たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』より_神様を想像してはいけないの?

2020年05月10日 08時57分42秒 | 本あれこれ
2020年2月22日:茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』より_アンがお祈りをしないわけ
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b489a3ac85a491a123e4d97ea962c410


「しかしここで最も邪魔になってくるのが、アンの「想像力」なのです。「お祈りはしないことにしているの」という発言でマリラを仰天させたアンは、さらにこの後、非常に重要な質問をマリラに投げかけます。それは、お祈りのためにひざまずくよう指示したマリラへの問いで、お祈りをするときは、どうしてひざまずかなくちゃいけないのかしら?」というものでした。

 実はこの素朴な質問には、とても重要なことが隠されています。というより、この疑問を投げかけるという行動自体が、非常に大切な意味を持っているとも言えるでしょう。どうして神に祈る時に決まった形式が必要なのか。

 この質問の後、アンは「わたしが本当にお祈りしたいと思ったらどうするか、教えてあげましょうか?」と無邪気にマリラに提案する。

 「たったひとりで、広い広い野原に出ていくか、深い深い森に入っていって、空を見上げるのーどこまでも、どこまでも高い空をーあのどこまでも果てしない、すばらしく青い空を。そうすれば、心でお祈りを感じると思うわ」

 つまり、教会や家ではないのです。祈りたい時に祈りたい場所で、自由な形で好きなように祈る。慣習に囚われない自由な発想。これがアンの、自然な想像力の発露です。しかしこのような独創的な提案は、一方ではオーソドックスなキリスト教の教養を踏み越えてしまっている、ある意味では危険な思想とも言えるのです。

 実は同じようなシチュエーションがもう一回出てきます。アンが居間に飾ってある「子どもたちを祝福するキリスト」という題の絵を見つめているシーン。キリストを囲んでいる子どもたちの中に、一人寂しげに立っている子どもがいある。アンはその子どもに自分を重ね合わせて、物語を創り上げます。おずおずとイエス様に近づく自分。他の人は誰も気づいてくれないが、そのうちイエス様だけが気がついて、ようやくそばまでたどり着いた自分の頭に手をのせてくれる・・・。そういうイメージを膨らませるわけですが、ここで描かれているのは、イエスの存在すら非常に生き生きとしたものとして想像してしまうアンの自由な発想力です。しかし、それに対してマリラはすばやく注意する。「アン、そんな言い方をするものじゃないね。イエスさまのことをそんなふうにいうなんて、もったいないー罰あたりもいいとこだよ」

 要するに、オーソドックスな宗教観が支配する当時の社会にあっては、毎回の礼拝の儀式から、日常の生活上の規律まで、教会が人々の精神を律していました。そのような中にあっては、こういうふうに想像力を逞しくするというのは、かえって邪魔になることなのです。アンにしてみれば、まさか自分の自由な「想像」が「罰あたり」なこととは思いもしなかったため、目を丸くします。

 ここでは「宗教」と「想像力」の関係性において、とてもスリリングなことが起こっています。当時の社会においては、聖書に書かれていることをオーソドックスな教義のまま、そのまま素直に受け入れるという姿勢こそが大切なのであって、そこからいろいろ想像をめぐらせてしまうというのはやはりちょっと具合の悪いこと、聖書と教会が定めた規定から逸脱してはならないのが基本です。それなのにアンは、「想像力」の翼でもあってその境界線を軽々と越えてしまう。

「異端」という言葉があります。実は「異端」というのは「想像力」という言葉と、ほとんどイコールだと僕は思っています。たとえば「イースター」のお祭り。今ではもっとも「キリスト教」的だと思われているこの春のお祭りも、元をたどれば「異端」と「想像力」が絶妙に絡み合って創造されたものです。もともと中東で生まれた原始キリスト教が、ローマを経てヨーロッパに入り、北上していった。その過程で、現地にもともとあったゲルマンやケルトの宗教や文化と混ざり合うことで半ば創造されていったのです。

 キリストが死んでから三日後に復活したという聖書の記述に則った祝祭は、ゲルマニアの深い森に入っていくうちに、現地の春の祭りと混ざり合っていきました。長く厳しい冬が終わり、暖かい春がやって来る。木々が芽吹き、生命が誕生する。それを祝う祭りです。それがキリストの復活のイメージと結びついた。つまり、本来なら、キリスト教の側からすると「異端」とされる宗教と絶妙にミックスして生まれたのが、現代のイースターの行事なのです。

 そうしてみると、やはりキリスト教における「想像力」というのは非常にスリルのある問題です。だからある種の宗教が偶像崇拝を禁止するという原則を貫くのも、その辺と関係してくるのだと思います。それは「想像力」というのが、場合によっては既存の「秩序」を乱してしまう危険性もはらんでいるからでしょう。つまり、こと宗教においては、「想像の余地」というものはないほうが無難なのです。

 マリラは無意識ではあってもそのことをよく分かっていたのだと思います。だからこそ、アンの「想像力」に対してある種の漠然とした危険性を感じていたわけです。そのためマリラはアンの行き過ぎた「想像力」を抑えようとし、同時に彼女の宗教教育に力を入れた。つまりこの二つの方針は、同じ一つの問題意識から発していたものなのです。」



 
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