どものころのことなどしきりに話した。そのときちひろは子どものころ、絵を描く紙がなくて、紙を揉んで描いたことがある、とふと漏らす。

「しめた。それをやってみよう」と武市がのり出す。「画用紙を揉んでシワクチャにしてそのうえに描いてみよう」

 面白そうだ、とちひろものってくる。シワ紙にあやめを描き、色を重ねて塗っていき、まわりを取り去って花のかたちだけ残して製版する。「おはながぬれて、なんだかふしぎ、なんだか」と言葉の添えられた、不思議な厚みと色彩をもつあやめの絵はこうしてつくられたのである。

 ちひろがせっかく描きあげた絵を「洗ってみよう」と武市がいう。水道でジャージャー洗っていると途中でとても面白い部分があらわれてくる。そこでストップ!大急ぎでドライヤーをかけ、そのうえにまた絵の具を流し込む。洗うときもちひろが筆でさっさと撫でるのをみながら、急所をとらえて「ストップ!」をかける。そのかけどころで、絵のイメージはガラリとかわってくる。ふたりの呼吸がピッタリとあわなければできない作業である。

(略)

 しかし、実験はしながらもどんなでき上がりをみせるかはわからなかった。それがわかったのは校正刷りが出てからである。ちひろはそこにあらわれたもののすばらしさに感動し、大いに自信をもったのである。二作目からは、どういうふうに描けばどういう効果があらわれるかをすっかり納得し、計算もせず楽な気持ちで描くことができるようになった。

 絵本はこうしてホテルにこもった数日のうつに描き上げられ、このシリーズの他の本もほぼこのぺ^スで描かれている。

 これらの絵本は従来のようなストーリーの面白さを追うものではない。一種の心理描写のようなもので、小さな子どもの留守番の心ぼそさとか、生まれたばかりの赤ちゃんがお母さんといっしょに病院から帰ってくるのを待つ心境をテーマにした『あかちゃんのくるひ』など、子どもの真理の動きをリアルに描き出したものである。

 絵を描く段階ですでに作中の子どもの気持ちの流れのようなものははっきりとできているのだが、絵ができ上がったあとで、より象徴的で鮮明な言葉をつける。なるべく多くを語らず、ギリギリ心理を伝えるに足るだけの小さなつぶやきを添えるのである。制作のあいだ、二人は童心にかえり、絵本のなかの子どもになりきって、その心の動きを追うのである。

 それは二人とも、かつて経験したことのないほどの不思議な時間だった。作中の心理的進行にはちひろの幼児経験が大いに生かされているが、子どものころ、働きに出ていた母親の帰りを毎日待ってすごしたその体験が、これら絵本に多くあらわれる「待つ」というモチーフにつながっているのかもしれない。」

(滝いく子『ちひろ愛の絵筆-いわさきちひろの生涯-』労働旬報社、昭和58年8月1日第一刷発行、198-202頁より)














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