2016年9月24日(土)曇 24.9℃~16.9℃
「飯盛山洞門くぐり!」
「我ら!白虎隊ウォーク」が飯盛山で開催された。通常、水が絶えず流れている洞門に入れ機会はめったにない。個人、団体いろいろな人が参加していた。今回は、飯盛駐車場で受付を済ませ、北会津公民館と北公民館の講座受講生が一つのグループとして参加した。北公民館の主事 石田明夫氏の説明を聞きながら歩いた。
初めに、国史・旧滝沢本陣横山家住へ。「会津藩主の松平氏が猪苗代町の土津神社や領内の視察、参勤交代の時に滝沢峠越えのために身支度を整えた場所。文禄4年(1596)に建築された東北最古の民家。延宝6年(1678)に本陣が開設された。慶応4年(1868)8月22日藩主松平容保公が白虎隊に出陣を命じた場所。戊辰戦争の弾痕跡もある。」
次に旧滝沢街道を上り途中で白虎隊の戦いについて。戸の口原で戦った白虎隊士二番隊が37人。朝5時頃戦闘開始。戦死者3名。原田隊7名、篠田隊17名に分かれて敗退などの話を聞く。
その次は、戸の口堰の石橋を渡る。不動川に放水し洞門への水路は流れが止まり歩けるようになっていた。ガイドの説明を聞き水路に降りて洞門を歩く。2ヶ所白虎隊士が歩いた手掘りの洞門を見るところがあった。天保8年(1837)には、難関の飯盛山同門が貫通(147m)。現在は昭和59年に改修され、内部は湾曲し、長さは現在約180m、高さ1.7mから1.8m、幅1.8mある。現在でも会津若松市の大切な用水として使用されている。
戊辰戦争の際に戸の口原の戦いで敗れた白虎隊が戸の口堰洞窟を抜け撤退し、実際に通った洞門を歩き、白虎隊の足跡を体感した。さざえ堂の前を抜け、19名の墓前を通り、飯沼貞吉の墓、自刃の地まで歩き鶴ヶ城を眺めて解散した。
「飯盛山洞門くぐり!」
「我ら!白虎隊ウォーク」が飯盛山で開催された。通常、水が絶えず流れている洞門に入れ機会はめったにない。個人、団体いろいろな人が参加していた。今回は、飯盛駐車場で受付を済ませ、北会津公民館と北公民館の講座受講生が一つのグループとして参加した。北公民館の主事 石田明夫氏の説明を聞きながら歩いた。
初めに、国史・旧滝沢本陣横山家住へ。「会津藩主の松平氏が猪苗代町の土津神社や領内の視察、参勤交代の時に滝沢峠越えのために身支度を整えた場所。文禄4年(1596)に建築された東北最古の民家。延宝6年(1678)に本陣が開設された。慶応4年(1868)8月22日藩主松平容保公が白虎隊に出陣を命じた場所。戊辰戦争の弾痕跡もある。」
次に旧滝沢街道を上り途中で白虎隊の戦いについて。戸の口原で戦った白虎隊士二番隊が37人。朝5時頃戦闘開始。戦死者3名。原田隊7名、篠田隊17名に分かれて敗退などの話を聞く。
その次は、戸の口堰の石橋を渡る。不動川に放水し洞門への水路は流れが止まり歩けるようになっていた。ガイドの説明を聞き水路に降りて洞門を歩く。2ヶ所白虎隊士が歩いた手掘りの洞門を見るところがあった。天保8年(1837)には、難関の飯盛山同門が貫通(147m)。現在は昭和59年に改修され、内部は湾曲し、長さは現在約180m、高さ1.7mから1.8m、幅1.8mある。現在でも会津若松市の大切な用水として使用されている。
戊辰戦争の際に戸の口原の戦いで敗れた白虎隊が戸の口堰洞窟を抜け撤退し、実際に通った洞門を歩き、白虎隊の足跡を体感した。さざえ堂の前を抜け、19名の墓前を通り、飯沼貞吉の墓、自刃の地まで歩き鶴ヶ城を眺めて解散した。