会津の重ちゃん日記

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戊辰150年 その10

2018-06-01 18:32:17 | Weblog
2018年6月1日(金)曇 20.9℃~14.3℃
「松平容保公と御辰翰」

 5月31日(木)会津若松市ルネッサンス中之島会館で「若松支店ろうきん友の会総会」。定期総会後、「会津古城研究会」の会長【石田明夫氏」の講演会が開催された。

演題「会津戦争と鶴ヶ城籠城戦」。講師の豊富な資料と巧みな話術で時間があっという間に過ぎてしまった。
会津戦争についてはいくつかの要因や時代背景がある。特に、京都守護職と孝明天皇の御辰翰・御製についての話は興味深かった。
講演の史料をお借りしてアップしいます。※会津歴史ガイドNO708 図・写真・文ℂ 石田明夫

「京都守護職拝命 文久二年(1862)閏八月一日
 大坂、京都、伏見、奈良の奉行所と大阪城代、京都所司代を統括した軍事組織。
 福井、越前藩の松平春嶽と一橋慶喜(慶応二年・1866、十二月五日から十五代将軍となる)の意見による。
 文久三年(1863)七月三十日の御所建春門前の天覧梅揃を尊王攘夷派熊本藩轟武兵衛の策略で急遽開催することとなり、見事に会津藩が実施した。
 文久三年八月十八日の政変で、孝明天皇と将軍家重や会津藩、薩摩藩の公武合体派に対し、長州藩の尊王攘夷派が天皇と将軍を攘夷させようと公家の三条実朝らと図った事件があり、公家ら七人を下関の功山寺に流されています。
その時、会津藩の秋月悌次郎が中川宮を訪れ政変は未然に防がれた。
 

その功績で、孝明天皇から御辰翰を賜った。 ※(御辰翰とは天皇の直筆の私書でほとんどありえないほどのもの)

 堂上以下、暴論をつらね
 不正の措置増長につき、痛心に耐えがたく、
 内命を下したところ、速やかに了承し、
 憂患掃攘、ちんの存念貫徹の段、
 まったくその方の忠誠にて
 深く観悦のあまり、
 右一箱これを遣わすものなり
   文久三年十月九日

 御製(ぎょせい・おおみうた=天皇の歌)
 たやすからざる夜に、もののうふの忠誠の心を喜びてよめる

 和らぐも 武けき心も 相性の
 松の 落ち葉の あらす栄えん
 武士と 心あわして
 いはほおも 貫きまして
 世より思い出

 寛文十二年(1672)十二月十八日、容保公は、六十二歳で逝去。 御辰翰(ごしんかん)と御製(ぎょせい)は亡くなるまで、肌身離さずもっいた。存在が分かったのは亡くなってからだ。
 





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