たんぽぽの心の旅のアルバム

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『家の歴史』より-律令制度の家-戸籍がつくられ登録された

2024年09月13日 08時40分38秒 | 本あれこれ

「三律令時代の家 Ⅰ律令制度の家

  7世紀に政治的な変革が起った。大化改新(645)である。成長してきた国家が、さらに改編されねばならぬ段階になり、大陸の強大な国家の制度も知られ、大和国家を中心にして諸国家の権力を否定し、統一国家をつくりあげた。そして氏族的な規範のかわりに法の規範を輸入して律令の制度となった。君主は統一的な君主として天皇のみとなり、諸国家の君主たちの独立性をもった従属関係は失われて、法で規定された官僚となった。そして地方は地域的に国郡里保の行政組織に編成され、長官が任命されて、領域国家の体裁もできたのである。こういう制度の下に家も編入された。家は制度としてはっきり現われ、戸籍がつくられ登録された。

 まず一般民衆が、公民という資格を得た。村または氏の民、すなわち村の君主・氏の君主の民でなく、国家の民となった。部という名称も失われた。それとともに賤民・奴隷などの制度もでき、公民と区別されている。民衆についてそう規定したうえで、家の制度ができた。 

郷戸 律令の制度の家は郷戸といわれる。正倉院文書の中をはじめ、戸籍の原物が残っているので、一番研究されてきたものであるが、解釈はむずかしい。まず戸籍によると大小いろいろの戸があって、簡単なのは筑前川辺里のト部久良麻呂を戸主とし、その妻と三男二女と、長男の妻と孫二人の合計十人の郷戸がある(大宝2年)。これならばもう直系の血縁だけの家で、現代の家と同じようなものといっていい。しかしまた同じ場所でト部首羊の家は、戸主夫婦と一女のほかに寄口一人とその母を含んだ五人の郷戸である。数は前より少ないが、前のような単純な夫婦親子の家ではない。一様にはいえないのであって、この里の他の戸については、人数では5人が1戸、10人台が10戸、20人台が4戸、30人台が3戸、124人のもの1戸という風であり、成員の種類からいうと戸主を中心する直系親だけのもの、それに傍系親が単独または妻子や親とともに含まれているもの、または戸主と血縁関係のない寄口が単独または妻子とともに含まれているもの、同じく非血縁の奴隷が含まれるものがあり、それらが全部または一部含まれた戸がある。だから法的なる家は決して構造においても人員数においても一定していない。しかし成員別に法定の名称はついていて、郷戸の中に含まれた房戸という名称もあり、寄口・奴隷の名称もある。同一の郷戸と決定しながら、その中にさらに単位的な構成員を区別しているのである。それはおそらくは実情の反映であろう。

 そこで最も単純なものとしては直系親だけの戸があるわけだが、それが基本的な家というのでないことが知られ、いわば偶然に直系親だけで戸を構成し得た場合もあるということを意味するのであろう。人数はもっと少なくても直系親以外を含むものがあるからである。それで、系図的にまた姓により、直系とそうでないものと区別し得る段階にはあるが、しかもそういうものを含んでなお、一戸と見る必要があり、またそう扱っても不自然でなかったのである。

 

(略)

 

 戸主はそこで戸の代表責任者であるが、戸口すなわち戸の成員に対して特別の機能をもったり、統一的に支配する不可分の権力をもっていた証跡はないという。これは注意されるべきだが、さらに戸主が女であることは認められなかった。男の戸主ある。一夫多妻が法的に認められ、妾をもつことができたことは実際の戸籍も現われている。そして妾と妻とには大した区別はい。そして夫婦同財といわれ、妻の財は夫の財だという意味も含まれていたが、妻の特有の財も認められていた。財の相続については女は男に多少は劣っていた。

 戸の相続は戸主の身分の相続となるわけだが、祖先の祭の相続であり、戸主の男系の男子一人が選定された。それが嫡子である。嫡妻の長子から順次に選ばれるから、妾腹でも嫡子たり得る。嫡子以外の子は衆子といわれ区別されていた。妾腹の子を庶子という。こうして父権がそう強くないにせよ男系であり、男の優位が決定されたのである。

 法的に定められた戸の制度はかかるものだった。しかし、それは法であり、制度である。そのままに現実の家ともいえぬし、といって現実の家と無関係の制度でもなかったであろう。そこで、この法に現われている性質について検討してみる必要がある。

 父権・父系ということは示されたが、現実においてまだ十分に基盤が熟していなかったらしくもある。まだ氏族的な性格は社会的に強く残っており、それが国家に統一される程度にはなっていたにせよ、氏族から充分に脱却せず、国家組織にも妥協的な性質が見られる。むしろ実際に父権・父系的になっていない故に、法の上でとくに父権・父系に統一しようという意図がみられるようである。先進隣国の唐の法を学び、その組織を輸入しているから、法の上に父系が強く出されているのである。しかし、実は天皇にも女性は現われるし、民間にも母親の習俗は残っていたようである。この時代に編んだ記紀の神話で特に男性優位を強調しているようなふしがある。母権・母系から父権・父系への転換期で、それが法によって父権・父系に統一されるよう促された時代ということになるかと思う。

 そういうように、戸の制度は、現実そのままの表現ではなく、しかも現実を反映してもいたと思われる。その程度が問題である。

 

家の性質 前代からの家の発展について、まず農業の面から見ると、細分経営の方向がますます出てくることは、疑いない。そして集約化するにつれて、分割された土地と家の継続的な結びつきが永くなり、その家の「所有」する土地という性質が強まる。つまり土地所有が強くなるということである。それと同時に、進歩した農法に適応すべき共同作業・共同管理もある。たとえば田植というような特徴的な方法が7、8世紀には明白に行われており、その方法も定まり、一般化して農業は進歩していた。田植という非常に集約的な方法が、短期間にそれをしなければならぬ強い農繁期を生んで、協力して皆の田植を一気にすませようという共同組織を生む。そのほか灌漑設備も発達し、遠い所から水が引かれるようになれば、それだけ水田は安全になるし、また耕地を増すこともできるが、そのかわり広い範囲で協力、共同しなければならない。水田に肥料を入れることも、同じころから著しく見られ、緑肥や厩肥(きゅうひ)を入れて土地が豊かになると同時に、採草地を共同で管理し利用しなければならない。

 こうして農耕地の家々による細分所有化の進展と、家々の共同組織とが、同時に不可分に進むわけであるが、進歩に応じて、家そのものも、その家々の共同する範囲も変ることは当然である。農業経営が進歩しただけに、それに対応する家になり、共同をする必要があるからである。いいかえると家と村は変化する。そこで、氏の変化があり、そのことに国家統一の基礎があったとみられるのであって、氏の君主の権力を国家権力に集中したと解され、そのためには家々を氏の君主のものでなく、直接に国家の家々であり、土地もまた国家の土地で、家々に配分されているという制度が生れる理由があった。そして、独立の小国家であったような全国の土地民衆を、公地公民とし、国・郡・里・保・戸というように制度づけたと考えられる。

 そうすると、家と村の変化、またそれによる国家の変化が、改新で制度的に規定されたということなのである。では実情はどうか。

 土地についての所有は、制度の上で口分田として現われた。そこに個人単位ということと、その人一代の所有ということが見られる。個人単位は実は農業経営上不可能で、土地経営の主体に老若男女が個人ごとになり得るわけではないから、これは氏から国家への統一によって公民という観念をうち出すために現れたもの、また配分の標準を定めるためのものと思われ、実際は家を単位としたにちがいない。(略)

 戸についても、実際をある程度は反映しているのであろう。そこで家の構造が郷戸に近いものとすると、家の構成員については、生物的な血縁者・夫婦の系列が認識されて、互に血縁のない二組またはそれ以上の系列と複合したことになっており、房戸の名称がついて、家の中に家が二つ以上ある。しかも非血縁の個人も含まれているから、血縁のみが家族で、その家族が複数になっているのではなく、非血縁者も含まれることが示されている。それゆえ、血縁家族という観念は生れてきているが、しかもそれに徹していない状態だといってよかろう。そういう一括された集団が家であり、郷戸であって、郷戸主の統轄の下にある。だから、血縁・非血縁を含む家から血縁または夫妻による家が分化して出かかっている形、少なくともそういう単純な家の観念が出はじめている形ということになる。こういう性質は家の発展について不自然ではなく、縮小してゆく家という発展方向の一つの段階と見ることは可能である。しかし一方、そのかなり分化の不明確な、そして郷戸がたがいにかなり甚だしい差のあるところなどから見ると、このままの不揃いの家が現実にあったのではなく、政治的に戸主責任を定めたので、都合により不揃いになったのかも知れない。

 戸の制度において、郷戸主の系統と、房戸・寄口・奴碑と四段階の構成員を含んでいることも注意される。(略)家が縮小しながら結合している傾向に応じて、縮小した家が平等にでなく序列をとって結合しているのである。

 戸主は、その全体の上にあるが、法的に強い父権は規定されていない。しかし相続が、家の祖先の祭りをつぐということで、その点は原始の家の家長と同性質をもっており、法で規定された以上の神権的な力をもっていたのであろう。

 一夫多妻であること、妻妾の間に大した差がなく、相続者にはいずれの子もなり得るということ、またとくに子のない妻を離別し得ることは、家の相続が大切だということ、それにはとにかく血縁者が大切だということになっていることを示している。

(略)

家と村 村落の存在はどうしても肯定しなければならない。家々とその集団=共同体との組織的組み合わせによって、農業経営は発達しているのである。その共同がなくては家の存在は不可能である。

 そこでもし郷戸を家とすれば、郷戸が寄って結ばれた村=共同体は何であるか。制度の上では里がある。この里が村に当るとすれば都合がいいが、実際はかなり機械的で、行政区画としてはわかるが実際の村であるという根拠はない。これも村の存在は前提としているだろうが、その実態の反映は小さいと見られる。とくに班田や租庸調が、郷戸を直接に対象単位としているので、里が村の実態だとすると軽く扱われすぎている。そこで、律令国家において村は消滅し、存在しなかったという説もあるのである。国家の下には郷戸がある。それが社会的に単位だというのである。

(略)

 律令の制度が何ゆえに郷戸を基礎として、村を重視しなかったか。村がなかったのでないとすれば、理由がなければならぬ。それには制度をつくった国家権力が、氏族的村落権力の否定を重要目的としたことが考えられる。

 そうすると、村はあったにちがいないという推定のもとに、郷戸を考えていい。その郷戸の規模は甚だしく不揃いだった。農業経営の基本単位として、そう不揃いが生ずるはずはない。そうすれば、実態の家と村は、郷戸という制度の背後にあったことになる。

  直接の証拠はないので、まず一応のところ、家と村の概念をもう一度確認した上で推定を下すほかはない。家を婚姻または血縁集団とみることはまだできない。自足的な農業経営においては、経営のための構成の方が大切である。(略)生れによる血縁の認識または意識は現われたにせよ、経営の主体をそれのみに頼れるはずはなかった。だから郷戸主の直系親のみとか、房戸主の直系親のみとかの血縁集団を家とみては危険である。郷戸の中にある非血縁の個人も、家の成員であると見なければならぬ。それと同時に、村もまたそういうものとして存在すべきで、小経営体の家が必要数だけ集り共同する組織であるはずである。それは小経営体そのものが、農業の進歩によって変化したのに対応して、その集合体も変化しているはずだからで、自然村落などという固定したものではあり得ないからである。

 家と村という構造を支配してゆくために、班田制や戸・里までの制度をつくったのだと考えられ、郷戸はつまりそうしてつくられた制度であったのであろうから、郷戸は支配の便宜により、家または村、数個の家を一支配単位としたものではないかということになる。そうすると、家と村の実態は郷戸の中から考えねばならぬ。しかもその実態は、今日まだよくわからないといわざるを得ないのであって、結論を下しうるまでにはなっていないのである。」

 

(社団法人農山漁村文化協会『家の歴史』昭和60年8月20日第四刷、65~79頁より)

 

 

 

 

 

 

 

 

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